海豹の22 赤玉の警報

  赤玉の警報

 その晩であった。夕飯の準備をしてゐた、かめ子が、急に癪気を起して苦しみ始めた。それから親父の卯之助が腰を揉むやら、勇が医者に走るやら、一時は大騒ぎをした。医者がやってきて、モルヒネの注射を二本もしたが、それでも効かなくて、漸く三本目の注射で少し落着いた。親父の卯之助は、心配げにいうた。
『えらいものを、呼寄せて、若には、ほんとに御迷惑ですなア。今のうちに手術させると、早く治るさうですから、伊賀屋の親爺さんに頼んで、前借さしてもらひませうかな』
 勇はそれに賛成した。卯之助は人事のやうにいった。
『一方がうまいことゆけば、片っ方で苫労がふえる、なかなか世渡りっていふものはむつかしいものですなア』
 解りのいゝ兵太郎は、すぐ五十円貸してくれた。そして勝浦には、いゝ病院がないから、新宮まで連れて行けと忠告してくれた。
『ではさういたしませう』
 さういって、二人は、兵太郎の家を出たが、その頃から急に、空模様が悪くなって、浜には警戒の赤玉が上ってゐるのが見えた。
『卯やん、今夜は、こりゃ、一人は船に寝んと危いなア。船を川の方へ入れて、僕でも泊まりに行かうかな』
『いや、若、わしが行きますよ』
『ぢゃあ、僕はこれから、船を川口に入れるから、卯やん、泊まってくれるか? 船に』
『よろしうございますとも!』
 風はだんく激しくなって来た。港の入口にぶっつかる波は、白いしぶきとなって五丈も六丈もはね返してゐた。勇と卯之助は、二つの錨を上げて、船を港の奥にまはし、大きな波が届かない処へ繋ぐことにした。
『こゝに繋いでおけば大丈夫だよ』
『えらい急でしたなア、こりゃ大分沖で難船するものがありますぜ、この調子ぢゃあ』
 そのまゝ卯之助は、船で泊まったが、勇は降りしきる雨の中をずぶ濡れになって家に帰って行った。勇が濡れ鼠のやうになって裏口から入ると、かめ子は、座敷から飛降りて来て、身体にべたべたにひっついたシャツを脱がさうとした。
『ずゐぶん、お濡れになりましたね、まあ、ひどいこと、お風邪召しますと悪いですから、お拭きしませうね』
 如才のないかめ子は、そこにかゝってゐた手拭をはづして、勇の身休を拭き始めた。
『いゝですよ、ねえ、自分でやりますから、その手拭を貸して下さい』
 さういうて、勇は、彼女の手から手拭を奪はうとした。然し彼女はどうしてもその手拭を離さなかった。
『どうぞ私にお拭かせ下さいませ』
 さういひ張ってきかなかった。勇が無煙にそれをもぎとらうとすると、彼女に。笑ひながら彼の腕にぶら下った。やはらかい娘の乳房が勇の胸に触れ、彼女の浴衣が、しょぼしょぼに濡れたけれども、彼女はその手拭を離さなかった。そして勇は、その仕草によって、彼女が、勇をほんとに愛してゐることを知った。それはたゞ一通りの男女の愛といふだけではなく、一種の封建的なお主様に対する敬愛心をも含んでゐるといふことを知った。それで勇は、心持ちよく離した。するとかめ子は、ほゝ笑みながら奥から親父の浴衣を持出してきて、勇に着せ、自分は、汚れたシャツとズボンを裏口へ持って行ってバケツの中で洗ひ、表の竹竿に吊るしてそれを乾かした。

  磯の海月

『あら、いやよ!』
 さういひながら勝浦亭を飛出した、なまめかしい芸者風の女は、菜葉服の上衣を頸に引掛けて、片手にシガレットを、片手に女から取上げた紙片を持ち、すまして歩いてゐた油さしの鈴木伝次郎を追駆けた。そして、右手に持ってゐた紙片を奪ひとって、また勝浦亭に飛んで行った。紙片を奪はれた油さしの鈴木は、
『わしにくれるといってゐて、何ぢゃ!』
 と呟くやうに独言をいひながら、また勝浦亭にひっ返した。
 勝浦亭は沖に出る漁師の需要に応じて生れ出た料理屋で、日本のどの漁港にも発見出来る芸者か淫売婦かわからぬやうな女を数人抱へてゐた。
 今日も鈴木は乗込みが八時で、出帆が九時だといふことを知ってゐながら、女の脇を離れらかないで、梅若といふ芸者といふけれども、実際は三味線の一つも弾けない、今年二十四の大阪から流れて来た女といちゃついてゐた。そのくせ彼は金を持たないので、料理屋の方でもあまり遊ばしてくれなかった。料理屋に入った鈴木は、
『何ぢゃ、おまへはわしに呉れるといったんぢゃないか!』
『うそ! 無理矢理にとって行っといて。ひどいわ! 手をしめられたので。手頸が痛くなっちゃった』
 女は左手の手頸を右手で握り〆めながら、甲高い声で大声にさういうた。
『ぢゃあ、この間おまへにやったあの金を返してくれよ』
『知らないわ! ……もうあなた、船が出ますよ。遅れちゃったら、船長さんに叱られますよ』
 女は庭につっ立ったまゝたしなめるやうに鈴木にさういった。
『うちの船長はなア、鮪釣りはこんど初めてぢゃ。わしが乗らんと船は出帆せんのぢゃ。船は船長で動かんのだからなア! ヘン! 我輩が居らんと、機械の運転が出来んのぢゃ』
 さういって鈴木はまた、庭の一隅に据ゑてあったテーブルの前の椅子に腰を下した。
 実際、女がいふ通り、船長は油さしの鈴本の来るのを待ってゐた。その船長といふのは村上勇のことで、その船は白洋丸であった。