海豹の39 海を忘れた文明

  海を忘れた文明

 大阪に着いた勇は、すぐ難波駅から、天王寺の市立病院までタクシーを飛ばした。それは。夜の九時頃であった。病室はみな寝静まってゐた。然し、かめ子は、万龍の傍に茣蓙を布いて坐った儘、雑誌のやうなものを読んでゐた。あまりに勇の帰って来るのが早かったので、かめ子はびっくりしてゐた。
『容態はどうです?』
 さう小さい声で。勇がかめ子に訊いた。
『繃帯はまだ四、五日とれないんださうです。それですから、良くなるか良くならぬか、それが少しも解らないんです』
 その答を聞いて。勇は、少し閉口した。それは北海道のことが心配になってゐたからであった。そのために母の病気もその儘にして引上げなければならぬと思ってゐる位であるから、万龍のことが気になっても、市立病院に置いたまゝ北海道に帰るより仕方がないと思った。
『お父さんは来たかね?』
 と尋ねると、かめ子は元気のない声で答へた。
『いゝえ、まだいらっしやいませんよ。金が要ると思って、よりつかないんぢゃないのでせうか。しかしお医者さんは、一週間も経てば、良くなるか良くならぬか決定するから、それまでが辛抱だとおっしやいますので、私は一週間位なら、中村さんについてゐてあげようと思ってゐるのですの』
 それを聞いて、彼はやっと安心した。残念であったけれども、彼は、その晩すぐ福山まで夜行で帰り、明日北海道へ引返すと、かめ子に告げた。丁度その時、万龍は寝てゐたので、わざと起して別れを告げると、徒らに昂奮させて、どんなことが彼女の身の上に起らぬとも限らないと思ったので、彼は、かめ子を廊下に呼出し、伊賀兵太郎から借りてきた百五十円の中の五十円をかめ子に渡して、二人の小遣に使ってくれというた。
 人の好いかめ子は、
『ぢゃあ、もうお帰りですか? もう一晩居って頂くといゝんですけれどね。けれど。御無理をいってゐても仕方がありませんから、お別れいたしませう。どうか、うちのお父さんによろしくいって下さいましね』
 さういって、かめ子はさっぱりした口調で別れを告げた。
 彼は再び廊下の硝子越しに、万龍の顔を見たが、繃帯の覆うてゐない部分は鼻と口だけであったので、それが万龍であるか誰であるか、差別がつかない程、憐れに見えた。彼は、廊下を歩みながらつくづくと考へた。
『――マグダラのマリアを救うてやらうと思って。少しばかり努力してみたが、六匹までの悪鬼を追払ふことが出来ても、七匹目の悪鬼に彼女の両眼を奪ひ去られた。キリストであれば、その眼をいやして、もとの美しさに彼女を回復させることが出来るだらうが、俺にはその力がないので、諦めて北海道に帰るほか道はない。諸行無常っていふのは、こんなことをいふんだらう。しかし、かうなることが必然なんだから、人間は不道徳な道は歩けないのだ――』
 表へ出ると、飛田遊廓に群る幾百の自動車が、街を埋めて、まるで夜中とは考へられない程、街上は賑やかであった。勇は考へた。
 これらの人々が、万龍のやうな運命になるために、地獄の道を急いでゐるのだ。――と思ふと、彼には、日本の都会の全部が、精神病的に組立てられつゝあることを、感ぜずには居れなかった。彼は、太平洋の怒濤を、怖れなかったけれども、大都会の文明に、腐ってゆく人間の血が、怖ろしいやうに感ぜられた。それで彼は、早く海に帰ることを、楽しみにした。静かな海、ジャズも、牛太郎の呼ぶ声も聞えない厳粛な海、幾千年前から同じ言葉を発音して、同じやうな厳粛さをもって人間に臨む海、そのしぶきに、その怒濤に、無言の世界を語る海。そこに彼は早く帰りたかった。

