海豹の30 寒流と暖流の合するところ

  寒流と暖流の合するところ

 翌朝早く、でっぷり肥えた紀州勝浦港の網元、伊賀兵太郎が銚子にやってきた。そして流網は、釧路に着いてからのことにして、まづ北の方の開拓をしてもよい。といふことにきまった。そして、鈴木伝次郎を兵太郎が連れて帰り、そのあとへ、富山県の新湊の者で、釧路の漁場をよく知ってゐるといふ二十一の青年を、漁業組合長の周旋で、鈴木のあとへ、入れることにした。名前は余程変ってゐて、味噌三太郎といふのであった。あまりをかしな名前なので、勇が、それをきゝ質すと、彼はすました顔をして、富山県の新湊では、一万近くの漁民が住んでゐて、味噌だとか、醤油だとか、酢、石灰、釣、手繰(てぐり)、大工、左官などいふ滑稽な名がずゐぶん多いと説明した。それでやっと、味噌君の面白い名乗りがわかった。
 兵太郎は、船から下りる時に、『大事なことを忘れてゐた』といって、二通の手紙を勇に手渡した。それは、備後の福山の姉の家に世話になってゐる母からの手紙と、紀州で留守をしてゐる卯之助の娘かめ子からの手紙であった。母は、近頃糖尿病を患ひ、一ケ月ばかり寝てゐて、姉の亭主に世話になるのが気づらひから、出来るなら紀州の勇の家に引取ってくれないかといふ相談であった。もう一通は、かめ子の愛情こめた手紙で、別にこれといって。恋愛めいた文句は無かっだけれども、『お父さんをくれぐもよろしくお願ひします』といふことを二、三遍繰返して書き、その終にもって行って。『木ノ江の万龍さんが是非もう一度あなたにお目にかゝりたい、あなた様と一緒に住んでゐるおかめさんが羨ましい』とつけたし、『毎晩のやうに、若主人様の夢を見ないことはありません』と折釘流でうまいことが書いてあった。
 船が銚子を出帆したのは、恰度十二時過ぎであった。朝鮮同胞朴の炊いた飯を皆で食って、すぐ錨を引上げた。利根川の川口を出ると、鹿島灘は頗る平凡であった。黒潮に乗らうと、わざわざ数浬遠く離れた黒潮らしい処をよって走ることにした。然し、黒潮といっても、特別に墨のやうな色をしてゐるでもなく、その幹流を発見するのにずゐぶん苦心した。鮪は水温十七度の附近が最も好きだと聞いてゐたので、それを探して歩いてゐるうちに、やゝ海の色が、紺色がかったコバルトになってきた。それで、黒潮に乗ってゐるといふことが解った。速力を量ってみると、九節(ノット)位出てゐるやうに思ったので、さては黒潮が二浬(カイリ)位手伝ってくれてゐると知った。午後の四時頃、漸く水温十七度位の処にぶつかったので、それから、延繩の仕事に取かゝることにした。日没頃、延繩を上げて廻ったが、出てきた効があって、それには四匹の本鮪が喰ひ付いてゐた。それでみんな、こんどの航海は運がいゝと喜んだ。夜になったので、延繩を上げて、福島県の沖を真すぐに北方、金華山に向って進んだ。そこいらは、寒流と暖流が合流するところなので、漁師達は、沢山鮪がとれるぞ、と北へ行くのを楽しみにしてゐた。二百二十日の暴風雨が過ぎて間もない時ではあったが、太平洋は不思議に静かで、瀬戸内海の旅と大差がなかった。たっぷり闇が海面に吸付くと、星がきらきらと南の空に輝いた。遠くの山は全く見えなかった。あたりは静かであった。たゞ重油の瓦斯エンヂンが連続的に燃発する響と、船の舳先が濤を切り分けてゆく音だけが、自然の静寂を破った。火を消して前方がよく見えすいやうに、船のきっさきのみを瞠(みは)ってゐた村上勇も、単調な水平線と、夜の空の壮大な景色にある厳粛な感じを持たざるを得なかった。
 翌朝の三時半に、また延繩を海に入れた。そして五時頃、第一回の引上作業をやってみた。その日はまた運よく、四匹の鮪と、一匹の四十貰位ある鱶を釣った。
 恰度四日間、官城県の沖から陸前の沖合で作業にたづさはった。そして四十七匹の大魚を掴へた。恵比須顔をした松原は、
『船長! こりゃ釜石にでも船が入ったらば、一つ奢ってもらはなくちゃいけませんなア、こんどは全く幸連でしたなア』
 と、にこにこしながら操舵室に入ってきた。彼は、市場に出す前に、はやちゃんと、魚の価格の計算をしてゐた。
『――こんどは千二百貫位鮪がとれたから、うまいこといけば、鱶も入れて二千円位はとれますなア……一体、何処が市場としちゃあ便利なのかなア』
『値段の方は、塩釜の方がいゝことないですかなア。然しこれから北の漁場を知る上には、釜石の方がいゝかも知れませんぜ。然し船長、塩釜と釜石の間に、気仙沼といふ小さい港がありますかね。あしこは、漁港としては実によく纏ってゐて、私は好きですなア。しかし、私も二、三年この附近に来たことがないから、油さしにきいてみませうか? ハハハゝゝゝ、例の味噌君に』
 さういって、機関士の松原は、油さしを呼びに行ったが、すぐ彼を連れてきた。彼の意見によると。
『釜石は、何といっでも、組織が大きいですし、あしこには、殆ど全国の船が集りますからなア、太平洋沿岸の遠洋漁業のことなら、あしこへ行けばよく解りますよ。毎年、今頃は、八百艘位の発動機をつけた遠洋漁業船が入るっていひますからなア。品物を売るので
『便利がいゝやうになってゐますよ』

