海豹の32 S・O・S

  S・O・S

 店から飛出した島香の主人は、すぐ向ひの角丸の店に飛込んだ。
『港外で宮古に入る船が難船してゐるさうな。天祐丸をすぐに出さにやならんが、お家の機関士は、今日は船から上陸してるんでせうなア』
 電燈をつけて、しきりに算盤を弾いてゐた角丸の主人公は、禿頭をつるりと一つ撫でて、別に驚いた様子もせず、難船はいつものことだといふやうな顔をして、
『機関士は今のさきまで、其処に居りましたが、さあ、どこに行きましたかなア』
 さういって、静かに立上った。
『機関士を探してゐるんですか? 小さい船でしたら、私、運転しますよ!』
 入口に立ってゐた村上勇は、早口にさういった。
『おやり下さいますか? さうしたらすぐ船を出しませう!』
『私のうちの船を誰か見てゐてくれたら、私の方の船員も一人連れて行きますがね』
『そら、何でもありません。宮古の人は、みな人が好いですから、誰も盗むやうな人はありませんよ。放っといても大丈夫ですよ。しかし店の者に番をさせておきませう』
 島香の主人はすぐ店に帰り、小僧に、白洋丸の留守番をするやうに命令して、また、表に飛出してきた。その間に、勇は、卯之助を船から呼上げて、島香の主人が出て来るのを待ってゐた。
 さうしてゐる処へ、警察から、警部と巡査が二人やってきた。島香の主人は、巡査と手分けして、救助に出掛ける有志家を、橋を渡って船に乗込むまでのうちに、何人でも集めてゆくことに決めた。その間に、勇と卯之助は、警部を伝馬に乗せ、向ひ岸についてゐる白塗の美しい天祐丸まで漕ぎつけた。勇は。逸早く、伝馬から天祐丸の甲板に躍り上って、すぐ機関室を覗いたが、船体は新しいけれども、機械は、比較的旧式のもので、ユンケル式のやうに、すぐ機関を動かすことの出来ないものであった。イグニシオン・ボールをプロランプで直ちに焼かなければ、瓦斯を爆発させることが出来ないと彼は思った。それで彼は、早速イグユシオン・ボールを焼いて、ボールの下ヘノズルを嵌め、表のピストンを第一死点より十度前方に置き、石油ポンプを押して、空気ポンプのヴァルヴを開き、すぐ、スターチング・ヴァルヴを開けて、いっでも出動出来るやうに準備をした。
 その間に、卯之助は、橋を渡って、ぐるりと廻って来た六人の若者と、二人の巡査と、島香の主人を伝馬に乗せて、天祐丸に運んだ。島香の主人は、機関室へ顔をつつ込んで、
『船長さん、有難う! 機関士を連れて来ましたから、すみませんが、あなた船長になってくれませんか! 生憎この船の船長は、今日、盛岡へ行ったとかで、留守してゐましてね……まことに済みませんが、あなたに御苦労願ひたいんですが、どうですか、御無理願へますかなア?』
『よろしうございます、私かやりませう』
 勇はすぐ、菜葉服を着込んだ機関士と入代って、操舵室の舵を握った。船は出た。雷は嗚る。稲光が物凄く、湾内を照らす。港を出ると、とても大きな濤で、一つの濤が天祐丸の帆檣よりも高かった。操舵室に入ってゐた警部と、島香の主人は、その濤にびっくりして、弱音を吐き出した。
『船長さん! こりゃ危険ですなア、引返しませうや!』
 さういったけれども、勇は、返事もしなかった。警部は船に乗りつけないと見えて、操舵室の柱にしがみ付いてゐた。勇は絶えず船を風と一点半の角度にもって行き、横投げを喰はないやうに注意した。稲光が海上を照らすために、真暗がりで作業するより遥かに有利であった。然し、島香の主人は、雷が厭だと見えて稲光が閃めく度毎に、耳に両手を蔽うた。大きな濤を怖れないで、操舵室の前に立ってゐた卯之助は、稲光が暗い海上を照らし付けた時に、大声で叫んだ。
『見付かった! 見付かった! あすこに難船してゐる!』
 然し、さういった瞬間に、また船は奈落の底に沈んで行った。そして今度はまた。難破してゐる船の位置を見定めるためには、もう一つの大きな濤の上に登るまで待たなければならなかった。然し、こんど大きな濤の上に船が乗っかった時には、稲光が、海面を照らしてくれないので、あたりは真暗で、周囲に何物をも認めることは出来なかった。それで、勇敢な勇は、卯之助に操舵助室の上に上って、難破してゐる船の位置を見定めてくれと命令した。勇のいふことなら何でもきく、忠義者の老漁夫は、船長のいふ通りに、操舵室の上に匍(はい)上って行った。そして大声に叫んだ。
『もう一町位前方です! ノースウェストにコースととって下さい!』
 さういったけれども、濤の関係で、どうしても、ノースウェストのコースをとることが出来なかった。少し船を横にしようとすると、大きな濤の砕けた奴が、天祐丸のどてっ腹にぶちあたる。勇は、汽笛を吹き続けた。そして、耳を澄まして、それに答があるかと注意した。けれども人間の声は少しも聞えなかった。巡査が、アセチレン瓦斯で作った照明燈を舷側につけてくれた。それでやっと、船の両側十間位の処が、少し見えるやうになった。桶が流れてくる。そのあとから手柄杓が見える。その時、勇は、今年の春、備後灘で、水死した父の屍が、その海上に漂うてゐるやうに思はれてならなかった。操舵室の傍に取付けてある真鍮の棒につかまりながら、一生懸命に海上を見つめてゐた島香の主人は、びっくりしたやうな声を出して皆を呼んだ。