海豹の35 芭蕉の葉の破れ目

  芭蕉の葉の破れ目

 その日の午後、久し振りに勇は姉婿と母と三人で倉敷へ向った。忍耐深い母が、痛みを訴へるにつけて、孝心深い勇は身代りになってあげたいと思った。医者は、手術をしても助からないだらうと宣告した。それを聞いて勇はほんとにがっかりした。然し、そのことを母にはいはなかった。病院は実に完備したもので、大原孫三郎氏が理想的に建てたといふだけに、患者の待合室になってゐる植物園の如きは、熱帯の森林を思はせるやうなものであった。然し、さうした立派な植物園も母の死にはかへられなかった。手術は明日といはれたので、彼は黙ってこの植物園に退き、誰も居ない大きな芭蕉の蔭で、ひとりさめざめ泣いた。
 ――父の命令を守って、海を棄てない決心した勇は、母の顔を見ることは容易でなかった。然し、母にだけでも喜んで貰はうと思ってゐた彼の努力が、全く駄目になって、今、曾て怒りの顔を見せな
かった優しいははが、この世を去らねばならぬと思ふと、彼には耐へられなかった。
 翌日手術があった。緊張してゐた母が。急に安心したと見えて、物もいはずに眠り続けた。
『これで膿まなければ助かると思ひますがね』
 と、医者はいゝ返事をしてくれた。それで勇も少し元気を取り直して二、三日様子を見た上で釧路に引返さうと決心をつけた。その日の夕方、姉が福山からやって来た。そして、母の様子を聞いて少し安心したやうだった。然し看護婦に聞くと、この病気は長くかゝるといふので、姉と勇は、二人で相談して米国の兄の処へ送金請求の電報を打つことにした。電信局から帰ってくると、病院の玄関口で勇を出迎へた姉は、
『勇さん、ちょっと』
 といって、彼を硝子張の大きな植物園の中に連れ込んだ。姉が何をいひ出すかと思ってゐると、
『かつ子さんはまた大阪へ行かれましたよ。この間、大五郎さんの処から使ひが来て、離縁状に判をついてくれと書類を置いて行かれました』
 さういって姉は、勇に離縁状を渡した。暗い気持になってゐた勇は、沈黙のまゝそれを受取り、文面も見ないで、一旦それを服のポケツトにねぢ込んだが、
『かつ子さんは大阪へ行って、どうするんです?』
 と聞き直してみた。
『さあ、ね、またお嫁さんの口でも探しに行ったんぢゃないんでせうか?』
『嫁に行きたいとすれば、いつまでも邪魔してゐても済まないから、判をついて送ってあげようね』
 さういって、彼は、財布の中からいつも金を受取る時に押してゐる実印を取出して、離縁状に捺印した。姉はその離縁状を受取りながらいった。
『私からこれを送ったらいゝでせう、ね? 何も別に書かなくてもいゝわね? あなたが大五郎さんの家を飛出してから、大五郎さんは余程癩にさはったと見えて、浜の家も(浜の家とは勇の旧宅を指してゐた)家の持ってゐた山林も、みんな処分してしまって、私達が帰っても、もう帰る家は無くなってしまったんですよ。あっさりしてしまったものの、何だか寂しいやうに思ひますよ。あなたが乗り廻してゐた発動機のついたモーター船も、縛網に使ってゐた大きな発動機船も、大五郎さんはみんな売払ってしまったらしいね。また今年は、いつもにない不景気で、魚は少しも獲れないんだってね。島では評判してゐるさうな、勇さんは偉いって。瀬戸内海の漁業が駄目だと見きりをつけると、さっさと太平洋に乗出して、どんどん成功してゐるのは、勇さんぢゃなければ出来ぬ仕業だといって、青年団の人も、あなたの下に使はれたいといふ者が沢山あるさうですよ。今迄にね、朝鮮へ行ったり、フィリッピンに行ったりする人はあったけれども、北海道の方に出掛けて行った人は、まだ余り御手洗には、ないんですってね。だから、みな、あなたが羨ましいって、いってゐるさうですよ。大五郎さんは、今年も縛網がうまくゆかなかったのと、朝鮮の方でやってゐた漁場も失敗したのです
ってね。だから、ある人がいってゐたさうですよ。勇さんのお父さんのやうに五智網でぼつぼつやって居れば、御手洗の漁師もみな食ひはぐれないのに、大五郎さんは、あまり大きいことをしようと思って、かへって、皆に迷惑かけるといって、専ら噂してゐますって』
 離縁状に判をつぃた後の昂奮がまだ治まらないのは、御手洗漁民が困ってゐるといふ話を聞いて、姉にきゝ直した。