  陸上の難破船

 倉敷に汽車が着いたのは、真夜中の二時頃であった。こんなに早く着くとは知らなかったので、彼は駅前の宿屋に入って眠り、翌朝早く病院に、母の容態を聞きに行った。母は案外弱ってゐなかった。然し、姉は少し局部が化膿したので心配だと彼に答へた。で、彼は、姉に百円の金を渡して、入院料に使ってくれと言葉を副へた。
『ぢゃあ、お母さん、これで失礼いたします。十一月の末に北海道から帰ってきますから、その時またお目にかゝりませう』
 さういって母に叮嚀なお辞儀をすると、母はにこにこして、
『ありがたう! 勇さん、あなたの親切は忘れませんぞよ』
 といって、母は布団で顔を蔽うた。
 その日の正午、一旦福山に引返した勇は、姉の夫の佐藤邦次郎と、別れを告げ、北陸線をとって、青森に直行した。青森に着いたのは、次の日の暮頃であった。また津軽海峡を北に渡り、美しい岩木山の蔭を薄れゆく月の光でみつめながら函館に着いた。すぐまた釧路行きの急行に乗って、翌日の昼頃、釧路に着いた。丸一商会を訪ねると、丸一商会の主人は。松原敬之助が売上金を持って行って、毎晩のやうに芸者買ひをしてゐるが、あれでいゝのかと、頭から勇の身体に冷水を懸けるやうなことをいうた。それで彼は、すぐ船に帰ると、卯之助は屋形から出てきて、鳥井岩楠が延繩を捲上げるウインチで大怪我したことを報告した。
『どうした! どこをやられた?』
 とあわてて勇が聞き直すと、
『右手の指三本とられちゃったんですよ。可哀さうでしてね。今夜は病院に入ってゐますがね。本人も、船にもう乗せてくれないかといって泣いてゐましたが、大将はそんな解らん人ぢゃないから、悲観しなくてもいゝって、慰めておいたんです。やはり使ってやってくれるでせうなア?、大将』
『うム、使ってやればいゝぢゃないか、ウインチ捲き位出来るだらう、ウインチ捲きが出来なければ、飯炊き位は出来るだらう』
『それ位のことは出来ますよ』
 と、卯之助は笑ひながら答へた。
『然し、卯之助、今、丸一で聞いてきたんだが、松原さんはどうしたんだい? 毎晩。芸者買ひばかりしてゐるっていふがほんとかい?』
『ほんとですとも、あの人には困りますね、あの人は、もう。こんどは頼まないがいゝと思ひますなア、若い者を皆、淫売買ひに連れて行ったり、遊廓に引張って行ったりして困りますですよ。何処に、あんな金があるんですか! 大将、貸してやったんですか?』
 卯之助はびっくりしたやうな顔をして、さう尋ねた。勇が否定的に答へると、卯之助は全く驚いてゐた。またその晩も、松原は帰って来なかった。それで翌日の朝早く、松原と、鳥井岩楠を陸に置いておいて、船は出帆した。そして、三日ばかりの間、釧路沖を、潮流にまかせてくるくる舞ひ廻った。そして相当に漁獲があった。
 四日目に。船が再び釧路に着くと、丸一商会の主人が船まで飛んできて、松原敬之助か、無銭遊興の罪名で、昨夜から留置場に入れられてゐると知らせてくれた。松原のやり方があまり酷いので、その儘にしておかうと思ったが、金を十一円だけ払へば留置場から出て来れると、丸一の主人がいふので。味噌三太郎をやって、その金を、お茶屋に払った。留置場から出てきた松原は、すぐにまた船に帰ってきて、酒を飲み始めた。そして勇に金を百円貸せと怒鳴った。勇が相手にしないで放っておくと、酒乱のやうに暴れ出し、勇が若い癖に生意気だといって、勇を殴らうと飛びかゝって来る。勇が逃げると、こんどはナイフを持って、陸上まで追っかけ廻す。それを見て心配した丸一の親爺は、また警察に電話をかけて、巡査を呼んだ。巡査はすぐ松原を捕繩で縛って、警察へ引張って行った。
