海豹の29 海洋の破戒者

  海洋の破戒者

 勇が、郵便局から出て来たのは、もう夜の明け放れた五時過ぎであったが、浜に下りる社の角で、松原と、鈴木と、古屋の三人が、いゝ気になって、昨夜遊んだ話をしながら約十四、五間前方に歩いて行くのを見付けた。勇は暫くの間、彼等のあとをつけてゐたが、こらしめてやる必要もあるので、船へ早く帰らうと、途中から路次に入って、駆足で、さきに船に飛んで帰った。船では卯之助初め、広瀬、川端、小林、鳥井、飯炊きの朴長順まで一緒になって川の水を汲上げ、さっさとデッキを洗ってゐた。それで、一旦操舵室に入った勇も、ズボンの裾をまくり上げ、ブラッシュを手に、大勢に交って掃除の手伝を始めた。そこへ、浜伝ひに、三人がぼんやりした顔をして帰ってきた。松原は年寄りだけあって、少し恥かしいと見え、物もいはずに、黙って機関室に入って行った。それに引かへて、摺れっからしの鈴木伝次郎は、平気な態度を装うて、
『やあ、御苦労ですなア』
 といひながら。屋形の中へ入ってしまった。古屋は、面目ないやうな表情をして、人の顔もよう見ないで、すぐデッキを洗ひ始めた。油さしの鈴木が、掃除に出てくるかと思ってゐた広瀬は、屋形の中で、鈴木が大の字になって寝てゐるのを見付けた。それで、すぐ、屋形の中へ這入ってゆき、いきなり、彼の頭を足で蹴飛ばした。
『馬鹿野郎! 今朝船が三時半頃に、沖へ出ることを知ってゐやがって……遊女買ひにうつゝ抜かしやがって、出て来い! お前のやうなものが居ったら、俺達の商売は出来ねえや』
 さういふなり、広瀬は、鈴木の片手を捉へて、屋形の中からデッキの方へ引出さうとした。その物音に、川端も、小林も、すぐ屋形の中へとび降りて行った。そして、広瀬の加勢をした。一旦機関室にをさまってゐた松原は、部下の鈴木がやられては大変だと、彼もまた狭い屋形の中へとび込んできた。其処は僅かに八畳と敷けない程の狭い処ではあるし、首を曲げて通らなければ、真直ぐに立つことの出来ない窮屈な処であったので、鈴木が頑張れば、容易に彼をデッキに引上げることが出来なかった。それで松原は、
『まあ、君、まあ、僕に免じて今朝のことはゆるしてくれ給へ。つい僕等も、海上生活が淋しいもんだから、一晩位は陸の上でゆっくり休めることだと思って、やど屋に寝る代りに、お茶屋で寝たのが悪かったんです。これからはもうしませんから、こんどのことだけはお許し下さい』
 さういったけれども、広瀬はなかなかきかなかった。
『松原さん、あなたか一体、なっとらんが。こんな調子やったら、船の士気が衰へて、みんなの気が揃はんから、みな愉快に仕事が出けせんがな。私は、あなたにいひますがな。あなたが第一しっかりしなさいよ。おいら、この不景気に、嬶(かかあ)も子も、養はなけりゃならんから、一日でも半日でも遊んでは、それだけ子供等に仕送りが出来ませんよ……』
 ロを尖らして広瀬が怒鳴ると、広い面積の顔の持主である松原は、嘆願するやうにいった。
『まあ広瀬さん、こんどの場合だけは、私に免じて堪忍してやって下さい。今から鈴木を逐出した処で、千葉県から和歌山県まで帰るにしても、相当の旅費が要るし、今度の一航海だけは、まあ、堪忍してやって下さい』
 跪いて、事件の成行きを見てゐた石川五右衛門のやうな顔をした川端は、そこに言葉をさし挾んだ。
『松原さん、船長さんはなア、もう紀州には帰らんといって居られるんですぞ、これから三陸方而の漁場を廻って、十一月の末まで北海道の釧路方面に居らうといふ計画ださうですぜ、今朝自分手で電報を打って来られましてな、みんながその気になってゐるんです。だからこの際、鈴木は下りてもらった方がいゝやうに思ひますなア』
