海豹の34 船玉の聖書

  船玉の聖書

 一旦湾内に入ると、そこは想像もつかぬ程波も静かで、玩具のやうに小さい小波が、いひわけに波打ってゐた。その時、勇は、海上で祈った祈を思ひ出して心から感謝した。瀬戸内海の御手洗島で覚えたヴィッケル船長に教はった讃美歌が、自然に口もとに浮かんできた。
 『わがたましひを あいするイエス
  なみはさかまき 風吹きあれて
  しづむばかりの この身をまもり
  天のみなとに、みちびきたまへ』
 勇がその譜を口笛で吹いてゐると、島香の主人がやってきて、
『あなたは信者ですか?』
 と尋ねた。それで勇は静かに答へた。
『教会にはちっとも出ないんですがね、心で、神様はありがたいと思ってゐるんです』
『――道理で、あなたのせられることが違ふと思ひましたよ。今時の青年には、あなたのやうな方は珍しいですなア』
 さういって島香の主人は、全く感心してゐた。船が、河岸に着くと島香や角丸の店に待ってゐた大勢の漁師のおかみさん達が、雨に濡れながら船までやってきた。そして、夫の助かったのを見て喜ぶ者もあれば、夫が見えないというて、泣く者もあった。一番可哀さうなのは、三日前に結婚したばかりだといふ花嫁が、夫が見えぬというて、声を立てて泣き出したことであった。乗組員全部救はれた船は、宮古を根拠として、夏から秋にかけて働いてゐる阿波の船であった。警部は、巡査二人と、一生懸命に救助せられた者の姓名、原籍、年齢、身分などを精しく訊き質してゐた。
 その時、勇は、今年の春、尾道の汽船会社の控室で、父の死骸を受取った光景を目の前に浮かべて、海上労働者の悲哀を、今更ながら、また新しく考へ直した。
『――これだけの犠牲を払って、まだ。日本は漁民に対する理解を持ってくれないのだから仕方がない――』
 と彼はつくづくと、大勢の人達が泣いてゐる様子をデッキの上から見ながら。自分も貰ひ泣きした。
 泣き声があまり高いので、あちらからもこちらからも大勢集ってきた。白洋丸からも、いつもに似合はず、機関士の松原敬之助が、助手の味噌三太郎と一緒にやってきた。
『大変でしたね、私は少しも知りませんでしたよ』
 愁嘆場が二十分位続いてゐたが、夜中の雨が、また彼等を家に送り込んだ。
 みんなの調べが済んだ後、警部は、今夜の光景を県庁に知らせるから、是非原籍を教へてくれと、勇の処にやってきた。警部はいうた。
『おかげ様で、今夜は、十六もの生命を救助することが出来て、ほんとに仕合せでした。これも全く、あなたの勇敢な努力に俟ったのでありますから、さだめし署長も喜ぶことと思ひます』
『いや実は、私も、この春、今夜のやうな暴風雨の晩に父を失ったものですから、救助船が発達して居れば。私の父なども救へたのにといつも思ってゐたので、喜んで助けに出させてもらったやうな訳でした』
 島香の主人が、『風呂が湧いたから入らぬか』というてきた。それで彼は、警部に原籍もいはず、その儘上陸した。すると、警部は島香の店までついて来た。勇がどうしてもいはないので、讐部は、卯之助を連れてきて、一々訊いた。勇が風呂から上ってくると、島香の主人は、『お茶漬を食って行ってくれ』と二人にすゝめた。彼は腹が減ってゐたので、遠慮せずに、卯之助と二人で店の二階に上ってお茶漬を一杯食はせてもらった。お給仕に出てきてくれたのは、今年、東京の青山女学院の専門部を卒業してきたといふ島香の惣領娘であった。親父には似ないで、身体の丈の高い、叡智に輝いた顔をしてゐた。父はしきって、勇の勇敢なことを激賞して、娘に一々、天祐丸の暴風雨の中の働きを説明した。