『酒乱っていふのは恐ろしいものですなア』
 と丸一の主人は、血相を変へていうた。勇は、仕方なしに次の日も、また松原を乗せないで、漁に出た。然し、松原が可哀さうだったので、漁があったのを幸ひに、あまり長く沖に居らないで、二日目に帰ってきた。その時彼はつくづく考へた。
『――人間の心といふものほどうるさいものはない、自然は実に柔順であるけれども、人間が狂ひ出すと始末におへない。思ったやうに海上に活躍出来ないのも、全く人間が飛躍するやうな精神にならぬからだ。人間の発展を邪魔するものは、結局は人間だ』
 そんなことを考へながら、灰色の釧路の港に帰って来ると、湿度が高いので、特別に胸が圧さへられたやうな気がした。船が港に着くと、また丸一商会の主人が飛んできた。そして、
『酔ひが醒めても、松原は、相変らずあなたを殺すというてゐますから、やはりあの男は、金をやって国に帰らせた方がいゝですなア。あいつは悪い奴ですね。早く帰らせた方かいゝですよ。あの男のいひ分では、あなたのやうに厳格に、酒を飲むな、女を買ふな、といふんぢゃあ、とても馬鹿らしくて海上生活は出来ない。他の船であれば、漁獲高の三割位は公然、代別金の外に漁師が盗んでいいことになってゐるのに、漁師の習慣を知らない村上は、真面目一本槍で、とれたものはみな親方にやってしまふやうな馬鹿野郎だから、あんな奴と一緒にやって居れば、親方だけは喜ぶけれども、使はれてゐる者は、いつまで経っても頭が上らないといぶんです。それに何でもあの男は、妙なことを警察に密告してゐるやうですぜ。それは、あなたた、みんなに分ける筈の代別金を着服して、一人で使ひ込んでゐるといふんださうです。馬鹿らしくて話になりませんが、もし警察から調べにきたら、いゝやうに返事をしておいて下さい』
 さういってゐる処へ、水上警察から呼出しが来た。『そら、来た!』とすぐ陸に飛上って、水上署の司法部に出頭すると、丸一の主人がいふ通り、代別代金の着服問題か出た。それで勇は、丸一商会の主人を証人に呼んで貰って、明細に答へた。然し、取調は、午後二時過ぎまでかゝった。
 その時、勇は、堕落した人間の恐ろしい社会を初めて知った。そして、罪も咎もない人間が、こんなことでよく刑務所に入るのだといふことも知った。彼の嫌疑が晴れて、警察から出て来た時、彼は、アルコール中毒が、こんなに迄、人を迷惑さすかと思って慄ひ上った。彼はすぐ、紀州の本店に電報を打って、松原を解雇することに決めた。そして、丸一商会から受取った売上代金の中から。百円の金を松原に渡してもらふことにして、また沖へ出た。然し、再び釧路に帰ると煩さいことがあるかも知れぬと思ったので、彼はその儘、南の方に帰らうと考へついた。で。もう一度船を港に着けて、病院から鳥井岩楠を退院させ、彼を積んで南に帰る決心をした。それからまた、二日ばかり流網に従事して、二十匹ばかり大きな鮪を掴へたので、その儘二日半日走り続けて、船を宮古に着けた。それはちゃうど、風の強い午後の四時頃であったが、河岸に近い島香商店の主人は、すぐ白洋丸の姿を見て飛出してきた。そして、鮪を値よく買うてくれた上に、すぐ水難救済会の役員達に電話をかけたので、殆ど役員全部と、命を助けられた漁師の四人が、家族と一緒に、お礼に船までやってきた。そしてその晩は、水難救済会の主催で、村上勇の歓迎の宴が大きな料理屋で開かれた。

  三崎港の黎明