『うム、さうか、そら初耳ぢゃ。それもよからう。さうそう、これから北は、これからが、さかりぢゃからなア。船長さんは若いけれどなかなか賢いわい。いゝ処に気が付いた! 昨夕も隣の船の船長がいひよったが、今からでも釧路の方へ廻れば、三月位の中に、一万円位稼げるだらうって。それはいゝ考ぢゃ。さうすりゃあ、みんなに二千五百円位配当があるし、一人当りに二百円かそこいら、当るわけぢゃなア。さうすると結構、この正月は、借金せずに済ませるなア。……おい、鈴木君、君もしっかりせいよ。船長は、三陸から釧路の方へ廻るといってゐるから、感情を害せんやうにせぬといかんぞ。皆さんがお叱りになるのも尤もぢゃから、お互ひにもう少しつゝしまうや』
 その時まで、なかく頑張って、広瀬の手に喰付いたり、鳥井の足にしがみ付いたりしてゐた鈴木は、広瀬が手を放したので、あまり暴れなくなった。そこへ、船長の村上勇が入ってきた。
『みなデッキに上りませんか! そしてゆっくり話しようや』
 それで、みなデッキに上った。鈴木も和服のまゝ上ってきた。みんな操舵室の後方に当るエンヂン・ルームの上のケーシングの傍に集ってきた。その時、勇は厳かな口調でいうた。
『たゞさへ、魚価が下って困ってゐる時で、我々はうんと働かんと、家族の者を養ふことが出来ないんだから、出帆の時間を問違はないで上陸しませう。それでなければ、もう放っといて出帆しますから』
 これだけ簡単にいって、勇は、昨日市場へ持って行った魚がどれだけ売れたか。朝の魚市を見に行くことにした。

  魚市場の朝

 船着場から一町も行かぬ処に、トタン張りの倉庫のやうな恰好をした魚市場が建ってゐた。そこには大きな魚ばかり並べられて、主として東京相手の魚問屋の仲買人が、荒い収引をしてゐた。長靴を履いた印絆纏を着た、じゃん切り頭の仲買店の番頭、濡れた麻袋を肩にかけた氷を運搬する人夫、魚を入れた蒸籠(せいろ)をトロッコ運ぶ、頭の上に手拭を置いた若い姐さん、すぐ船積みにして、魚を東京に
運搬する忙しい仲仕、コンクリートの上に流れた魚の血、――それを踏付けてゆく大勢の仲買人の番頭――、夜明け前は全く死んでゐるやうに眠ってゐた銚子も、夜が明けると、血眼になって、取引にいそがしかった。みんな、汗みどろになって働いてゐるので、ぼんやり立ってゐる者はなかったけれども、せり市が済んだ比較的閑散な場所で、ちよっと息を抜いてゐた仲買人に、勇は尋ねてみた。
『今朝は、鮪の値はいゝですか?』
 ときくと、黒の法被を着てゐた賢さうな男が。
『昨日の暴風雨の関係で、少しは今日はいゝやうですなア。然し、釧路から鮪が大漁だといふ電報が入ったさうで、思ったやうにはいきませんでしたなア。今朝は一貫一円五十三銭位のやうでしたね、一時の三分の一の値もしませんなア』
 勇は折返して、どれ位銚子で魚が一年間に売買出来るかを訊いてみた。
『まあ、今の処ぢやあ、年に二百万円でせうなア。四、五年前には四百万、四百五十万といふ声を聞いたんですかね、近頃はどういふ訳か魚もとれんやうになったし、値段も半分ですからね、可哀さうなのは漁師ですよ。こんな不景気ぢゃあ、千葉県の漁師は、半分位潰れてしまひますよ。ここがなア。それが近頃駄目ですよ』
『鰯はどうですか?』
九十九里浜は鰯の揚繰(あぐり)で、日本でも名高いのですがなア。網元は殆ど全滅でせうなア。したがって、揚繰網の船に乗込んでゐる漁師などは、一ケ月働いて、十円の配当金を貰ったら、いゝでせうなア』
『さうですかね』
 勇は、その話を聞いて、千葉県六万の察産業者のために悲しんだ。
『乗組員は、みな歩合ですか?』
