海豹の28 港の魅力

  港の魅力

 勇が、靴を脱いで、玄関に上ると。そこに出て来たのは、年頃十五六の舞妓であった。ふっくりとした苦労を知らない、赤ん坊のやうな柔かい頬ぺたをして、一重瞼ではあるがぱっちり開いた眼に、長い睫毛をつけて、振袖を左右になびかせ乍ら表へ出て来た。着物は、錦紗の友禅模様を着てゐたが、帯は金の刺繍(ぬひ)の入った、とても派手なものであった。
 若い女に飢ゑてゐる海員にとって、かうした珍しい装束をつけた娘は、予想外な驚きであった。部屋に案内せられた。そこには、お客の数より芸者の数の方が多かった。大抵一人の客に一人づつお酌が付いてゐた。ふとった芸者もあれば色の悪い芸者もゐた。然し、どの漁港にも通有の二枚鑑礼の者が多いと想像された。勇が、この宴会の席上に招かれたのは、全く偶然の出来事で、彼が、漁業組合へ油さしの補充をしようと思ふ場合に、果して侯補者かおるかどうかを尋ねに行ったのであった。恰度そこに、漁業組合の組合長が居合せて、自分の頼まれたいゝ青年があるから、それを世話してくれないかと先方から富山県の青年を依頼せられた。恰度漁業組合長は、その晩、長くごたごたしてゐた打瀬網と、かけ廻しの争議が手打になり、その手打に奔走した有志家の慰労会があるから、是非一緒に来いと、漁師仲間の親切から、辞退するのもきかないで、勇を無理矢理に引張ってくれた。
 然し、勇は、海の生活とは違った場面を見て、何ともいへぬ嬉しい感じがした。殊に、若い女に長く離れてゐた彼は、女と接近することさへ、ある一種の昂奮を感じた。
 客は大抵揃ったらしい。盃が廻って芸者の三味線が始まった。銚子で有名な大漁節が、年増芸者によって歌はれた。
  一つとせ 一番船に積込んで川口押込む大矢声
       この大漁船。
  二つとせ ふたばの沖から外川まで、つゞいて寄せくる大鰯
       この大漁船。
 初めの程は客がまだ調子に乗らなかったけれども、だんだん皆調子に乗ってきて、三味線に合せて手を叩き出した。勇もぢっとしてゐる訳にいかず、皆の者と一締に調子を合せて、歌は知らないが、手だけ叩いた。
  三つとせ 皆一同にまねきあげ通はせ船の賑かさ
       この大漁船。
  四つとせ 夜昼たいてもたきあまる三杯一丁の大鰯
       この大漁船。
 それが慰労会であったので、少しも、会に順序がなかった。飲むものはたゞうんと飲み、芸者を相子にふざける者はふざけてゐた。隅っこに小さくなってゐた村上勇も、漁業組合長がみんなに紹介し
たものだから、美しい芸者が二人も彼にかゝりきりになって彼が便所に行く時でもついて来てくれた。二時間位飲んでゐるうちに、会は令く乱雑になってしまった。それで、勇は、組合長の厚意を感謝して船に引上げようと、宴会の席にあてられてゐた二階から下りてくると、便所まで叮嚀に教へてくれた、芸名常磐(ときわ)といふ芸者が、表まで送り出してくれた。
『ねえ、ちょいと、あなた今夜、私の家に泊っていらっしやいな。いゝんでせう? そんなにお急ぎにならなくっても。たまには陸(おか)にお休みになってもいゝぢゃないの』
 と、少しも厭味のない、玄人離れのした口調ですゝめてくれた。流石は東京に近いだけあって。関東の芸者は人をそらさないと思はず感心した。彼女は、年頃二十四、五で勇より二つか三つか年上だと思はれたが、何だかしっかりした処があって、頼もしいやうな気がした。それで。彼も、振りきって、船に帰る勇気がなかった。
 秋の夕闇を踏んで。初めて会った女に手をひかれながら、何処に迷ひ込んでゆくか知らないで、とぼとぼ歩く気持が、勇には何ともいへない妙なものであった。
『――あゝ、これで海員の多くが堕落する筈だ。女房があってさへ堕落する者が多いのに、女房を棄てて、三月も四月も家に帰って来ない遠洋航海に出れば、余程、心の堅い者でなければ、港々の若い女に誘惑せられるのはあたり前のことだ』
 さうは思ったものの、女の魅力が強いので、彼はそれを振りきって、一人帰る勇気を持だなかった。
 料理屋から二町程歩いた裏通りに。小さい門のついた家があった。そこには筑波家といふ軒燈があがってゐた。その芸者は、是非家に入って、今晩泊ってゆけと奨めてくれた。然し、その時、勇の目の前に厳然たる父の顔が現れた。
『―勇、海に行け、海にI』
 その声に震ひ上った勇は。美しい女の手を振り切って、叮嚀に答へた。
『ありかたいですがね、どうしても明日の朝は、三時半に銚子を出帆しなければならないのですからね、またこんどの機会にお目にかかりませう』
『ぢゃあ、送らせて下さいよ、お船までね』
 それには勇もびっくりしてしまった。
『ありかたいですがね。あなたに送って頂きますと。また船の者が誤解しますから、私ひとりで帰らせて下さい』
 さういって彼は、叮嚀にお辞儀をして帰り途を急いだ。さういふと常磐は、名残りをしさうに、勇の両手を左右の手で握り〆め、甘えた口調でいった。
『忘れなくってよ、あなた、ねえ、また来て下さいね、こんど船が銚子へ着いたら、きっとこの家を忘れないでね、ほんとよ』
 その辺りは、勇も職業的の媚を売ってゐると気が付いた。しかし、勇は、どこまでも、礼儀正しくお辞儀をし、彼女の厚意を謝して船に帰った。

