海豹の38 那智と新しい行者

  那智と新しい行者

 秋の空は晴れて、那智の滝は白く勝浦の港の入口から見えてゐた。その滝を見ようと楽しみに出てきた万龍が、滝を見ないで、永遠に失明したと思ふと、走馬燈のやうな因果に、人生を寂しい処だと思はざるを得なかった。
 然し、船主の伊賀兵太郎の顔を見ると、勇の寂しい気持は、すっくり消えてしまった。
『村上さん、北海道へ行ってよかったね、また昨日電報が入ったよ、大漁だって、あしこが済んだら。こんどは台湾へ行くかね? 太平洋を乗廻すんだね、動いとれば。とにかく漁があるんだから、不景気、不景気といって、竦んでゐても仕方がないからね!』
 冒険的な紀州の漁師は、太平洋を自分の家の盥のやうに考へてゐるらしい。釧路位の処を、隣へ行く位にしか思ってゐない。それが、勇の気に入った。
『ぢゃあ、あしこが済んだらば、すぐ船を台湾の高雄に廻していゝですか?』
 勇は兵太郎の顔を見つめ乍ら訊き直した。
『いゝとも、いゝとも、私から無理にさういふ註文は出来ないけれども、あなたからやってくれるなら、うちは仮令損をしてでも、開拓的の仕事なら、やってみる気があるよ。この間ね、銚子から帰って来る途中で、静岡県の焼津へ寄ってきたよ。あしこは感心な漁師が寄ってゐると聞いたが、全く驚いちゃふね。何から何まで産業組合でやってゐるんだね、あしこは、全く、あゝぢゃなくちゃいかんね。焼津から帰ってきてさ、勝浦の少し事の解った連中に話してるんだがな。これはどうしても漁業組合のやうな同業組合だけぢゃいかん。漁業組合の中に産業組合を設けて、みんなして、儲けるやうな工夫をせんと、時代に遅れるといってるんだよ。君もそれには賛成だらう?』
 兵太郎は、煙草の火の消えるのも知らないで、一生懸命に話し込んだ。
『ふム、さうですか! 焼津はそんなにやってゐますか? 三陸地方でも、焼津の名はみな知ってゐますがね。なぜ、そんな実力があるか私は知らなかったですが、成程ね、産業組合が中心になってゐるんですか? あなたのいはれる通り、産業組合でやれば。利益の分配なども公平に行はれるわけですなア』
 勇は身体を前方に突き出してさう答へた。
 兵太郎は、煙管の先に刻煙草をまた詰めながら、話を進めた。
『どうやらね、村上君、僕には、漁村問題解決の緒口が見えたやうな気がするんだよ。漁民の数は、農民の数に比べて少いんだから、一村単位の産業組合をな、漁業組合の内部に作って、口数は、一口から五十口まで持たせ、猶、その上に組合に金を貸してくれるものがあれば。資金を借りてな、沖へ出るものも何株か持ってさ、一年間の漁業の方針を、前年末に決定してゆけば、漁業組合の内部で、打瀬網と延繩との間に喧嘩するやうなことは、なくなると思ふなア』
『全くさうですね、それをつまり、県なら県単位にしてやれば、なほ一層広くなって、今あるやうな、機船底引網と、小さい漁業者の間に起ってゐる問題はなくなる訳ですね』
 と勇は飲みかけた茶をちょっとやめてさういうた。
『まあ、さういふ訳だなア。産業組合が出来さへすれば、今のやうに競争して、稚魚を濫獲するやうなことはなくなるだらうし、魚の資源も、つゞくだらうと思ふなア。やはり、一時に多く儲けるより、永久に食ひはぐれがない方がいゝからなア。事の解った連中は、わしのいふことに賛成するなア。こんど君が、台湾から帰って来るまでには、きっと俺はその組合を作っておくから、君もそれに
賛成してもらひたいなア。発起人の中に入れておくよ』
 そこへ、兵太郎の女房か出てきた。時候の挨拶をした後、夫に何か注意してゐた。すると兵太郎は、
『時に君、いゝ嫁さんの候補者があるが、貰ってくれる気はないか?』
 と切り出した。兵太郎の妻君は、奥から写真を取出してきた。
『うちの親類の者ぢゃがな、うちの女房が君のことを褒めた処が、是非貰ってくれと。先方ぢゃあ乗気なんだが、どうだらうね? 教育も女学校だけは卒業してゐるんだがね、親父は、村の有志家で、村長をしたこともあるんだ、なかなか事も解ってるんだよ。うちの妻の兄貴の娘に当るんぢゃ。資産もなア。村長をしてゐた位だから、少々はあるんだよ……いつも沖に出てゐて、一月に一、二遍しか帰って来ないが。いゝか? と尋ねるとな、そんなことは覚悟の前だと、先方ぢゃいってゐるんだが、どうだらうなア。一つ貰ってくれんか?』
 傍にゐた兵太郎の女房は更に熱心であった。いろいろ娘の良い処を並べて、
『わたしの姪ですから、褒めるんぢゃないんですがね、ほんとにいい娘なんですよ。一つ決心をつけて貰って下さいな。私の兄も、あなたのやうな人であれば、一生娘も仕合せだといって、この間の新聞に出てゐたことに感心してゐたんですよ』
 勇がどうしても快答を与へないので。兵太郎の妻は、
『この写真よりずっと美しい娘ですよ。そりゃ、村でも評判の美しい娘でしてね。貰ひ手も相当にあるんですけれども、親がなかなか許さないんです』
 さういって、兵太郎の妻は、無理にも写真を勇の目の前に差出した。成程、写真でみても可愛らしい顔をしてゐた。然し、勇としては、腹に一物があった。
『――私はまだ結婚するのは早いと思ふんです。太平洋を舞台にして遠洋漁業に出るのには、どうしても、甲種連転士の試験位とっておいた方がいゝやうに思ふんです。それで、少し暇があれば、その試験を受けたいと思ってゐるのです。今、結婚すると、気がくじける恐れかおりますから、まだ結婚したくありませんね』
『さういへばさうだね、ほんとに勉強したい人には、結婚は邪魔になるだらうね』
 兵太郎がさういってしまふものだから、女房もあっ気なく、写真をもって引込んでしまった。その時、勇は、兵太郎に、あらためて母の病状を述べ、入院料が少し不足してゐることを話した。すると事の解った兵太郎は、
『さうですか、そりゃ、お気の毒ですな、いくらでも持って行って下さい。四、五百円の金なら、いつでもお手伝ひしませう』
 さう気軽にいってくれたので、勇はすぐ百五十円を貸して貰ふことに決めた。

