海豹の40 足摺崎の秋の夜

  足摺崎の秋の夜

 勇は、それから、猪之助に、高知県の網のこと、遠洋漁業のことなども教へてもらった。すると。猪之助は、それに関連して面白いことをいうた。
『網は、神奈川県や富山県に比べてあまり発達してゐないやうですが、遠洋漁業の精神は盛んなやうですなア。高知の近所に宇佐っていふ処がありますが、そこから東の者は全部北の方へ出かけ、そこから西の方の人間は大抵九州から南へ出かけるらしいですなア。面白いのは、鰤(ぶり)が同じことをするのですよ。須崎の水産試験場でいってゐましたがね、鰤の稚魚を三月前に放流すると南の方へ行くさうで、三月以後に放流すると、北へ行くさうです。人間と鰤の活動振りが似てゐるから面白いぢゃありませんか! ハハハヽヽヽヽ』
 それから小林は、勇に面白い質問をした。
『船長さん、あなたは、「もじゃこ」といふ魚と、「わかな」と「はまち」と[めじろ]と「鰤」の区別を知っとってですか?』
 勿論そんなくはしいことを勇は知るはずがなかった。すると大きな眼玉を持った顔の長い猪之助は、げらげら笑ひながら、
『そら、みな同じ魚の大きい奴と小さい奴の区別だけなんですよ。「もじゃこ」っていふのはね、船長さん、鰤の子なんですよ、まだ一寸位で、重さが一匁あるかなしの奴をいふんです。そいつがね、五寸位になると、「わかな」といふのになりましてなア。一尺位になると「はまち」といふ名に変るんです。それが二尺位になりますとな、「めじろ」といふ名に変り、三尺位になって鰤といふ名がつくんですよ。船長さんは、船には玄人でも、私のやうに小さい時から、魚で苦労して居らんから、解らんのは当り前ぢゃなア、ハハハハヽヽ』
 と。猪之助は、大きな口を開いて、高声に笑った。
『こいつは一本まゐったなア』
 と、勇は、猪之助の笑ひに和した。
 それから話は、鰯に移った。
『船長さん。土佐の鰹節は昔から有名ですがな、この頃、鰹より収
入があるのは鰯ですよ。毎年百万円とは、この不景気でも漁獲高が下らんやうですなア、そして、黒潮の関係でもあるんでせうなア、年中鰯がとれるんですから、面白いですよ.例へば、高知県の東部海岸へ行きますとなア、年に四回位、地引網で縮緬じゃこがとれてゐますよ。もちろん、「うるめ」っていふ奴は、五月から十二月まで、この清水あたりにとれるんですが、大阪あたりで、「おゝば鰯」(真鰯)っていふ奴は、室戸あたりで、九月から翌年の三月まで漁れるんですよ。鰯っていふ奴は、日本の国の宝ですなア』
『さうだね、鰯を食へば、日本人は困らないなア。鮪がとれない時でも、鰯だけはとれるんだからなア。日本政府は、もう少し鰯で立つ政策をとるといゝと思ふがなア。僕の小さい時などは、瀬戸内海でも鰯が沢山とれたものだが、だんく近頃減ったやうだ。然し、九十九里浜などは、鰯だけで食ってゐるやうぢゃないか。あしこは高知県とちかって、十一月十日頃から翌年の七月十日頃までが、漁期だってなア。然し、今年は室蘭あたりで、馬鹿に鰯がとれたやうだったなア。台湾の砂糖黍の肥料に一万五千噸の鰯を積んだっていふぢゃないか。青森県岩手県ぢゃあ、折々食ふものに困って、草の根を掘って食ってゐるといふんだから、砂糖黍に食はす代りに、人間に食はしてやったらいゝのになア』
 小林は、ぜんざいのお代りを出した。
『をかしいものですね、鰯が岸によって来ると、その後に鯖や鯵がついてきてその鯖や鯵について鮪がやって来るんですなア、だから清水は昔から、土佐ぢゃあ一番魚がとれる処になってゐるんですよ』
 ぜんざい屋を出た勇は、船にかへった。然し、清水港を中心とする漁業の話が聞きたかったので、隣の鮪船に入って、いろいろ話を聞いた。そして近頃は、鰹がだんだん駄目になり、鮪漁業が擡頭してきたことを知った。そして清水に船を入れてゐるものは、宮崎県の者が多く、土佐の者が割に少いといふことだった。こゝでも魚市場でとる歩合金の問題が、宮崎県の漁民と、清水の町民との論争の原因となり。一時は宮崎県の船が着かないので、湾内が寂れたことがあったと聞かされて、勇は淋しい気持になった。