『ぢゃあ、ずゐぶんお疲れになったでせうね。今夜は、船におやすみにならないで、狭いけれど。うちでやすんで頂いたらいゝですわね、お父さん?』
 娘はさういって。勇と卯之助に、狭い船に寝ないで、店の二階で寝てゆけと折返し勧めた。
『いや、ありがたうございます。みんな若い者が大勢寝て居りますから、私も船に帰らして貰ひませう。いつ何時、出帆するやうになるかも知れませんから――』
 と勇は叮嚀胎に辞退した。
 鳥香は、入港する時に勇が歌ってゐた讃美歌が気になると見え、
『あなたは、よくあの讃芙歌を御存じですね、……この土地にもキリスト教会が二つありましてね。……私の一家族もみんな洗礼を受けてゐるんですが、然しどうも、漁師諸君の問に、この信仰が入りませんでしてね。少し金が溜まると酒を飲んだり。女買ひをするものですからね。今日も、それ、朝から酒飲んでゐたものが三人、溺れ死んだといってゐましたでそう。みんな私は、あの人達を知ってゐますがね、人はほんとに好いんですが、酒癖の悪い人でした。これはどうしても、禁酒運動を盛んにして、漁師仲間にも、もう少し信仰が出来るやうに勧めんといけませんね。然し、どうも、漁師は迷信が強過ぎて困りますね、此処の漁師なども、船玉さんに帆檣(はしら)の下へ入れるものといへば、芸者の髪の毛や、カフェーの女給の髪の毛なんですからね、ほんとに始末におへませんですよ。然し、うちの船だけは、船玉さんに聖書の一頁をいつも入れる習慣になってゐる
んです。この間も、新造船を進水した時に、マタイ伝第八章二十六節を書き抜いて、それを船玉さんに入れましたよ』
 勇は、その話が面白いので、大声で笑った。お茶漬を済ますと、一時の鐘が鳴った。それで勇は卯之助と、二人で島香の親子が勧めるのもきかず、船に帰って寝た。帰る時に島香はいうた。
『ねえ、村上さん、これから宮古へ船が入ったら、いつでも食ひに果て下さいよ。ね、よそと思はないでね、あまり窮屈にとらないで、時には陸上で寝ることも、骨休みになっていゝですよ』
 つめたい雨はまだしょぼしょぼ降ってゐた。

  鴎と『あび』

 海を己の住家と考へると、波濤も、玄関先の敷居ほどにしか思へなかった。宮古を出た白洋丸は、好天気に恵まれて、北へ北へと急いだ。八戸沖で、油さしの味噌君が鴎に就いて面白い話を勇に聞かせた。鴎は、魚の居場処をよく知らせてくれるのと、霧や暴風雨の時に、一種の案内役をしてくれるといふ理由で、八戸在の鮫の人々は、蕪島で昔から『うみねこ』といって鴎を数万羽保護してゐることを面白く物語った。それに対して、勇もまた、自分の生れた御手洗島の西南四里ばかりの処にあ斎島(いつきじま)で、『あび』といふ鳥が毎年春分頃に飛んで来て、魚の居り場処を知らしてくれるので、いつもその頃には、毎日七、八十艘から百数十艘の鳥付漕釣漁業が始まることを面白く聞かせた。
『それを「いかり」っていふんだがなア、何でも平家の落人が最初に始めたとかで、瀬戸内海ぢゃあ一つの名所になってゐるよ。漁師は「あび」っていふ鳥を大事にして、肩の上に止まらうが、頭の上に糞をひりかけようが、決して鳥を虐待しないので、「あび」が人間に馴れてなア。ほんとに美しい光景が見られるよ。人間と鳥類が、あれ位仲好くなれば面白いなア』