  海を無視した教育

 さういってゐる処へ、大阪の魚具商の浅井長古が表から入ってきた。
『よう、久し振りですなア、えらい、あなたは勇敢に、三陸方面で活躍してゐられるさうぢゃありませんか。結構ですなア、こゝの主人も、いゝ船長さんが見付かったといって喜んで居られますぜ。釧路の方はどうだす! 富山県の人があしこには、沢山、流網で行っとるさうですなア。富山県の人は忍耐深いからなア。なかなか偉いですよ』
 さういふ話がきっかけて、兵太郎はすぐ、漁民の窮乏を救済するには、静岡県焼津の、漁業組合でやってゐる産業組合式にやらなければ、どうしても漁村の窮乏を打開することの出来ないことをまた説き出した。それに対して、浅井は頗る疑惑的であった。
『さういはれても、伊賀さん、やはり人物ですぜ、産業組合などいふものは人物がないといふと資本主義の経営よりまだむずかしうおますぜ。何しろ政府は、漁民の教育に対してはずゐぶん冷淡ですからなア。二百五十万の漁民に対して、水産学校といへば、僅か十一しか作ってゐないのですからなア。こんなことでどうして海国日本などいふことがいへますかい。この間新聞に出てゐましたがなア、五噸以上の漁船だけでも、二万四千艘あるさうですが、漁船の総数二十二万位の中にですよ――噸数も百六万噸を越すさうです。実にえらい勢で発達したもんですなア。それだけ漁業が発達してゐるに拘らず、水産教育は実に無視せられてゐるんですからなア。もう少し盛んに人物を作って、漁村を指導しなければ、乱暴に魚を掴へて、結局、漁村も復活する望がなくなってしまふんぢやないでせうか。今の網の方からいってもさうですぜ、伊賀さん、少し網でも研究して、毎年新しい網を作って行ってゐるのは、まあ富山県だけでせうなア。瀬戸内海では、香川県の桝網が少し進歩してゐるやうですが、あしこも頭を使はんやうですなア、漁民が――私の考では――もう少し魚の習性なり、生物学的研究をすると、それによって却って、魚を保護するやうになり、今のやうに、三年間大漁が続いて次の四年間は魚が少しもとれぬといふやうな、実に変な漁業をしなくてもいゝと思ひますなア。いくら産業組合が出来ても、魚が居らなければ結局駄目ですからなア』
 それに対して、兵太郎は、笑ひなからかう答へた。
『そりゃ、浅井さん、水産教育が出来んといふのはあたり前だよ。漁師に金がないんだもの。産業組合でも作ってさ、その儲けで水産学校を設けさへすれば、そりゃ水産学校は発達するさ。しかし、今の処では望がないね、あなたがいはれる通りぢゃ』
 浅井の言葉は、勇にはずゐぶん参考になった。勇が感心して聞いてゐると、浅井は更に辛辣な漁師批評をした。
『何しろ、今までの漁師っていふのは、迷信と、その日限りの生活で満足してゐたのだから、少し儲けがあったっていへば、すぐ飲んで、女郎買ひして、それっきり丸裸体になってしまふんだから、全く話にならないね。ねえ、村上さん、あなたも北の方の漁港を廻られたでせうが。さういふ感じがするでせう?』
 それに対して、勇は頷くよりほかなかった。兵太郎は笑ひながら尋ね返した。
『ぢゃあ、浅井さん、どうしたら、一体、その日暮しの生活が改造出来ると思ふね?』
『それはやはり教育でそうなア。先づ漁師の精神生活を改造しなくちゃならんでせうなア。それに科学的知識が足らんですよ。あれで、人物の居る漁村がいゝ処を見ると、人格教育とでもいふものが、社会改造の根本のやうだなア。どうも』
 いつもながら浅井が賢いことをいふので、勇は、話を聞いてゐて非常に参考になった。そんな暢気な話をしてゐた浅井が、
『御坊行きの船は何時でしたかなア? もう追っつけ来るな。村上さん、あなたは大阪の方へお帰りですか? 田辺から、どうです、一緒に汽車で帰りませんか? 御坊までなら、小さい汽船が、もう追っつけ入ってきますぜ』
 さう注意してくれたので、勇はすぐ浅井と大阪まで同行することに決めた。