  海の候鳥

 味噌君がさう報告したので、白洋丸は直ちに釜石に入ることになった。勇は、味噌君が、金華山から北の漁港をよく知ってゐるのに感心して、日本海の漁港の話まで、彼に訊いてみた。苦労しただけあって、彼は、よく知ってゐた。
『さうですね、富山湾ぢゃあ、やはり伏木でせうなア、然し、日本海遠洋漁業といふのは、成ってゐませんよ。みんな大きな船を持ってゐる者は、太平洋沿岸へ出てくるのですよ。大体、良い港を持ってゐる漁師は、冒険的ぢゃありませんなア。富山湾でも、さうですぜ、船長さん、瓢網(ふくべ)から大謀網まで入れて、富山湾だけでも、七
百位はあるでせうが、毎年八百万円位、魚をその網で漁ってゐるくせに、網を持ってゐる連中は、遠洋漁業にはよう出かけない人々です。遠くへ行く連中は網を持たない、海の荒い、港のない処の人々ですよ。ですから、面白いのは。富山県でも、泊、五箇庄のやうな小さい漁村で、遠洋漁業の船を五十艘から持ってゐますからなア。釧路に入る二百艘の鮪船の中、百五十艘までは富山の船だっていふんですから、全く驚きますよ。その百五十艘も、飯野と泊の間の全く港に恵まれない、網の下せない村から出てゐるといふんですからね。遠洋漁業に出るものは、かへって、港に恵まれないものに多いんぢゃないでせうか? 船長さん、静岡県の方もさうですなア。焼津などは。日本一の漁業組合を特ってゐるやうですが、あしこも港が無いんですからね。港に恵まれた処は。かへって悪いそうですなア』
 韃靼(だったん)人のやうな顔をした味噌君の話に感心させられた勇は、瀬戸内海を飛出して、紀州の勝浦に出てくる途中、漁具商の浅井長吉から聞いた話をすぐ思ひ出した。紀州でも雑賀崎のやうに漁港に恵まれてゐない漁民が、全日本的に勇躍し、沖縄県などでも、漁港に恵まれてゐない糸満の人々が、世界的に遠征してゐることを思ひ出した。
『――漁師はやはり精神ですなア。出掛けて行かうと思へば、南洋でも北氷洋でも何でもありませんなア、私はカムチャッカまで十六の時からもう三遍行きましたが、馴れたら平気ですよ』
 村上勇は。その油さしの勇敢な気持に、心から共鳴してしまった。
『君、富山県の人は、そんなに勇敢なのかね?』
 勇は、折返し尋ねた。
『いや、別に、勇敢にならうと思ってやってゐるのぢゃありませんが、日本海には魚が沢山居りませんし、国に帰っても人間は余ってゐるし、どうしても出稼ぎに行かなくちゃならんから、富山県下新川郡からだけでも――魚津町を中心にしてですなア――毎年少い時で三千人位、北海道から樺太にかけて漁業の出稼ぎに行きますからね。秋田県から何でも一万人行くといってゐますよ。東北六県から四万人行くと聞きましたよ。大変なものですね、その中でも富山県のものは評判かいゝんです。辛抱強いといふのでね』
 機関士の松原がエンヂン・ルームに下りて行ったので、味噌君は、少しゆっくりして、舵をとってゐる勇の後に腰を下した。
『君は、病気で銚子で下されてゐたといふが、もういゝのかね?』
 勇がさう訊き質すと、
脚気で弱りましたよ。足がしびれてしまひましてね。漸く銚子の病院に入院さしてもらったんですが、ありゃ、なにか工夫がつかんものでせうかなア。全国の漁業組合の間で、遠洋漁業に出る処だけでも、この間新聞でよんだ処では二万八千艘あるさうですなア、一般に十人乗ってゐるとして、二十八万人からの人が遠洋漁業に出てゐるんですからね、なんとか工夫して、病気した場合なども、無料で入院さしてくれるか、それでなくとも実費で診療してくれるといいですかなア。私が下りる前も、同じ船に九日間も鼻血の止らない漁師がありましてね、そりゃ、沖合で困りましたよ。恰度その時は、金華山沖の五十浬ばかり離れた処にゐたんですがなア。運よくその時、アメリカの大きな船が通りかゝったものですから。船長が気をきかして。万国信号のLW(病人を見てくれろ)の信号の旗を出したんです。さうすると。有難いものですなア。その大きな船が止ってくれましてね、たしかプレシデント・ジェファーソン号だと思ひましたよ。すぐ、その鼻血の止らない青年を、横浜まで連れて行ってくれたんです。そんな時は有難いと思ひますね。あたりに船が一艘もない時は、ほんとに困りますなア』
 弓削島の商船学校を出てゐるけれども、この油さしのやうに、北太平洋の波に揉まれてゐない村上勇には、油さしの言葉が一種のインスピレーションとして響いた。