 宴会の嫌ひな勇は、無理やりに上席に祭り上げられ酒を飲めと強ひられた。然し、その時、勇は、禁酒会の会員だと称して、酒を一滴も飲まなかった。それがまた宴会の席の話題になって、感心な人は違ふといふことになった。勇が全然酒を飲まないので、宴会は簡単に閉ぢることが出来た。然し、島香の主人の喜びは全く想像以上であった。
『毎年三陸には来るでせう? 是非、宮古を中心にしてやって下さいよ。私達はあなたを水難救済会の特別会員に推薦しますから』
 料理屋からの帰途に、島香の主人はさういうた。
『是非さうさせて貰ひませう。僕は宮古が好きになりましたよ』
 と勇が心持よく返事をすると、島香の主人は乗り気になって、またこんなこともいうた。
『村上さん、もしどうかした都合で、あなたが今の船を降りなくちゃならぬことかあったら、是非うちの船にきて下さい。あなたが来て下さるなら、別に新しい船を一艘買うてもいゝですよ。ほんとですよ! 私は嘘をいひませんから』
 島香は、勇の顔を覗き込んで、歯切れよくさういった。それを聞いて勇は、
『ほんとに頼みますよ、実際またどうして紀州に居れなくなるかも知れませんからね、いつお願ひしなければならないとも限らないんです……実をいひますとね。島香さん、私は少ししたら、船を下りて、甲種二等連転士の資格をとらうと思ってゐるんです。それは、私に一つの野心があるんです。少し快速力の発動機船を拵へましてね、日本からメキシコあたりまで、鮪とりに出掛けたいんですよ。私が、甲種連転士の資格をとったらば、あなたは、十二、三浬出る少しいゝ船を、私のために提供してくれませんか? 船代位は一年間稼げばあげますから』
『そら、面白いですなア。是非やってみませう。あなたであれば、太平洋位往復するのは何でもないでせう』
 さういったので、二人は大声で笑った。
 宮古を出たのは、翌朝の夜明前であった。こんどは釜石にも寄らず、銚子にも着けないで、すぐ船を三日目に、三浦半島の先端にある三崎に入れた。帰りを急ぐので、食糧と水を積込んで、すぐ出帆しようと思ったけれども、飯炊きの朴長順が風邪をひいて発熱をしてゐるので、医者に見せる必要があったものだから、その晩は航海しないことにした。朴の病気は、余り重くなかったので、海岸に近い魚問屋に入って、三崎の景気をいろいろきいてみた。
 そして、三崎の漁民が、非常に裕福であるのに、多少驚いた。その原因に、機船底引網のないことを知って、今更の如く、大いに教へられる処があった。築港が完備し、魚市場が立派に出来上ったに拘らず、土地の漁師で、遠洋漁業に出るものが、まことに珍しく、多くは一本釣りで一年間に八百円から九百円儲けるといふことであった。港にやって来る遠洋漁業の船の中、阿波の船が最も多く、毎年、盛漁期には六十艘位やって来るとのことであった。その次は高知県の船、これが三十艘位、その次が三重県の二十艘、和歌山県は十五、六艘で、その他を合して。約二百五、六十艘の大形発動機船が、城ヶ島の蔭に入って来るといふことであった。
 勇は、話を一々聞いてゐて、機船底引のない漁業地が、いかに祝福せられてゐるかをしみじみと感じた。翌日まだ夜の明けぬ前に白洋丸は、城ヶ島の蔭からサウスウェストのコースをとって、太平洋に出たが、右手に美しい富士山が、青い空の中に紫色に浮かび出てゐた。思はず、勇は、
『あゝ、富士山! 富士山!』
 と、ひとり叫んだ。太陽が昇るとともに、紫の富士は、乙女の皮膚のやうに、薔薇色に変って行った。そして、頂上に積ってゐる雪までが、桃色に見えるのがほんとに美しかった。
