海豹の36 侵しえぬ霊宮

  侵しえぬ霊宮

 その晩、卯之助の女房たきと娘のかめ子は気をきかして、勇と万龍の床を並べて敷いた。然し、勇は止むなく万龍の傍に寝たものの、万龍を弄ぶといふ気持を起さなかった。彼は父の遺言がある点まで、完成するまで決して女には接近しないと、心で決めてゐた。さうは思ってゐても、既に女を知ってゐる彼にとって、若い娘は魅惑の的でないこともなかった。その美しい鼻筋、白く塗った襟元、柔い肩の曲線、緋縮緬長襦袢、その一つひとつが彼を誘惑した。しかし、不思議に床を並べて寝ると、万龍は無言の儘、身動きだにしなかった。勇は、みんなが寝静まってから、万龍がどんな態度に出るか寝たふりをして呼吸をこらしながら見てゐた。然し、昼、かめ子がいった言葉とは反比例に、少しも怪しげな挙動には出なかった。然し、勇はその晩寝られなかった。
 ――もし万龍を一生の妻として仮定した場合をいろいろ想像して、結局、それが決して御手洗島の漁民を祝福しないといふ結論がついたので、彼は飽くまで頑張り続けた。然し万龍は、その次の日も帰らうとはいはなかった。そしてかめ子も。木ノ江より自分の家がずっと暢気だといって、帰る支度はしなかった。然し、いつまでもぼんやりして居れないので、勇は紀州に行って来るといひ出した。すると、万龍は、
『私もついて行って構ひませんか?』
 と朝飯の時に、やさしい声で勇に尋ねた。
 それが万龍のいひ得た最大の要求だったのである。それを勇は断る勇気が無かった。もし断れば、彼女が自殺するかも知れないといふことを彼は怖れた。それで彼は、尾道まで別々に行き、尾道から大阪行きの汽船に乗って、ゆっくり二人で行って来ようと約束をした。
『私も連れて行って下さらない? 切符は自分で買ひますから』
 二人の仲の好いことを知ってゐる勇は、すぐ、かめ子の要求をも容れた。万龍とかめ子は、それが嬉しいと、両手を握り合って、
『まるで夢のやうですね!』
 と、喜んだ。然し、勇は肝心な用事を忘れてゐた。御手洗に来た一つの理由は、父の墓参りもあったけれども、もう一つは、卯之助の女房が勝浦に出てくるかどうかを訊き質すことであった。もし出て来るとすれば、勇が一家族を引連れて、勝浦へ行くつもりであった。そのことを卯之助の女房に訊いてみると、
『此処にかうやって居りますと、どうにかかうにか魚売りをして食へますから、やはり此処に居らして貰ひませう。もう五十を越したら、別に、毎晩、亭主と寝なければならないといふわけぢゃなし、卯之助は、あなたに忠義をしたらいゝんですから、どうぞよろしく頼みます』
 さういうて。別に夫の不在を気にしてゐるやうでもなかった。それで勇は、まづ娘達を木ノ江に帰し、正午に尾道の波止場で会ふ約束をして、自分は田辺旅館に出かけた。田辺旅館の息子も、勇の救難事業を新聞で読んだと見えて、初めから激賞した。そして、そのあとに加へていうた。
『君が去ってから、もう青年団も駄目だよ。みんな女にばかり熱心になって、真面目に村のことを思ふ青年など無くなってしまったからね。山を持ってゐる者は、それでもどうにかかうにかやってゐるけれども漁師のみじめなことっていったらもう乞食せんばかりになってゐるよ――あゝ、太助が困ってゐるよ。あいつをどうにかしてやって呉れんかなア。よく働くし、いふことはきくし、少しは年寄ってゐるけれども、長く朝鮮にも行ってゐたのだから、遠洋漁業には馴れてゐるしなア、連れて行ってくれんかね? あいつは確か、フィリッピンヘも一冬行って来た筈だぜ』
 太助のことで勇は思ひ出した。