 暴風雨のすんだ後の太平洋は、潮の干満の関係で、少しは波が揺れても、昨日の暴風雨と比較して嘘のやうに凪いでゐた。北上山系が、遠く紫に彩られ、輝く太陽は、海の水をいやが上にも紺碧に染めた。船はその日の午後、尻尾岬の一角をかすめて、ぐんぐん北に進んだ。釧路行きが急がれたからであった。三日目の朝、やっとのことで、釧路に着いた。釧路は第三紀層の丘陵の斜面の上に広がった東北海道の最も大きな都会であるだけに、勇は此処を訪問することを非常に嬉しく思った。然し、港の人々は必ずしも親切ではなかった。船の着け方が悪いといって、波止場の前に鮪船をつけてゐる見知らぬ男に、頭からきめつけられた勇には、釧路の第一印象が悪かった。物価は高いし、海岸の商売人は慾張りだし、宮古から出て来た彼には、釧路の港があまり好きになれなかった。然し、彼は、この際断然、流網を買入れて、十一月頃まで此処に踏止まる覚悟をした。船の者もそれに賛成したので、彼は新宮の本店に電報を打って、賛成を求めた。凡てを任すといってきたので、彼はあちらこちらの漁具商に当ってみた。そして幸ひにも、三百円の中古の流網が売りに出てゐたので、それを手に入れた。味噌君は、流網に経験があったので、彼をデッキの方に廻し、根室の漁師を油さしに使用することにして、釧路を根拠に少し落着くことにした。
 不思議に、白洋丸は、成績がよかった。それは、だんだん遠洋漁業に経験を経てきた村上勇が、科学的にいろんなことを、考へ出して、潮流の関係や温度の具合、風速から魚の習性などを一々顧慮して敏活に船を操ったからであった。
 そのために釧路に来てから十日経たないうちに、勇は紀州へ、千円だけまづ送金することが出来た。彼の存往はすぐに魚市場で知れ渡った。魚問屋の丸一商会も、彼のお蔭で商売が出来るといって喜んでくれた。かうして一ケ月はとくの間に済んでしまった。
 恰度第四回目の航海を了って、八百円ばかりの鮪を積み、雨の降ってゐた底冷えのする十月の終の土曜日の午後、白洋丸が釧路の港に入ると、丸一商会の番頭が、彼に一通の電報を手渡した。それには、
『ハハキトクスグ カヘレ』
 といふ、人を吃驚させるやうな内容が書かれてあった。日付を見ると、もう四日も経ってゐた。
『これぢゃあ、駄目かな?』
 とは思ったが、念のために一度電報を打ってみようと、彼は郵便局に走った。その日の晩方、備後の福山の母が頼ってゐる下駄屋の佐藤の店から返電が来た。
『ハハスコシモチナホシタガ アンシンデ キヌスグ カヘレ』
 といふのであった。
 何だか折角釧路までやってきて。漸く成績を上げた処を、見すみす帰って行くのは残念なやうに思へたが、仕方がないので、あとのことは万事卯之助に任して、十日程帰ってくることにした。船では五日位かゝる処を汽車では僅か二昼夜半で帰ることが出来るので、動くことに馴れてゐる勇は、釧路から福山まで帰ることをあまり苦にしなかった。二昼夜半汽車に乗り続けて、勇が福山の下駄屋の奥座敷に駆けつけた時は、山陽道にも、秋風が紅葉の葉を赤く染め出す頃であった。母は思ったより元気で、
『来なくてもよかったのに』
 というてくれた。義理の兄は、母の病気が、腎臓結石であることに病名か決定したので、倉敷の病院に入院させて、外科手術を受けさすつもりだと、悲痛な決心を示してゐた。さういって、義兄は、勇を別室に連れ込み、
『不景気で手術料がないからどうかしてくれんか?』
 と依頼した。勿論そんなことがあらうと予測して来た彼は、洋服の内懐から財布を取出して、今まで貯めてゐた月給と。代別金の一部分を合せて、金百円を姉の姑に手渡し、よろしく頼むとお辞儀をした。