海豹の33 『やあ! 人間ぢゃ!』

 『やあ! 人間ぢゃ!』

『やあ! 人間ぢゃ、人間ぢゃ! 頭が見えた!』
 さういった瞬間に、また船は、大きなうねりのために、漂流してゐる人間と、あと先に隔離されてしまった。続けて、勇が、汽笛を吹嗚らしたけれども、漂流してゐる者は余程水を飲んでゐると見えて、声を立てて助けを求める者とては一人も無かった。勇も、確かに人間が漂流してゐるらしい形跡を認めたので、少し危険ではあったが、機船を百八十度の角度に向け直して、後方を捜索することにした。
 まづ彼は、大きな濤を上る時から斜に進路をとり、大きなうねりの頂上でぐっと船を廻して、降ろ時には六十度位の回転をするやうに、舵をとり、難なく困難な暴風雨中の作業の妙味をみんなに見せ、島香の主人に舌を捲かせた。恰度船首(みよし)を廻らすと、船の左側に板を持った一人の漁師が、疲れきって。海の上を漂うてゐた。卯之助が、
『おーい! 放るぞ!』
 と大声で叫びながら、その板の前に綱を投げたけれども、その老人は、たゞ、手を左右に振って、掴む元気がないといふことを信号した。
『困つたなア、あの親爺さんは、水を沢山飲んでゐると見えて、綱を拾ふ元気がないやうだぜ』
 巡査の一人がさういった。それを見た勇は、卯之助にいった。
『卯之助! 舵をとってくれ! ヘッドをいつも、濤と直角に持ってゐてくれよ!』
 卯之助が、操舵室に入ってくるや、彼はすぐ舷側に飛出して、合羽を放り出し、ズボンも上衣も脱ぎ捨てて、島香の主人にいうた。
『島香さん! 飛込んで行って、あの親爺さんを、綱でそっと吊上げるやうに括ってきますからなア、みんなで引上げて下さいよ』
 さういふが早いか、海豹の如く、勇は左舷のデッキから、その老人の浮いてゐる処を目懸けて、つめたい水の中にザブーンと飛込んだ。雨は降る、風は吹く。闇は暗い。船の上で見てゐた一行の者は勇が飛込んだきり。なかく浮いて来ないので、どうなったかと暫く心配してゐた。そのうちに、船はまた濤の底に滑り落ちる。年寄りの漁師は、後の濤の上に浮き上る。こんど船が濤の上に浮かび上って、老人の身体が下に見えた時には、どうして泳ぎついたか、勇はもう老人の肩から、彼が飛込む時、船と連絡さすために持って行ったロープで彼の身体を結へてゐた。そして、両手を上げて、
『よっしゃこい!』
 と大声で叫んだ。みんな慌ててゐた。で、ロープを早く引張りすぎた。そのために老人は、板を放した。その時、老人は少し水を飲んだらしかった。両手をあげて緩やかに引張れと信号してゐるやうだったが、デッキの上にゐる者には、それが判らなかった。彼はぶるぶるっと水底に沈み、数秒の間浮いて来なかった。アセチレン瓦斯の光で、それと気のついた勇は、
『もう少し、ゆっくり!』
 と大声で怒鳴ったが、風が激しいので、デッキには聞えさうにもなかった。その瞬胆にまた、大きな濤が勇の上に砕けた。そして彼自らが、こんどは板にとっつかまらなければならなかった。それでも、とうとう老人はデッキの上に引張り上げられた。それを濤の上で見てゐた勇は、ほんとに。嬉しかった。で、彼は、一生懸命に船に近づかうと泳いだけれども、風と潮の関係で、どうしても流されて、だんだん船に遠くなるばかりであった。船の方でも、なかなか気が気でないと見え、船首を勇の方に向けて、救に来ようとしてゐるらしかった。然し卯之助には。そんな刹那、激浪の中で船を操縦する手腕がなかった。潮の流れがきついので、見る見るうちに、船と勇とは二十間三十間と離れて行った。
『――困ったことになったなア。チェッ! 慌てたって仕方がないが、船の者は心配してるだらう。ど胆を据ゑて、板にくっ付いて、流れるだけ流れとれ――』