  利根河口の曙

 だゞっ広い利根川尻に、黎明が近づく。網を帆檣に乾した儘、静かな水面の上に微動だにしないで、一夜を送った汽船手繰の幾十艘かの船が、音も立てずに並んでゐる。魚市場のトタン屋根が、どす黒い鯨の胴体のやうに、南の空に浮んで見える。不景気な本銚子の漁師町には、電燈さへ暗く光って、屋根瓦までが、地平線に吸付けられたやうに、低く並んでゐる。対岸の波崎の漁船も眠ってゐるらしい。発動機の爆発する音も聞えず、日本五大漁港の一つだといはれる、この利根河口の銚子も、死んだ大蛇のやうに、深く眠ってゐる。空が曇ってゐるので、星が見えない。いやな朝だ。風が冷い。何時だかはっきり解らない。燐寸をすって時計を見ると、もう三時ニ十分過ぎだ。
 村上勇は、瀬戸内海から連れてきた、彼の片腕とも考へてゐる堀江卯之助を呼起した。
『卯やん。ぼつぼつ行かうか?」
 さういふが早いか、黒の袷の絆纏を羞たまゝ勇の脇で、ごろ寝をしてゐた卯之助は、勢よく跳起きた。そして艫(とも)に行って、昨夜汲んできた水で顔を洗った後、彼は、両手を合せて、何ものをか念じてゐた。二度目に、みんなの寝てゐる屋形――船では寝る処をかう呼ぶ――に入った卯之助は、漁師を起して廻った。皆、眠い顔をして起きてきた。然し、油さしの鈴木伝次郎と、いが栗頭の古川熊楠が、まだ船に帰ってゐないことに気がついた。
 で、卯之助は、操舵室に這入ってゐた勇に、そのことを報告に行った。
『ぢゃあ。松原も帰っとらんな、きっと。機関室に下りてみたまへ』
 さう注意された卯之助は、真暗がりの機関室に下り、彼がいつも寝てゐる棚に手を伸ばして、ベッドにさはってみた。然し其処には誰もゐなかった。機関室から出てきた卯之助は、すぐ操舵室に行って、その由を報告した。
 東の空かうっすり白くなってきた。波崎の船だらう、勢よく爆音を立てて沖に出て行く。一艘が出ると、またその次のものも、その次も、その次も曙に先駆して、勇敢に太平洋に乗出してゆく。その勇ましい船の姿に見とれてゐた勇は、
『出て行きたいなア。俺もI―』
 さう一言いったが、飯炊きを入れて僅か七人ではとても沖に出られないといふので、愚図々々出帆を延ばしてゐた。その時、隣に懸ってゐた蓑のやうな無恰好な鰹船が瓦斯に火をつけた。その音を聞いて、卯之助はもう耐らなくなっだらしかった。
『いまいましいですなア、昨日も聞いたんですが、これから、三陸方面は漁れるんですってね、今からは、釜石か、宮古を根拠にしてやるといとこせうなア。昨日も、こゝの漁師連中がいってゐましたがなア、流網を持って居れば、釧路の方へこれから行くと、うんと漁れるさうです。どうですか、大将! ついでに、釧路までやってみませんか?』
 それを聞いた勇は、操舵室の硝子戸越しに、沖へ繰出してゆく鰹船を見つめながら、確信のある口調でいった。
『そりゃ、賛成だなア! 早速電報を打って、兵太郎さんに許可を得て、出掛けようぢゃないか』
 勇はみづから、紀州勝浦の船主伊賀兵太郎に電報を打たうと、陸に飛上って行った。