 風がないので、鏡のやうな駿河湾に、燃えるやうな富士山が逆倒(さかしま)に映り、結婚式に急ぐ娘が鏡をのぞき込んでゐるやうに見えた。
 その時、勇は、
『俺が詩人であったらなア、租国目本の表象として、この富士山を歌ってやるがなア』
 と、独言をいひながら、操舵室のハンドルを握ったまゝ十分間も、十五分間も曙の富士を凝視し続けた。

  南へ南へ

 風は北だ。南へ走るには持って来いだ。沖は濤が立ってゐるので黒く見える。紀州の山々はもう遥か水平線の下に消えて行ってしまった。今夜は室戸港泊りだ。天気が好いので、遠くまで小さい漁船が漕ぎ出てゐるのが見える。これから二週間位、南太平洋を毎日走り続けるのだと思ふと、勇は愉快でたまらなかった。紀州の勝浦に居ったのは僅か二日間であった。船主の伊賀兵太郎は、『もう少し休んで行け』とすゝめてはくれたが、『少し南洋の漁期に遅れたと思ふから急がねばならぬ』と答へたので、伊賀も喜んで送り出してくれた。
 幸ひ、福山から受取った手紙によると、母は非常に衰弱してゐるけれども、退院してからの経過は比較的良い方だといふことであったし、万龍こと中村栄子も、手術によって片眼だけは視力を少し回復したので、お茶屋に出ることはやめたが、御手洗の卯之助の女房に世話になって、暢気に保養してゐるといふことであった。それで、勇は、かめ子に約束しておいたこともあったので、毎月為送りする月十円の食費を勝浦から送ってやった。それで安心して、彼は、南洋へ出漁する気になった。またその二日間に、松原の代りとして、富山正吉といふ、まだ年の若い、去年機関士の免状をとったばかりの人の好ささうな青年を雇ふことが出来た。他の船員は、北海道に行った人々をその儘、南洋に連れてゆくことにした。乗組員も、北の方の成績が良くて、一人当り百円から百五十円の代別金が当ったので、南に行くことに就いて不服をいふ者は一人も無かった。一時は松原に誘惑されて、多少勇に反抗気分を示してゐた古屋熊楠でさへ、勝浦で代別金を貰ってからは、
『うちの船長はやり手だからなア、村上さんのやうな人について居れば間違はないよ』
 と、同輩に大声にいった程、勇に敬服するやうになった。酒の飲みたい小林猪之助でも、
『うちの船長のやうに、酒も煙草も、女も嫌ひだっていふ人は、今時珍しいなア。あらあ、弘法大師親鸞上人の生れ代りかも知れないぜ。あんな人の脇に居れば、自然人間が善い方に向くやうになるわい。実際、女郎買ひもせず。酒も飲まなければ、妻子を養ふ位は何でもないなア、とってきた金を八分通りまで酒と女に使ってしまふから残らないのだよ。うちの船長のやうに、乗組員に金を使はさないやうにしてくれたらば、金も自然残るわなア』
 さういって、彼はにこにこしながら、貰った代別金百五十円全部を、高知県安芸町の我家へ、郵便為替で送った。
 殊に、乗組員の感激したのは。勇が、鳥井岩楠に対する親切であった。普通ならば下船させられる処を、彼は油さしとして一人前貰って、南洋に連れて行かれることになったので、乗組員の空気は非常に良かった。
 室戸を出た船は、次の晩、足摺崎のとっ鼻に近く太平洋に面した清水港に泊まった。そこは、近年、遠洋漁業が盛んになってから、日本で有名になった港で、高知生れの小林猪之助にいはすと、日本一の良い漁港だといふものだから、勇は研究のためにも是非寄ってみたいと思った。それで其処に入った。