『そんなに皆困ってゐるんですか?』
『ほんとに困ってゐるやうね。何しろ、発動機で打瀬網を引かせて、小さい魚まで皆とってしまふものだから、つぼ網(香川県あたりで、ます網といってゐるもの)等にも、近頃は魚が入らんさうですよ。あれは、早う、どうかしてあげんと、漁師は全滅でせうね』
 ベンチに凭れて、大きな芭蕉の葉の破れ目を見つめてゐた勇は、両手をベンチの肘掛にもたせながらいった。
『日本を廻っても、瀬戸内海ほど美しい処はないがな。人間の心が腐つてゐるから、魚まで迷惑するんだなア。稚魚だけでも掴へなければいゝものを、「大長」の国立水産試験所で鯛の子を何億万匹も孵化させて、それを海に入れても、片端から網で掬うて、それを佃煮にしてしまふんだから。話にゃ、ならんわね』
 二人で話してゐる処へ、義理の兄がまたのこのこやって来た。そして勇の姉にいうた。
  淋しい底流

『困ったよ、先方はどうしても待たんといふよ。あの弁護士は悪い奴ぢゃからなア』
 その言葉を聞いて、勇は、義理の兄の佐藤を見上げながら尋ねた。
『どうしたんです?』
『いや、さ、うちの持ってゐた貸家を友達が工場に貸してくれといふものだから、貸してやったんだよ。ついうっかりして登記しておかなかったので。その友達が、自分のものとして役場に届けちゃったんだよ。ところが、その男が今度破産したので、うちの家まで債権者に取られてしまふことになったんだよ。価格は、僅かなもので、二千円足らずだけれども、今まで信頼してゐた友人が、勝手に自分の家として届出たことがどうも癪にさはってね、弁護士を立てて、先方に談判をしたんだけれども、先方は、それを今いひ出されると、詐欺取財で刑務所に行かなければならぬから、堪忍してくれといふんだよ。そんなことがなければね、私だって、お母さん一人を養ふ位はなんでもないんだかね、不景気になると、みんな無茶をするんでね。外にこんなのが三つもあるんだよ。保証人になってゐた頼母子講が損をして、千円も保証しなければならないんだよ。もう一口は、少し大きいので、機屋が潰れたもんだからね、払込みを要求して来てゐるんだよ。会社を作る時は、もう払込みしなくてもいいといふのだったけれども、借金があまり大きかったので、法律上どうしても全額払込まなければならないんだって。こいつには弱ったね。うちは八十株持ってゐたんだがね、一株百円に対して、最初十二円五十銭払込んだ、あとの八十七円五十銭、全額払込まなければ差押さへするっていふんだよ。そんな金は何処を探したってありゃしないよ、ど胆をきめてるんだが。早晩、差押さへが来ると思ってゐるんだよ。全く困ったね、かう不景気になると、思はない処から破産の申請をされるんでね』
 傍にゐた妻は、その時に笑ひながら、夫の顔に視線を注いでいうた。
『それにあなた、御手洗の村上の分があるぢゃありませんか』
『あゝ、さう、さう、御手洗のお父さんが、縛網では損をするので、五智網で小さくやりたいから、約束手形の裏書人になってくれないかといはれたので、五百円の約束手形に判をついたんだがね、それがまだ払ってないんだよ。それは多分、サンビドロの兄さんが払ってくれるだらうが、高利貸の方では責めたてるしね、下駄の方は、いくら地方に卸しても金は送って来んし、もう商売も上ったりだよ。うちの借金っていふのは一文もないんだがね。みんな人の借金をひっ被って、うちが倒れさうになってゐるんだよ』
 さういふ事情を聞いて、勇は初めて大きく下駄の卸しをやってゐる義理の兄貴が、ほんとに百円の金にも困ってゐる事がよく解った。
 姉は折返して勇に尋ねた。
『勇さん、もうあなたは御手洗に帰って来る気はないんだらうね?』
『いや、ないことはないですが、帰って来ても仕方がないぢゃないですか。姉さん、瀬戸内海は美しいけれども、美しい景色は飯米にはなりませんからね、まあ当分の間は、太平洋を家として少し働きますよ。こちく働いて居れば食ふだけはありますからね』
 姉はその言葉に対して勇にいった。
『まあ、お父さんの遺言もあるし、勇さんは海の上で死ねば、それで満足だらうね』
