海豹の31 低気圧に先駆する波濤

  低気圧に先駆する波濤

 翌朝、船は十一時頃、釜石を後にして太平洋に乗出した。水温を計りながら、沖へ沖へと出て行ったが、空が晴れてゐるのに、濤だけが馬鹿に高かった。延繩の修理をやってゐた卯之助は、艫に廻ってきた勇にいうた。
『大将! こりゃ、今夜はしけますぜ。低気圧より早く、濤がやって来よるんですぜ。この儘ずっと、宮古へ船を入れませうや!』
 勇はすぐ卯之助に同意した。船はコースを変へて真北に進路を選び、この辺りの地理に精しい、富山生れの青年、味噌三太郎に、三陸地方の港の噂を聞きながら、勇が宮古に船を入れたのは、その日の黄昏時であった。怒濤は容赦なく、港の入口の大きな岩にぶつかり、味噌君でも居なければ、入港するのに余程困ったらうと、勇は、彼を銚子から連れてきたことを、心のうちで、ひとり喜んだ。
 白洋丸が、港内深く入った時に、今日の暴風雨を怖れた多くの漁船も、みんな港内に奥深く逃込んで。宮古湾に注いだ川の両脇には、幾十艘となく、同じやうな発動機船が並んでゐた。そのうちに、風速は加はり、沖は大砲を撃つやうにどんどん鳴り出した。その響は、暴風雨の来襲を意味してゐた。岩に砕ける濤が、物凄い音を立てるので、大砲を撃つやうに響いた。空は真黒になり帆檣(マスト)に釣るしたワイヤーやロープが、ヴァイオリンの絃のやうに鳴り出した。大粒の雨が。ぱたりぱたり甲板の上に降りかゝって来た。碇泊中の船はみんな、錨を入れ出した。魚市場の建ってゐる右側の河岸には、船のことを心配してゐる大勢の魚問屋の主人や使用人達が、集ってきた。幸ひ、恙(つつが)なく船を港に入れた勇は、船の者に五十銭づつ金を渡して、活動写真を見せにやり、卯之助と二人は後に残って、船の番をすることにした。勇が、ぼんやり、艫に立って他の船の作業を見てゐると、岸から声をかけたのは、魚問屋の島香の主人であった。
『暴風雨ですな、こりゃ! あなたは手廻しよく、早く船を港にお入れになりましたなア』
 船員の着るやうな合羽を着て、ゴムの長靴を履いた村上勇は、陸上からの挨拶に、視線を水面から河岸に移して、大声で答へた。
『天気がいゝのに、今日は馬鹿に濤が高いものですからね、こりゃ、天気予報にも出てゐない低気圧が急に起ったのだと思って、手廻しよく船を港に入れたんでしたが、仕合せしましたよ。こりゃ。沖はずゐぶんしけてゐますなア、難船する船も大分あるでせう』
 雨はだんだん激しく降り出してきた。それで、勇が、操舵室に入らうとすると、島香と大きく書いた番傘をすぼめながら、背の低い島香の主人は、彼にいうた。
『船長さん、お茶でも入れますよ! 遊びにお出でになりませんか? その角の家です』
 さういって、島香の主人は、浜と直角に合ってゐる大きな通の角の家を指差した。
『ぢゃあ、お邪魔しませうかね!』
 さういひながら、彼は、岸に飛上って行った。島香の店は、天候の関係でもあるか、仄暗くて新聞さへ読めなかった。勇が面白く思ったのは、直径二間もあるやうな大きな生簀(いけす)に用ふ竹籠を屋根裏に幾つとなく、つり上げてあることだった。如何にも原始的に見えて、勇は嬉しく思った。
『どうですかね、宮古は?』
 と勇が切り出すと、渋茶をすゝり乍ら島香の主人は、頭を左右に振って、話し出した。
『駄目ですなア! 宮古は、今年などは皆目、例年の百分の一も獲れませんからね。去年の十一月まで。二百四、五十軒からあった漁業組合の組合員が、今年になって、会費の払へぬ者が続出したものですから、漁業をもう廃めてしまったものだけでも、百軒以上はありませうなア。こんな悪い年っていふのは、私は生れてから知りませんね。八十位になる年寄りでも、宮古で、こんなに漁のない年は初めてだっていって居ますよ。どうしたんでせうかなア? 機船底引網で、近海の海の底を、みんな掻き荒したんでせうか? それとも或ひはまた、潮流の変化で、こんなにとれないんでせうか?』
 島谷の主人は、店の上りロに腰を下してゐる勇の顔を覗き込んでさう居ねた。