『――なぜこんなに遠洋漁業者の間に統一がないだらうか? なぜもう少し波の上で働く人々を、国民が可愛がってやらないだらうか?――』
 そんなことを彼は考へながら、猶も話を聞き続けた。眉毛の太い銅色をした四十恰好の筋肉の逞しい、訥朴な漁師は、ぽつりぽつり言葉を続けた。
『然し、あなたの処はどうですか? 清水でも近頃は魚がとれませんでなア。仕舞金(賞誉を意味した代別金)だけでは足りないで、前借するやうになりましたわい。然し、船主の方でも金がないので、その前借も近頃は三十円位しか貸してくれませんよ。こんなに魚がとれないと、貰ふ歩合も少くなりましてなア。船と網とに一割位ひかれて、あとの三割を波の上に働くわし等に分けてくれるんだが、今年などは、一月働いて十五円位にしかならんですから、とても妻子は養へんですなア』
『そんなに収入が少くて。どうしてやってゆけますか?』
 勇がいぶかって尋ねると。灰色の眼をした漁師は、笑ひながら答へた。
『そりゃ、とも食ひしてゐるんですよ。親類に借りに歩き、友達と融達しあってやってゐるのです』
 漁師の声が消えると、海岸の料理屋で弾いてゐる三味線の乱れた調子が、船の屋形に響いてくる。それから、勇は、鰹釣りの話をきかせて貰った。ゆっくりした口調で漁師は、ぽつりぽつり勇がまだ聞いたことのない話を物語った。
『鰹釣りはな、親譲りぢゃてよ。小さい時から二、三年飯炊きに連れて行ってな。それから、「餌差変へ」に三、四年連れてゆき、それが済むと、「とも下し」に使ひ、「へのも舵」に出世して、「へのり」になり、「網はり」(副船長)になるのは余程年が行って、腕がきくやうにならぬとなれんなア。何しろ二、三時間で、二万三万も釣るんぢゃからなア。よほど機敏な頭のいゝものでないと、それだけ釣れんわいな』
 勇は鰹釣りの地位が階級的になってゐるのを知って。技術の上にある面白い差別を考へざるを得なかった。
 活動写真を見に行ってゐた若い者らはみな帰ってきた。その物音を聞いて、勇もまた船に帰った。夜の秋の空は透きとほるやうに紺色に澄み、星は銀砂をまいたやうに光ってゐた。東の空に見えるプレアデスの美しさが殊の外勇の注意を惹いた。大きな漁船の右舷左舷に吊った青い灯や赤い灯が、海面に反射して。港は平和に見えた。

  波上の戦士

 清水を出た船は、翌日の黄昏時に、日向の油津に着いた。こゝからは台湾に出漁してゐる船が沢山あるので、南洋漁業の話をきくのに、非常に便宜を得た。油津で延繩の修繕をしてゐた時に、針の話から、高知生れの小林猪之助が、土佐の広瀬丹吉の釣針の話をした。
『まあ、「丹吉」の針が日本一でせうなア。近頃兵庫でも、広島でも機械で釣針を作るやうになったですが、やはり手で作る丹吉のよい針には及びませんなア。三浦半島の三崎でも丹吉の針が一番いゝっていってゐましたが、鮪の延繩の針も丹吉のに限りますぜ』
 と勇に向ってお国自慢を始めた。然し、それには、船の者は誰も反対するものがなかった。卯之助までが、丹吉の針が良いといって褒めた。それまで。白洋丸はどこの針でも使ってゐたが、小林と卯之助が褒めるので、それからは丹吉の針ばかり使ふことにした。
『面白いものですなア。もう丹吉は、天明年間から今日まで百五十年以上も魚を釣る針を専門に造ってゐるのださうぢゃが、魚の口の恰好や魚の習性に従って、針の恰好を全然変へてゐるから面白いぢゃありませんか。あしこへ行ってみると。魚の釣針でも沢山ありますなア。種類でも百五、六十種あると、あしこの番頭がいってゐましたが、並べてみると面白いものですなア』
 小林にさうした話を聞かされた勇は、ひとり言のやうにいうた。
『ぢゃあ、こんど帰りに、浦戸湾にでも船を着けて、丹吉の針を研究に行くかな』