 母の病気は持久戦に入った。それで、姉一人が病院に残って、勇と佐藤の二人は一旦福山に引上げた。家に帰ると、佐藤は、高利貸から責められ、機屋の払込全て催促せられ、頼母子請の後始末には呼出され、わきで見てゐても可哀さうな程であった。然し借金のことだけは、働いて助けてあげるといふことが出来ないので、勇は、母の病気の様子がはっきりするまで、御手洗島へ帰って来ることにした。そして猶、母の病態が悪化しなければ、紀州の勝浦まで飛んで行き、代別金の前借をさして貰って、母の入院料にしようと思った。さう思ひ立った勇は、すぐ尾道まで飛んで行き、御手洗行きの発動機船に乗った。懐しい海山が迎へてくれる。佐木島の塩田が淋しさうに潮にあらはれてゐる。高根島の高い三角形の山が、海峡を圧してゐる。糸崎が右に見える。なつかしい汽車が三原の方から走って来る。高根島を過ぎると、浮鯛で有名な能地が右手に見える。そこから船は南にコースをとって、思ひ出の深い大崎上島の木ノ江の方に向って走る。木ノ江の前を通ったのは午後の一時頃であったが、真昼のこととて海の魔女は一人も出てゐなかった。たゞの帆前船が暢気さうに錯を下して、海峡に眠ってゐた。懐しい大山祀神社の森は遙か左手の方に黒ずんで見えて、官前には船が一艘もついてゐなかった。

  偶像崇拝

 御手洗に上陸したのは午後二時二十分頃であった。彼はすぐ友人の田辺君に会はうと、田辺旅館を訪ねたが、機会(おり)悪しく、尾道へ行ったとかで、留守であった。それで彼は想出の深い自分の家の方に廻って、姉がいうたことが事実であるかどうかを調べてみた。果せるかな、これは事実であった。門長尾の柱の上には、東条といふ標札が上ってゐた。彼の生れた家、彼が毎日其処から小学校に通うた家、その柱、その瓦、家の土台になった石、内庭に盛られた土、座敷の前に植ゑられた樹木、押入から玄関まで、一々記憶に残ってゐるその恋しい我家が、もう永久に自分の手に帰って来ないと思ふと寂しくてならなかった。それで彼はすぐその足で、父の墓のある処に廻った。そこは。御手洗神社から程遠くないお寺の裏側にある共同墓地であった。そこには、村上家代々の墓が並んでゐた。然し、父の墓はまだ石になってゐないで、木で作った墓標が、雨露に濡れてだんだん朽ちてゆくやうだった。彼は父の墓前に脆いて、暫くの間、瞑祷し、天地の神に祈った。そして新しい決心を持って、必ず瀬戸内海の漁民を救ふやうに努力すると、再び父の霊にちかって、足を卯之助の妻の家に向けた。
 路次を入って、卯之助の家に近づくと、色の黒い卯之助の女房は、今し方、何か大きな籠の中に沢山入れて、表から帰って来るところであった。
『今日は! をばさん!』
 と声をかけた。
『おや! 若! どうなしたんですか? お母さんがお悪いっていふことを聞いてゐましたが、それでお帰りになったんですか?』
 勇は、卯之助の妻が、あまりよく母の病気のことを知ってゐるの
で、びっくりした。
『まあ! お久しうございます』
 籠を頭から下して、卯之助の女房は、勇を引張り上げるやうに座敷に通した。
『をばさん、おかめさんはどうしたの?』
『あゝ、おかめてすか、また帰って来て働いて居ります。どうしても借金が返せませんからね、仕方がありませんですよ。使ひをやりませうか?。あの子はあなたに会ひたがってゐましたから……』
 さういふなり、卯之助の女房たきは、隣へ走って行って、そこの娘の子に、木ノ江の料理屋に電話をかけてもらって、『用事があるからすぐ帰って来い』と頼み込んだ。卯之助の女房は、夫から、この間、五十円送金があったといって、にこにこしながら勇にお辞儀をして、三度も四度も繰返して礼を述べた。
『若! うちの娘がいふのが面白いんですよ。若のためだったら、命を棄てゝも惜しくないんですって。この間も帰ってきていってゐましたがね、あの問題を起した娘の友達の万龍さんといふ綺麗な娘ですね、あの娘があなたに済まなかったといって、こんど是非あなたが帰って来られたら、もう一度会ってくれといっとるさうでございますよ。あの娘にも電話をかけてやりませうかね?』 ヽ
 さういふが早いか、また卯之助の女房は、家を飛出した。そして、隣の娘が電話をかけてゐる荒物屋へ飛んで行き、万龍も連れて来いと、娘に電話をかけてもらった。