『あゝ、さうだ、さうだ。太助が困つてゐたなア、こんど人が要ったら太助を頼まう』
 それから話は勇の母の病気のことに移り、勇が入院料が足らなくて困ってゐることを話すると。田辺屋の後取息子は、親切に、少し位の金なら立替へてもいゝというてくれた。然し、あまりあつかましいので、『有難う』とはいったものの、『金を貸してくれ』とはよういはなかった。田辺は漁師達の困つてゐることを忙しく説明してくれたが、然ればといって。勇に善い考も出なかった。田辺は、勇と別れる間際になって、大五郎の娘のかつ子の話を持ち出した。
『かつ子さんはまた、大阪の乾物屋の後妻に行くことに話が決まったさうな。何でも先方には、四つと二つの子供があるんだっていふが、相当に金は持ってゐるといふ話だったよ。あしこはお母さんがむつかしいから、娘の意見も聞かないで、どんどん決めたらしいなア』
 さうした言葉に対して、勇は何も答へなかった。黙って。その儘、波止場まで見送ってくれた田辺に別れを告げて、すぐ尾道行きの発動機船に乗った。発動機船に、海峡に入った。御手洗島はもう見えなくなってしまった。寒い秋風が、穏かな海面に小さい波を立てゝ、海は黒ずんでゐた。
 勇の胸には、何ともいへぬ淋しさが一杯になって、日本がだんだん奈落の底に落ちて行くやうな気がした。

  水島灘と塩飽七島

 尾道に着いて、勇は大阪行きの連絡船を探してみた。然し、いゝ船はなかった。晩の七時半には、高松から大阪に行く船があった。それで、高松まで発動機船の便をかりて行くことに決めた。さうした方が、汽車の三等で行くより五十銭位安くつくからであった。然し、もう一つの理由は、瀬戸内海の島々をよく知っておきたかったからであった。一時間位遅れて、万龍とかめ子が、高島田をつぶして束髪に結ひ直し、派手なピンク色の羽織を大島紬に着替へて、何処の令嬢かと思はれるやうな様子をしてやってきた。二人が船から上って来るや否や、波止場で待ってゐた勇は万龍にいうた。
『早変りだね!』
『だって、高島田を結うて旅をすると、潰れた時に、第一困りますし、すぐに身分を人に見破られますからね、ちゃんと、あなたについて行けるやうにして来たんです』
 濃紫に見えた透明の海水に浮かんだ浮桟橋が、大勢人が乗るたびに、やゝ上下する。
『二、三日で帰ると思ったものですから。着替へも別に持ってきませんでしたよ。いゝでせう?』
 とかめ子は、にこにこしながら勇にいうた。
『いらないよ。然し、主人にはどういって出て来たの?』
『大阪にゐる万龍さんのをばさんか、腎臓結石で、明日の日が解らぬから、ちよっと見舞ひに行って来るといって出て来たんです』
『万龍さんはそれでいゝとして、あなたはどういって来たの?』
『私ですかいな、万龍さんが淋しいからついて行ってくれといふから、一緒に行って来ます。とうまいこといって来たんです。あまりやかましくいやしないですよ。お茶屋は逃げさへしなければ、十日でも二十日でも、この前のやうに二月も家に帰ってゐても何もいやしないんですから。そら、木ノ江のお茶屋ほど自由な処は、ほかにないんですよ。だから、儲けは少くても、みんなが来たがるんですよ』
 待合室に落着いた万龍とかめ子は、汽船が晩まで無いと聞いて失望してゐる様だった。『うれしい、うれしい』を繰返して、どこかの令嬢らしい風采を装うてきたのはいゝが、堅いベンチの上に一時間も待ってゐることが辛気臭いと見えて、万龍は海鬼灯(うみほゝづき)を口の中に入れて、きゅうきゅう鳴らし始めた。かめ子は、煙草屋の店に走って行つて、巻煙草を吸ひ出した。然し、それも、すぐまた飽いて、二人揃うて、両手を繋ぎながら、海岸の散歩に出掛けた。勇はその間を利用して、もとから懇意な魚問屋の升屋商店に入って、長距離電話をかけさせて貰ひ、倉敷病院の母の容態を看護婦に尋ねた。その返事は、