  赤い葡萄酒、白い手

 北上山脈がぼんやりと西の方に見えた。日はとっぷり暮れた。釜石製錬場の大きな鎔鉱の中で灼熱に溶けた鉄の光が、空に反射して港の位置を知るに実に都合がよかった。成程釜石、釜石と遠洋漁業の人がいふ筈だと、勇はすぐに気がついた。そこは船を入れるに、三陸方面の数ある港の中でも、最も安全なものの一つであった。港内奥深く入ると、製錬場の大きな煙突が、白い煙を吐いてアークライトに照らされながら立ってゐた。桟橋には一万噸級の船が二艘着いてゐた。みんな鉄鉱を南洋から運んで来たものらしかった。南に向いた上屋のある木で造った岸壁の張出しの前に、数へきれない程沢山の発動機船がついてゐた。想像以上に港内が賑やかなので、勇は、びっくりした。横浜以北に於て、これ程活溌な漁港を他に見ることは出来ないだらうと、彼は思った。
 如才のない機関士の松原は、すぐ隣の船に飛込んで行って、問屋へ渡りをつける方法をきいて来た。海岸通りには、幾十軒かの漁業問屋が立並んでゐた。その一つの「やまさん商会」を隣の漁師が教へてくれた。それで松原は、すぐその方へ飛んで行った。番頭が見にきた。
『ずゐぶん、漁ったなア』
 若い番頭はびっくりしてゐた。
 番頭について。船長の村上勇と、機関士の松原敬之助が問屋の帳場に腰を下すと、黙ってその番頭は、一割の手付金といって、十円礼二十枚を渡してくれた。それを見た機関士の松原はなかなか承知しない。
『船長、今夜奢って下さいよ』
 さういってきかなかった。仕方なく。勇は、二人で散歩することにして、道幅の広い大通のカフェ釜石に入った。松原は、得意になって、みづからメヌウの注文をする。まづ、自分にはウィスキーを、勇には葡萄酒をとっだ。すると、虹のやうな着物をきて、厚化粧をした二人の女給が、一人一人勇と松原の傍により添うて、お酌を始めた。
 勇も、鉄で作った機械でない以上、長い航海に疲れたあとで、柔い皮膚を持った、顔の美しい女給が、彼の身体にすれすれに坐って、血のやうに赤い葡萄酒をつきつけてくれる時に、それを拒む力はなかった。然し、勇の胸には、まだ、瀬戸内海の御手洗島の青年団団長をしてゐた時のことが忘れられなかった。それで、そっと盃に口をつけたけれども、飲み干す勇気がなかった。それを見た西洋人のやうな大きな瞳と、奥まった眼窩を持った色の白い、二十歳をわづかばかり過ぎた女給が、突然、彼の股の上に手を置いて。甘ったるい口調で大声にいうた。
『そんなに惜しさうにしないで、私にも少し位飲まして頂戴よ』
 そのいひ方があまり、滑稽だったので、勇は勿論のこと、松原も、松原についてゐた女給も、さう叫んだ女給みづからも、大声で笑った。ラヂオの響きが、かすれかすれ、仙台放送局の音楽を伝へてくる。他にも、漁師らしい四、五組の飲み助連中が、女給を相手に酔ってゐた。
 ほの暗い、青い灯や赤い灯の蔭に、長い袂を揺るがせながら、香水をぷんぷん匂はせて、十数人の女給が入替り、勇の傍を過ぎてゆく。
 海とは何といふ変った光景だらう。勇はたゞぽーっとして、強い女の香に酔ってしまった。