『あゝ、みな「めかり」でやってゐます。千葉県では歩合のことを「めかり制度」といってるんですよ。今年などの「揚繰」の連中は可哀さうでした。十一月の十日から翌年の七月の十日まで大抵働くんですがね、今年は百円にならなかったといってゐましたよ。あまり機船底引網が海の底を荒すものですからね。毎年寄ってくる鰯が、だんだん減るやうですな。あの機船底引網はどうかしなければいけないでせうなア、将来』
『然し、問屋さんは儲かってゐるんでせう?』
 勇は、臆せず急所をつっ込んだ。
『そりゃね、一時のやうなボロいことはありませんけれど。やはり一割や一割二分は配当してゐるやうですね』
 問屋の番頭は、懐からバットの箱を取出しながらさういった。その時、勇の頭にきたことは、漁業労働者は、二百十日の颱風と戦うて、わづか月に十円しか分け前を貰はないで、魚の問屋が陸上で居睡りしながら、年額六、七千万円の金をたゞで儲けてゐるといふことの不合理であった。
『さうですかね、ぢゃあ、問屋さんをぬいて、直接、漁師の漁ってきたものを消費者の手へ渡すっていふことは出来ないものでせうかなア。さうすれば全国百七十万戸の漁民が、四十円でも五十円でも余計に潤ほふ勘定ですなア』
『全くですね、それで、地方へ行くと、処々問屋抜きにやってゐる処も、あるですよ、私などは、問屋の番頭をしてゐますがなア、漁師が可哀さうです。漁具のために前借してゐますからね、その利息と元金の支払ひのために、魚は殆どたゞでとられるやうなものですよ。政府が思ひきって、この際五千万円か一億円か、漁民のために金融をつけてやるといゝと思ふんですがなア。定置漁業の方でも、とれることは解ってをって、網を買ふ金がないものだから、十万円なり十五万円なり、きっと入ってくるよい漁場を遊ばしてゐる処が、ずゐぶんありますよ。救済してやりたいですなア。ほんとに近頃の当局はなってゐませんよ。農民の救済といへば一生懸命になるけれども、漁民の窮乏については、何等顧ないですからね。その証拠には、一万人近く漁民の住んでゐるこの銚子にですよ、何一つとして漁民を慰安する高尚な設備がないぢゃおりませんか』
 じゃんぎり頭の魚問屋の番頭は、なかなかべ味のある事をいふ。それで、勇は彼の学歴を聯ねてみた。
『いや、別に学校など行ったことはないですけれどね、無産党の演説会にはよく行き立すからね。全く同情しでゐるんですよ。漁師諸君に』
 魚を入れた蒸籠(せいろ)が、次から次ヘレールを走るトロッコの上に載せられて、運搬船まで運ばれてゆく。それを遠くから見ながら、その石頭は、笑っていうた。
『何しろ、東京人は、一日に六百噸の魚を食ふっていひますからね、銚子は、その点からいへば、地理の上から、恵まれた港ですよ。いくら送っても、問屋が取らんといふことはないですからね』
『大阪の方へはお送りになりませんか?』
『そら、送りますよ、運賃を払うて引合へば、大阪であらうと、何処であらうと、どしどし送ります。だから面白いのは、汽車積みにした荷物などは、東京に送るつもりにしてゐても、途中まで行って、横浜の方が値段が少しいゝといへば、すぐその儘貨車を横浜の方へ送ることは、いつものことです。下関の共同漁業会社や、林兼商店がやはりさういふことをしてゐるやうですね。向ふは然し、日本でも一番大きいでせうなア。今年の春、一度下関へ見に行ってびっくりしましたよ。こんど銚子にも、東洋一の魚市場が出来るといって今、やってゐますがね、とても下関に比べもやあ、話になりませんなア』
 そこを昨日、水産会社で会った事務員が通りかゝった。
『よう、お早う! 売れましたぜ、まだ五十円ぽかりおあげするやうになってゐますから。あとで取りに来て下さい』