海豹の41 無風帯

  無風帯

 高雄に入ったのは、それから二日目の昼頃であった。港に入ったすぐ左手に、漁船のために造られた立派な波止場があった。そこは港でも最も繁華な哨船町と港町の間に挾まれてゐて、海に疲れた人を慰めるには、もってこいの処であった。その日彼は。鮪の餌差(えさ)に
する風目魚のことを、水産会社の人に聞かせられて、高雄の港まで、虱目魚(サバヒー)の養殖場を見に行った。見渡す限り、高雄と台南との間の海岸線は、虱目魚養殖の浅い池であった。養殖高は一年間に約二百八十万円、約一万一千町歩の鹹水(かんすい)養殖面積があると聞かされて、彼は、台湾人の間に行はれてゐる養殖事業の盛んなのに驚いた。稚
魚を河口で捕へ、それを人糞や豚糞で間接にわかしたプランクトン(浮遊動物)の密生してゐる池の中に飼育するのであるが、勇はすぐ、奈良県郡山の金魚池のことを思ひ出した。郡山でも金魚を養ふために、池の中に人糞をまいて、プランクトンを製造するのであるが、台湾で虱目魚を養殖する方法はもう少し念入りであった。豆粕や油粕を人糞でわいたプランクトンに食はし、それを一旦、支那から輸入した茶糟で消毒してしまひ、そのあとに出来た藻に発生したプランクトンを虱目魚に食はすといふ、手数のかゝったことをしてゐるのであった。
 勇は、支那人の賢い養殖技術の発達に目を丸くした。そして彼が、その虱目魚を、一匹五銭の高い値で鮪の餌差として売付けられた時に、もう一度目を丸くした。すゞきに似た銀色をした細かい鱗のついた虱目魚を、その晩焼いて食ってみたがとてもうまいのに感心した。勇はそれから、港にかゝってゐる鮪船を廻って、南洋漁業の研究をした。鹿児島県から来てゐた百噸級七十五馬力の大きな鮪船の船長は特に精しく教へてくれた。
『――なあに、何でもありませんよ。南の方は三陸方面のやうに波がありませんから、楽なもんですよ。そして日本の海のやうに荒してありませんからね、内地の海に比べちゃあ、三倍位とれますよ。なあに、コースを南へ南へとってゆけば、盲でもマニラに着くんだから、心配なんか少しも要りませんよ。大抵の人は三つ目か四つ目の燈台位まで行きますがな、――四つ目の燈台といふのは、ルソン島西海岸にある燈台を日本の漁師が北から数へてさういふのですがね、なほ南に南に下って行って、スールー海まで出ると、鮪も鰹もうじょうじょ居りますよ。然し、こいつは味が悪いんで、値が悪いですよ』
 それだけ聞いて、勇は、もう占めたと心の中で干を叩いた。
 十一月だといふのに。高雄はまるで内地の八月のやうに暑かった。直射する太陽がデッキの諸道具に反射して、目が痛いやうに感ぜられた。一航海が大抵十四、五日か十六、七日帰って来ないので、もしものことがあると悪いと思って、勇は早速、紀州の伊賀兵太郎と、福山の佐藤邦次郎に電報を打った。殊に、福山の方は、母が世話になってゐるので、母の様子も聞いてやった。
 その返電がきた。それには、心配しなくともよい、といふ元気のつくやうな報せだったので、彼は、翌朝夜明前に、高雄の港を出帆した。実際、冬の熱帯の海は、畳の上でも走るやうであった。教へられた通り、ルソン島の第一燈台が二日目に見えた。それからぼつぼつ仕事を始めた。愉快な作業を毎日続けた。そして、宮古や釧路あたりの作業に比べて三分の一も骨が折れなかった。
 恰度十七日目に第一回の航海から帰ってきたが、船の氷蔵には鮪が一杯に詰まって、黒く塗った船底が、波にかくれて見えなくなってゐた。十七日目に帰ってきても、勇は休むことか出来なかった。卯之助を、餌差にする虱目魚の買付に廻し、自分は燃料の買付、鮪の売上代金の受取勘定などに一日忙しく働かねばならなかった。漁師達も、港に入ったからといって、遊ぶ訳にいかなかった。何千尋からある延繩を一々検査して。針の落ちてゐるものには針をつけ、縄のいたんでゐる所には新しいものを付け変へねばならなかった。勿論、漁師達にも半日の休暇を与へ、活動写真の見たいものには小遣を与へて、自由に見させたが、勇と卯之助だけは、いつもあとに残って、宵の口からぐっすり寝てしまふのが、いつもの習慣であった。
 余程スルー海にも出たかった。然し、母への為送りを心配したので、彼はあまり冒険をせず、支那本土とマニラの間にある魚礁を目あてに航海を続けた。微風がやはらかに頬をなめて、薄紅に東が白んでくる熱帯の曙を、彼はどんなに愛したか知れない。北の海にゐるのと違って炭火で暖をとる必要はないし、いつ海の中に飛込んでも、冷い感じがしないので、熱帯の冬の漁業を彼は、心から楽しんだ。