 かう考へた勇は、たゞ、鱶のことだけ心配した。それで彼は、褌をわざわざ長く尻の方に伸ばして、鱶の来襲に備へた。そして、商船学校に居た時に、よく漂流する時の心得を、聞かされた通り、あまり泳いでかへって溺れることが多いから、暢気に板を抱へて流れて居ればよいと、覚悟をきめた。これまでも、屡々水難の時に、泳いで逃げたものが、大抵溺れて死んだといふことを聞いてゐたので、出来れば板を見つけて、暢気にその上に寝で居らうと覚悟を決めた。

  動中静

 雷は嗚る! 稲光が光る。
 風は物凄い程、激浪の鶏冠(とさか)を打砕いて、ゆっくり流れてゐる勇に、幾度水を飲ましたか知れなかった。そんな時には、いくら勇敢な勇も、自然と、天地の神に祈りたくなった。
『――天の父なる神様、私を助けて下さいとはいひません。然し、この難破してゐる哀れな漁師達を、どうか助けさせて下さい』
 彼は暫く目を閉ぢて、水に浮んだ儘、両手に大きな板を持って神に祈ったが、その時だけは、濤の音も、風の響も彼には聞えなかった。たゞ畳の上にでも寝てゐるかのやうな気持がした。そして宇宙の神秘が、犇々と彼の胸に迫ってくるのを感じた。勇はほんとに嬉しかった。かうして父の遺言が実現され、波濤と戦って、人の命を助け得るなら。それ程愉快なことはないと思った。
 稲光が、また光った。その時ふっと目を開いて前方を見ると、自分の三十間ばかり先に、浮袋にとっっかまって、泳いでゐる者があった。この男は青年だと見えて、
『おーい!』
 と声をかけると、
『おーい!』
 と若い声で返事をした。彼は上向けになって流れてゐた。それで勇は、少し元気を出して、その方に泳いだ。そして彼の傍にすり寄って、比較的小さい声で囁いた。
『君! しっかりせいよ! 俺は今、救助船に乗ってきたんだ。この板にくっ付いとり給ヘ! 俺が今信号するから』
 さういふと、彼は嬉しさうな声を出して、
『ありがたう! 一命を拾うた!』
 といって。板にとっ付いて来た。然し、あまり暗いので、彼の顔は見えなかった。また稲光が一つ光った。それで、やはり、それが一人の青年であることを知った。
 勇は、天祐丸に信号しようと、四本の指を口の中にさし挾んで、力一杯口笛を吹いた。すると、船に解ったらしく、答の汽笛が、響いた。船がやってきた。ロープは投げられた。然し、一回目のものも、二回目のものも、あまり遠くて、勇は掴へることが出来なかった。三度目に漸く掴へたので、彼はそれを板に括り付けて、大声で怒鳴った。
『ゆっくり引張ってくれよ!』
 すると、こんどは経験が出来たと見えて、巡査二人が指揮しながらゆっくりく引張ってくれた。島香の主人は、
『万歳! 万歳!』
 を連呼した。その間も波が揺れるので、身体ごと艫のスクリューの中に巻込まれやしないかと心配した程、波の頂上から下に投落された。その時、デッキにゐる者も大波を被った。
『ふぇ! ――』
 とみんな悲鳴をあげた。然し浮袋を持ってゐた青年は割に元気で、少しも慌ててゐなかった。で、勇も非常に嬉しく思った。勇はまづ彼を甲板に上らせ、あとから勇もデッキに上った。すると、島香の主人は、勇の身体を抱〆めるやうにして、
『ありがたう、ありがたう! さっきの親爺さんも、大丈夫ですよ。よくも助けて下さいました。あれは家の近所の者なのです。家の者もほんとに喜ぶでせう。君も疲れたでせう』
 そこへ警部もやってきた。
『疲れたでせう!』
 然し、勇は、少しも疲れてゐなかった。波に揉まれてゐることから見ると、デッキの上は非常に楽であった。それで彼はまた、身体を拭いて、裸体のまゝ操舵室に飛込んで行った、すると卯之助は、
『若! 心配しましたぜ。あなたの姿が見えなくなったので。潮がこんなにきついと思ひませんでしたよ。あなたの口笛を聞いた時には、私は、ほんとに生返った気持がしましたなア』
 また稲光が光った。その時、船の右側を見ると、漁船が、顛覆した儘流れてゆくのが、目の前に見えた。それで勇は、