 すると、早いこと、もう四時頃には、二人の娘の笑声が狭い路次に漂うた。そして家に入って来たかめ子と万龍を見ると、二人とも髪を高島田に結うて、揃ひの着物に、揃ひの大きな菊の模様の入ったピンク色の羽織を着てゐた。かめ子は、病気が余程快方に向ったと見えて。血色も悪くなく、肉付もよくなってゐた。万龍は、その反対に、やゝやつれて、血色が悪かった。二人とも叮嚀な挨拶をして、
『まあ、嬉しい!』
 を繰返した。
『お母さん、今夜私達は泊って帰ってもいゝでせう? ほんとに嬉しいわ。私ね、うちから電話がかかったっていふから、お母さんが病気でもしたかと思って電話口に出ると、万龍さんを連れて来いっていふ伝言なんでせう! まさかね、北海道へ行っていらっしゃる筈の若が帰っていらっしゃるとは思はないでせう! ひょっとすると、旅館の方にお客様でもあるのかと思って、ぼんやり二人でやって来たんですよ。(母にそれだけいうて、かめ子はまた勇の方に振向いていうた)あなたはずゐぶん大勢の人を助けなすったんですってね、新聞に出てゐましたよ。(さういって彼女はまた万龍の方を向いて)――ねえ、出てゐたわね、あなたは、あの新聞を切抜きして持ってゐるぢゃないの』
 かめ子がさういふと。万能は壊から錦で作った小さい紙入を取出した。その中には新聞の切抜が入ってゐた。それは三段抜きに大きく書いた記事であって、『快青年、数十名を救ふ』といふ見出しがついてゐた。勇が宮古の港外で奪闘したことが、要領よく報ぜられてあった。勇は、その記事を見ないで沖へ出たので、釧路でも、自分のしたことが新聞に出たことを聞かなかった。
 かめ子はきちんと坐った儘、勇を凝視しながら、甘ったるい口調でいうた。
『万龍さんはね、あの新聞記事を読んでからっていふものは、切抜を財布の中に入れて、毎日、新聞に接吻したり。財布に接吻したり……』
 そこまでいふと、万龍は、右手を伸ばしてかめ子の肩を突飛ばしながらいった。
『いやよ、かめちやん、そんなことを人前でいふのは厭よ、恥かしいぢゃないの』
『だって、ほんとだから仕方がないぢゃないの、違ひますか? あなたは、村上の旦那とだったら、心中でもしたっていゝといったぢゃないの。さういったればこそ、私か連れて来てあげたんぢゃないの』
 笑ひながら、かめ子がさういふと、万龍は、かめ子の傍にすり寄って、彼女の口に左手をあて、発言を止めるやうにした。
『そんなことを大きな声でいっちゃあいけませんよ、恥かしいから。おほほゝゝゝ』
『だって、ほんとだから、ほんとのことをいってゐるのよ、万龍さんはひどいわ……若、万龍さんをあなたのお嫁さんにしてあげて下さいな、近頃やつれましたのは恋やつれなんですよ。あなたがお嫁さんにしてあげるといってあげなければ、海の中へ身投げするかも知れませんよ、ほほゝゝゝゝゝ。それは、ほんとだわね!』
 さういって、かめ子が万龍に聞き直すと、
『知らないわ、私。旦那、あれは、みんなかめちやんの作り言なんですから、真面目に聞かないで下さいましね』
『あら、よくまあ、あんなこと、いへたもんだわね。今朝も、私の持ってゐた若の写真を取上げて、それに接吻してゐたぢゃないの……あなた白状する時に白状してしまひなさいよ。若は、男気のあるお方だから、ほんとのことをいへば、きっと引受けて下ざるのよ』
 真面目にかめ子がさういふと、涙っぽろい万龍は、早やハンカチを出して眠を拭いてゐた。万龍が泣き出したので、勇は可哀さうになったか、顔を外に向けて、裏庭に並べられてある盆栽を見てゐた。表から、料理屋の出前持が、刺身と吸物と煮付を届けて来た。酒屋から帰って来た卯之助の女房は、すぐ、ちゃぶ台を取出して、酒と肴を勇の前に並べた。彼女は、また、座敷から炊事場の方へ下りて行きながら、こんなことをいうた。
『若! 悪いことって出来んもんですなア、あの大五郎さんのうちの鬼婆がですよ。今、胃癌にかゝって、死にかゝってゐるんですって、大五郎さんも、あなたが紀州に行かれて間もなく脳溢血で、ながいこと寝てゐられましたがなア、気の毒ですけれど、仕方がありませんね。あなたを追出した罰があたったんですよ。大五郎さんもさういってゐるさうです、若が居れば。ぼちぼち家の整理は出来るけれども、若を離縁した以上は、もう家が潰れる外道はないって、自業自得ですわね。覆水盆に返らずですわね。あんな解らん親爺さんは、少し実物教育してやらんといけませんなア』