 湾は深かった。水は青かった。白洋丸がそこに着いたのは、澄み切った秋の日の午後四時頃であった。時も良かったが、湾内の風景が特別に美しく見えた。実際、小林がいふ通り、釧路に比べても、または宮古に比べても、釜石に比べても、勿論、銚子や三崎に比べても、見劣りのしない良い漁港だと思はれた。勿論それは漁港としての価値であって、大きな商船や軍艦をつけたりするには、少し狭過ぎる感じがした。不便さからいへば、三崎によく似てゐた。然し、三崎が何となしにハイカラなのに比べて、清水は南洋の何処かの離れ島の港のやうな感じがする処だった。唯、魚市場の位置が馬鹿に三崎によく似てゐたので、すぐ彼は三崎を思ひ出した。船を魚市場の岸壁に着けて。小林と二人で散歩すると、第一目に着くのはカフェーと料現屋の多いことであった。何でもカフェーと料理屋が百五十軒位あるとかで、勇は、漁師町の淫蕩な空気に、目を丸くするよりはかなかった。一、二町歩いてゐる中に、すぐ、舞妓のやうな風采をしてゐる小娘の一団に、二組もぶつかった。その小娘達に、勇の前を歩いてゐる漁師らしい男が、わざとぶっかって、猥褻(わいせつ)なことを大声で叫びながら歩いてゆく。
『不景気でもこの通りですからなア、少し景気がいゝっていったらとても話にならないんですよ。漁師はまるで女に入れ上げるために沖に出て行くやうなものですよ』
 勇は小林の面白い話を聞かうと思っだので、彼をぜんざい屋に連れ込んだ。すると小林は、面白がって、こんなことをいひ出した。
『船長さん、私がなア、高知県の漁民騒動の張本人の一人なんですよ、ほんといひますとなア。あなた、あの時のことを新聞で読んで覚えて居られるでせう。そら、えらいことでしたぜ』
 勇が、ぼんやりしか覚えてゐないと答へると、小林は漁民騒動のことを面白さうに物語った。
『県庁を占領してやりましたんですよ。ところが、向ふは消防夫を使ひましてなア、水を頭から被せやがるんで、一万人位居った漁師は、みんなずぶ濡れになりましたよ。何しろ、機船底引網で何も漁れなくなるでせう。いくら請願しても県庁ぢゃあ知らぬ顔するので、癩にさはって沿岸の漁業組合にみんな合図をしておき、その日は夜明けを待って、船で浦戸湾に集り、それから、県庁へ押かけることにしたんですよ。まあ、来るわ、来るわ。私は、あんなに漁師が寄ったのを見たことがありませんなア。警官が出てきて、あっちへ行けとか、垣へ寄ったらいかんとか喧しくいひましたがなア、漁師は死物狂ひですからなア。土べたの上に寝転んで動かなかったんですよ――機船底引網を禁止するまで、我々は断然其処を動かないといって頑張ったんです。その時、私などは、掴へられましてなア。六ケ月ばかり未決監に居たんですが、執行猶予になりましてなア。国に居っても詰らぬから、行かんかといった者があったので、紀州へやって来たのです。然し騒動したおかげで、もと百艘からあった手繰(機船底引のこと)が、今は半分以下に減りましたよ』
 さういってゐる処へ、ぜんざい屋のおかみさんが、大きな茶碗に田舎ぞんざいを山盛り盛って来た。ぞんざいをすゝり乍ら、小林猪之助の漁民騒動の述懐が続いた。
『実際、あの機船底引網は弱い者苛めですよ。ありゃ日本の漁業を亡ぼす大きな原因を作りますなア。高知県の漁民はあれでほんとに困って居りますよ。この間三崎へ行って、羨ましくなりましたなア……然し、船長さん、あなた、気がおつきになりましたか? 高知県にはなア、野中兼山先生っていふ。ど偉い先生が居りましたんでなア。いまだに魚付林でも、築磯漁業でも、兼山先生が教へてくれた通り、やって居りますですよ。野中兼山先生は、高知県の漁師には恩人ですなア。漁港などでも、いまだに兼山先生がつくったのを、その儘使ってゐる処が沢山ありますよ』