『だんだんおよろしい方です。御心配は要らないやうです』
 といふいゝ報せであった。それで彼は安心して、電話料を置いてまた波止場に出てきた。待合室には、万龍とかめ子が、蜜柑をぱくっいてゐた。そこへ高松行きの、やゝ大きな、形のいゝ白ペンキで塗った発動機船か入ってきた。
『小さいポッポかと思ってゐたら、ずゐぶん大きな船ですね』
 と万龍は喜んだ。
 船はすぐ尾道水道を東にぬけ、田島、百島を後にして、鞆(とも)の津に入り、更に海岸線を伝うて、きたない港の笠岡に寄せた。そこから神ノ島と本島の間に出来た狭い瀬戸を南にぬけ、神武天皇の伝説の残ってゐる高島を右に見ながら、漁民の計画的発展で名の知れてゐる白石島の東海岸を過ぎて、石材で有名な北木島の豊浦に着いた。
 このコースを初めてとるので、勇には珍しかった。北本島は、島が富んでゐるので、この島だけには電燈がともってゐると、乗客の一人がいうてゐた。北木のすぐ南の真鍋島に船はまた寄港した。こゝは打瀬網が盛んだと見えて、五十艘位の打瀬網が宵の来るのを待ってゐた。万龍は、
『可愛らしい港ですね』
 と、勇の傍の欄干に身体をもたせて、小さい声でいうた。実際、形の整った、山の繁った美しい島であった。船はまた其処を出て、すぐ南の佐柳島に寄って、高松行きの客を積んだ。佐柳島の南側は欧洲航路のコースに当ってゐるので、一万噸級の大きな汽船が、快速力で走ってゐるのが見えた。発動機船は更に方向を転じて、真東に進んだ。佐柳島のすぐ三町ばかり東側に大きな無人烏がある。かめ子は、
『もう此処に降りてしまひませうか? 瀬戸内海の島でも、此処まで出てくると、浮世離れがしたやうな気がしますね』
 とひとり言のやうにいうた。日は西に傾いて、島の影が紫色に、長く海の上に落ちた。暢気さうに、五人がかりの地引網を丸島の東側で、無言のまゝ引いてゐる漁師達があった。船はそれから広島に寄せ、更に徳川時代の水軍の根拠地であり、法然上人が立寄られたので有名な塩飽本島に寄って、今度は一直線に南へ向いた。
『讃岐の金毘羅さんを有名にしたのはこの島なんだよ。この塩飽本島には昔、大金持が住んでゐて、千石船を幾十艘も、日本全国に廻したものだから、讃岐の金毘羅さんが、あんなに有名になったんだよ』
 と、他の乗客に聞いたまゝを、勇が、万龍とかめ子に話すと、二人は面白がって、目をぱちくりさせた。
 高松に着いたのは五時過ぎであったが、午後七時半の大阪行きに乗る時に、万龍は妙なことをいひ出した。
『私、鳥目かも知れない……‥だって少しも目が見えないのですもの』
『変だね』
 さういひながら、かめ子は盲のやうになった万龍の両手をひいて、やっとのことで、大阪行きの大きな汽船に、彼女を乗せた。
 その晩、三等室で、勇と万龍とかめ子の三人は眠ったが、翌朝七時に大阪の天保山に着くと、万龍は、少しも目が見えぬといって泣き出した。然し、外側から見ると。何処にも故障があるやうには見えなかった。
白内障(そこひ)になったのかも知れませんね』
 かめ子は、勇にさういった。然し、美しい若い娘が、生れもつかぬ盲になったことを可哀さうに思った勇は、すぐタクシーを雇うて、大学病院に飛ばした。そして診断の結果、かめ子がいふ通り、梅毒性の白内障たといふことに決定した。