  海南島の海賊

 かうして、十二月も無事にすみ、比較的豊かな正月を高雄の港で送った。青年達を自由に上陸さした勇は、甲種二等運転士の試験を受けようと、正月一日から航海学や数学の勉強に専念した。卯之助はそれを見て、
『大将、えらい精が出ますなア。あなたのやうに勉強するのもよいが、わしは、病気するかと思って心配するよ』
 と気遣ってくれた。
 一月四日に、船はまた高雄を出た。こんどはあまり日本の漁師の行かない海南島東海岸をさぐってやらうと思って、勇はわざと、船を西南西に向けた。高雄を出てから三日目に。延繩を入れてみたが、一日に三十匹位、『きはだ』(鮪の一種で日本の南部によくとれる種類である)が獲れた。四日それが続いたので、氷蔵はすぐ一杯になった。
『大将、もう少し氷を持ってくりゃよかったですなア。百円位の氷ぢゃ足りませんなア』
 卯之助が、さういってゐる時であった。艫の方から。支那のジャンクともつかない、然し、支那流の帆を上げた、三十噸位の妙な発動機船が、白洋丸を追っかけて来るやうに見えた。それに最初気がついたのは、デッキで息を入れてゐた機関士の富山であった。艫では古屋が中心になって、正月休みに高雄の遊廓に遊びに行った話がはずんでいた。富山が、
『変な船だなア、おい。あの船は、本船のコースをずっと追駆けて来てゐるぞ!』
 さういふと、朝の仕事として延繩の繕ひをしてゐた七人の若者は、みな手を止めて富山の指差す方を凝視した。卯之助が、そのことを操舵室にゐた勇に通じたので、勇は舵を卯之助に渡し双眼鏡を持って、艫の方にやってきた。その時はまだ七、八町離れてゐたので、デッキの上に何が置いてあるのか、双眼鏡ではよく見えなかった。たゞ、表にバナナの龍のやうなものが沢山積まれてあったので、勇は漫然と、
『運送船のやうだなア、香港にでもゆくのと違ふかなア?』
 と独言のやうにいうた。それで一時緊張してゐた漁師達は、また正月らしい賑やかな話に花を咲かせた。然し、富山は、勇が操舵室に帰った後もまだその発動機の付いたジャンク船に視線を向けてゐた。だんだん船は近くよって来る。そして、僅か一町位になった。すると、驚いたことには、そのジャンク船から、白洋丸目懸けて、鉄砲を撃つ者があった。
『ヒューツ』
 と、丸(たま)が飛んできた。と思った瞬間、屋形の艫の柱に命中した。その下に腰かけていた富山の頭に少しで当るところであった。その時、富山は絶叫した。
『おい! こりゃ、海賊だぞ! 皆それを放っといて準備しろ!』
 富山と味噌の二人は、這ひながら操舵室の方へ報告に行った。広瀬と川端は、これもまた這ひながら尾形の中に入って、隠れ場を求めた。小林猪之助は、海軍ナイフを探した。古屋熊楠は、炊事場から出刀刄丁を取出してきた。卯之助は。勇から預ってゐたブローニングのピストルを棚から取下した。味噌はまた這ひながら、表から帰ってきた。そして、勇の命令をみんなに伝へた。
『気を落着けて、慌てないやうに! 先方が乱暴するまで、決してこちらから手出しをしないやうに』
 と、勇は短い言葉で乗組員の軽挙妄動を警戒した。富山は機関室に入って、最大速力を出し始めた。然し、延繩は長くひいてゐるし、速力はあまり出ない機関だし、いくら油を焚いても七浬以上は出なかった。こちらが速力を出しだしたので、ジャンク船からは、機関銃を撃も始めた。その一発が操舵室の硝子に当ったらしい。表に硝子の壊れる音がした。勇は、この上船が走ると、撃沈させられる恐れがあると思って、船をぱたりと止めた。すると、十五間位の処に接近してゐたジャンク船は、すぐ舷側に船を着け、二人の壮漢が、白洋丸に飛込んできた。一人はピストルを持って操舵室に廻り、もう一人は艫に廻った。操舵室に入ってきたものは、勇にピストルをつきつけて、何か解らぬことを支那語でいうた。その時、勇は、至極落着いて、眼を開いた儘、全能なる神に祈ってゐた。
 そして、殺さば殺せといふ態度で、度胸を据えてゐた。すると、海賊は。また支那語で怒鳴りながら、勇にピストルを向けた。それで彼は飛懸って行って、赤手空拳で戦った。古屋がそこへ応援にやってきた。勇は背中を敵に斬られた。
 そこへまたもう一人のジャケツをきた背の低い支那人がピストルを持ってきた。そして。古屋目懸けて一発放した。然しn幸ひ、古屋の右の耳をかすめて、操舵室の板壁に当った。二度目のやつは、可哀さうに、仲間の頭に命中した。最初きた海賊は、其処に倒れてしまった。古屋はすぐサイドにゐる男に飛懸った。そこへ、小林がまた応援にやってきた。そして彼のピストルをも、もぎ取らうと努力した。後から飛付いた小林は、彼の頸を両手で締めてそこに引倒した。敵はもがいてゐたが、古屋は拳骨で鼻柱の上をぶん殴り、めくらみが来てゐる瞬間に、小林と二人でその男を海の中にたゝき込んだ。
 一方、卯之助は持ってゐたブローニング銃で、最初艫の方に廻ってきた海賊を一撃の下に打倒し、勇敢にも逆襲を試みて、敵のジャンク船に飛込んで行った。三、四発銃声が聞えた。味噌が、石油を注いだ糸屑に火を付けて、隣の船に投込んだ。黒煙が上った。帆が燃え出した。