『おい! 卯之助、よく見てくれよ。まだ二、三人はきっとこの辺に漂流してゐるに違ひないから』
 さういひながら彼は、静かに船の周囲を一巡することにした。果して、艫の処に、仙人のやうな恰好をして、暢気さうに、船にぶら下って流れてゐる一人の漁師を見つけた。
『おーい!』
 と声をかけると、彼は、
『ありがたう!』
 と答へた。然し濤が、高いのでどうしてその男を、救助船に救上げていゝか工夫がつかなかった。綱を放ったけれども、その男は、疲労してゐるためによく泳げないと見え、綱を取らうとはしなかった。それを見た巡査は、
『誰か綱を持って行ってやるより仕方がないなア、俺行ってきてやらうかなア』
 さうはいってゐるものの、その巡査にも別に自信があるらしくも見えなかった。それで勇は、
『俺行ってくるよ。卯之助、船を衝突させると悪いから、出来るだ
け遠くの方を廻ってくれよ』
 さういふが早いか、彼は、また細いロープを持って、濤の中へ踊り込んだ。その勇敢な態度には。宮古の漁師達も全く舌を捲いた。飛込んだ勇は、ゆっくり泳いで、難破してゐる船の艫に近づき、まづ彼の身体にそのロープを襷がけに結へ付け、彼の肩に軽くくっ付いて、船の方に来るやうに教へてやった。その漁師は、素直に勇のいふことを聞いて、彼の肩にくっ付いてやって来た。勇は、みんなが引張ってくれるロープを片手で持ち、両足と片手で静かに身体を浮かばせ、疲れてゐる漁師を肩で支へて、二十間ばかり離れてゐる天祐丸の舷側まで泳ぎついた。上からまた太いロープが下された。その太いロープを漁師に握らせ、細い綱と太い綱と両方で、まづ漁師を先にデッキに引上げた。しかしこの前の経験もあったので、宮古の漁業組合の連中は、勇が流れると心配だと思ったか、太いロープを漁師のために下すと同時に、勇のために細いロープを海の中に投込んでくれた。それで、勇は、漁師が助かったと見るや否や、すぐまた、その細いロープを伝うて、デッキに上った。
 その時に思ったことであったが、救助船には是非、繩梯子が沢山舷側にぶら下げられてあると、どんなにいゝかも知れないといふことであった。しかし天祐丸には、繩梯子は一つも無かった。難破した船の周囲をもう一度、勇はゆっくり廻ってみたが、みんな早く船を棄てたと見えて、誰も信号するものはなかった。最も元気な、浮袋を持ってゐた青年に尋ねてみると、『三人は、水泳がうまいから、岸の方へ泳ぎついたらうと思ふ。あとの三人は、老人だし、酒を朝から飲んでゐたから、多分溺れて死んだらう』というてゐた。その話を傍で聞いてゐた島香は、
『成程ね、酒を飲まないと、こんな時に助かるわけだなア』
 といって感心した。
 救助作業をしてゐる間が、風速の最も甚しい時であった。三番目の男を救うた時から急に風は凪いで、航海するのが非常に楽になった。
『これ位の濤でしたら、楽でしたかね』
 と、警部は島香と話し合った。それを傍で聞いてゐた救助せられた青年は、
『これから、救助船には、もう少し明るい、一哩も遠方から見える電燈をマストの上につけてもらふんですなア。暗くて、暗くて、綱を拾ふにも見当が付きやしませんよ』
 泣くやうにさういった。勇はそれに同感であった。
 濤が少し凪いだので。勇は広く難破船を捜索したいと、警部に言明して、四、五哩四方を一時間ばかりも捜索した。そして四般の船が沈没してゐることを見付けた。一般の船には、乗組員全部がとっつかまってゐた。彼は、静かに船をその傍に持って行って、十一人の乗組員全部を救うてやった。それから帰り途に、闇の中で二人の漂流者を救うた。勇はまだ捜索するつもりだったけれども、救助した者を、一先づ港に上陸させた方がよからうと警部がいふので、恰度真夜中の十二時頃に、宮古港を北口から中に入った。