  新参者

『私は、漁師としては新参者でしてね、漸く、今年の夏から鮪船に乗ってゐるんですが……』
 さう切り出した勇は、如何にも自信あり気にいうた。
『銚子でも、地引網と、機船底引網の喧嘩が絶えないやうですが、三陸地方の不漁も、一つはそれに大きな原因もあると思ひますね。そりゃ勿論、潮流も関係してゐるでせうね。話に聞くと、近頃はもう、日本海を北に走ってゐる暖流が、津軽海峡を東に出て、潮に押されて八戸あたりまで伸びてきたっていひますから、東半球は、だんだんこれから暖かくなるんぢゃないでせうか? 何でも、二万六千年とか、二万七千年とかの週期律で、地軸が十七度位歪むさうですから、そろそろまた西半球の氷河時代がやってきて、シベリヤや満洲の温帯時代が出現するんぢゃないでせうかなア。ですから、漁業家も、日本の近海がだんく暖かくなってゆくことを予想してやらなければならないのぢゃないでせうかね』
 勇が、氷河の来襲する週期律を説いたので、鳥香の主人は、びっくりしたやうだった。
『ふム、そんなものですかね。成程ね。然し、御説の通り、こりゃ、欲しくもない魚を、どいつもこいつも、皆獲ってしまふ機船底引網にも、大いに責任がありませうねえ。宮古湾に入るどの船もどの船も、皆同じことをいひますがね、手繰網――つまり機船底引網ですね、神奈川県は全くそれを禁止してゐるさうですが、そのためか、神奈川県だけは、定置漁業が相変らず盛んですってね。私も一遍真鶴から伊東へかけて、あそこの大謀網を研究に行ったことがありますが、ほんとに羨ましい程ですなア。真鶴の定置漁業権などは一年間に四万八千円だと聞いてびっくりしました。何でも五年間の誓約が二十四万円だって聞かされましたが、手繰は絶対に、あすこは許さぬさうですなア。そして相模湾は、他処では見られないほど、岸深で、鰤(ぶり)でも鯖でも、すぐ岸まで寄って来るさうですなア。あんな処は珍しいですなア。富山湾もさうだっていふぢゃありませんか。然しあすこは、能登の傍で手繰網が底を掻き廻すので、魚族が怖れて、もう富山湾の中まで入って来んさうですなア。私も定置漁業の権利を一つ持ってゐるんですが、小さい機船底引網とは両立しないやうに思ひますね』
 島香の主人公の意見に勇も賛成した。
『実際この際、政府が思ひ切って、トロールや手繰網を禁止して、魚族の絶滅を防止しなければ、将来、大変なことになりませうなア。兎に角、矢鱈にとってしまって、入用のない魚族までみんな獲り尽してしまふんですからね。罪な話ですよ』
 雷が鳴り出した。稲妻が、軒先に光る。
『いや、手繰自身が、もう魚がとれぬといって、船をこの川向ふに繋いでゐるものだけでも四、五十艘はありますからなア。我々のやうな、魚を買ふことを専門にしてゐる者でも、無茶苦茶に魚をとってゐると、天罰が当るやうに思ひますなア。しかし、近頃はもう日本の近海に魚が居らんから。ロシアの沿海州の沿岸をやるといゝっていうて、此処からも今年の春出掛けて行った者がありますが、魚は居るさうですなア。太平洋沿岸でとれる三倍位、網に入りますってなア。然し、どうした訳か、味はまづいっていひますよ。あれで、あまり豊かに生活してゐる金持のお坊ちゃんに、味のある人間がないと同じやうなもので、魚も、余り楽をして大きくなった奴はうまくないやうですなア。ハハハハゝゝ、この間、富山の船がいってゐましたが、ロシア政府の船に追駆けられて、とってゐた魚をすっかり海の中へ放り込んで、やっとのこと、掴へられずに逃げおほせたっていってゐましたよ。なかなか漁師の仕事も容易ぢゃありませんね。ハハハゝゝゝゝ』
 勇がさっきから注意してゐると、島香の主人は、少しも煙草をのまないので、それを不思議に思った勇は、尋ねてみた。
『あなた、煙草はお吸ひにならんのですか?』
『はア』
『もとからですか?』
『いや、若い時は喫んでゐたんですけれど、宗教を信じてから、酒も煙草も止してしまったんです』
『あ、さうですか! さうすると、あなたはキリスト教信者ででもいらっしゃいますか?』
『はい、あまり役に立たぬ名ばかりのクリスチャンですけれども、教会だけは行ってゐるんですがね』
 さういってゐる処へ、警察から電話がかゝってきた。それによると、宮古湾の入口で、発動機船が一艘と、山田湾の方に寄った処で、同じく発動機船が二艘、難船して、船員や漁師は、板にとっ掴って漂流してゐるといふことだった。島香の主人が、水難救済会の
常務委員なので、警察から救助船を出してくれとの要求がきたのであった。
『さあ、大変だ!』
 さういひながら。今まで暢気に話してゐた島香の上人は、尻を引っからげて、部屋の隅にかゝってゐた合羽を着物の上から着込み、跣足になって、表に飛出した。それを見てゐた勇は、すぐ後から彼を追駆けた。
『私も用事がないんですから一緒に行きませう!』