 港の岸辺には、暢気さうに、太公望をきめこんだ、ちぬ釣りのアマチュア連が、竿の先を見つめて、物もいはないで静まりかへってゐた。
 油津を出た船は大隅の沖で大暴風雨でやられ辛うじて奄美大島に逃げ込んだ。そこに二日碇泊して後、三日目にやっと、那覇の港に船を入れた。那覇珊瑚礁の悪い港で、よくまあこんな処に、大阪商船の大きな船が着くと思ふ位であった。然し、船を入れた翌日、また暴風雨に見舞はれたので、その日を利用して、那覇の南数里の処に根拠地を持ってゐる、日本で一番勇敢な糸満の漁村を訪問した。軒先に虫下しにするマクニン藻を底の浅い竹籠に入れて乾してあった。豚の血を船べりに塗った小さいボートが岸に引上げられてあった。狭い裏長屋に、裸体ン坊が走り廻ってゐた。部落を廻ったけれども。別に内地の部落と少しも変りがなかった。賑やかな市場も見た。しかしそれは、三崎や清水や銚子のやうな大きなものではなかった。たゞ、もし違ってゐるものがあるとすれば、糸満部落の娘の顔が非常に美しいことであった。まるで西洋人そっくりの顔をしていた。それで那覇に帰ってきいてみると、やはり西洋人と日本人の合の子だといふことがわかった。それにしても、数干の糸満部落民が。世界を股にかけて、南洋は勿論、布畦、メキシコ、南米の漁業を、冒険的に開拓してくれるその勇気には、勇も敬服せざるを得なかった。
『あの人達は沈まない船を持ってゐるんですからなア、豚の血を塗った独本船(まるきぶね)を汽船に積んで、魚のゐる処なら世界中何処にでも行くのだし、子供の時から水の中にもぐって、生きた儘どんな魚でも掴へてくるっていふんですから、えらいものですよ』
 と、隣の船の船頭は、勇が糸満部落を訪問してきたと聞いて糸満人を激賞した。
 那覇を出た船は沖繩列島に沿うて南に下った。そして、台湾の西北端に位する漁港として有名な蘇澳(スオー)の港に着いたのは、四日目の朝であった。紀州の勝浦を出てから、二週間余波に揺られて、約千三百浬の航程を三十五噸の小さい船でやってきたと思へば、愉快でたまらなかった。然しまた、風の都合が悪くって、途中で暇どったことが、かへって漁業の知識を増すことになって、勇は愉快でたまらなかった。
 蘇澳には、油津を中心にした漁民が、『かぢき』の突ン棒漁業に従事してゐるのを見て。壮快な感じがした。突ン棒漁業といふのは、船の舶先に立ってゐて、海面下に泳いでゐる『かぢき』の胴体目懸けて、槍を突きさすのである。勇はその勇壮な光景を見て壇の浦の源平合戦を見てゐるやうな気がした。突ン棒漁業に精しい無口の広瀬和造は、九十九里で、少しの間、鰯の揚網(あぐり)組に働いてゐた関係上、面白い話を勇に聞かせた。
『大将、突ン棒ってやつは、昔から千葉県にはあったさうですが、中興の祖っていふのは、安房の国の勝山町岩井袋の三橋由太郎っていふ老人ださうですよ。この人が名人で、千葉県に「かぢき」の突ン棒が明治になって大いに興り、それが紀州に伝はり、紀州から高知県に弘まり、高知県から宮崎県に伝はって、一派は対島海峡で突ン棒漁業をやり、他の一派が台湾に来てゐるさうですなア』
 熟練した突ソ棒の名人は、魚のどの部分に槍をつき刺すか、それさへ思ったやうになるといふことを聞かされて、勇は人間の筋肉運動の恐しさに舌を捲いた。広瀬は、突ン棒の名人が、魚が逃げた場合でも、どちらへ向って再び出てくるかを、かぢきの種類で、よく見極めることが出来ると説明した。
 勇は、然し蘇澳には長くゐないで、すぐ船を高雄にまはすことに決めた。それでも。基隆の魚市場をよく見ておく必要があったので、高雄に行く途中、ちよっと寄ってみたが、土佐の清水の魚市場位しかなかったので、少し失望した。然し、そこを訪問してびっくりしたのは、支那海を中心にして働いてゐたトロールや、機船手繰網は、漁獲高が少いので、魚市場の奥の船溜りに幾十艘となく、すし詰めになって、遊んでゐるといふことであった。然し、勇は、基隆の築港が完備して、港内にあたゝかい空気が漂うてゐるのが嬉しかった。