平和使節団の思い出 阿部義宗

 特急電車を3分とめる

 1941年、日米間の関係が悪化し、太平洋の風雲急なる時、日本基督教連盟(原罪のNCCに当たる)では代表8名を選び、米国訪問することになった。外務省(近衛内閣)に話したところ大賛成だったので、実行することになったが、費用がなくて困っていた。その時、主婦の友社社長の石川武美氏が費用全部の援助を申し出たので、この企てが実現した。

 代表の氏名は賀川豊彦、小川清澄、斎藤惣一、小崎道雄、河井道子、松山常太郎に私を加えて7名で、在米の湯浅八郎氏がこれに加わった。一行の代表は私であったが、最大の存在は賀川であった。その年の3月初め、一行は米国に出発した。当時私は日本基督教団設立の準備委員長であったので、用務を片付けてから、少し遅れて賀川とともに船で横浜からシャトルに向かった。シャトルで賀川ととともに同地の牧師会に招かれ、挨拶をかねて、日本における神の国運動の事情を報告した。当日は午後2時にシャトルを出発することになっていた。約100人の牧師を前に賀川は、時間も忘れて話し続け、私が時計をふって合図しても、なかなか話をやめようとしなかった。1時45分になってようやく賀川は話をやめた。記者の出発までに時間がないので、非常なスピードで車をとばした。しかし2時きっかりに出発する特急列車には間に合いそうにもなかった。
「キップは損したね」と賀川は言った。駅に着いた時は発車時間におくれること3分であった。2人は車をおりて駅の構内にかけこんだ。すると駅長が叫んだ。
「急ぐな、急ぐな、ドクター賀川のために汽車を待たせてある」
 私は嬉しさのあまり、賀川の手を取って、駅長の前に走りより礼を述べた。
 そんな米国人でも、いまだかつて特急列車を3分も待たせた者はいないであろう。賀川は意図せずしてそれをなし得た。これは賀川が米国でいかに尊敬されていたかを示す一例である。

 阿部君、支那に行かんか

 私たちは特急列車でロサンゼルスに着き、リバーサイドにおいて各派を代表する16人の牧師たちとともに、日米間の緊張がやわらぐようにと祈った。
 大西洋岸アトランティック・シティで第2回の日米会議を開いた時のことである、或る夕方、賀川とともに海岸のボード・ウォークを歩いている時、2人の米国婦人が向こうからやって来た。彼女らは賀川を見るや、
「あなたはドクター賀川でしょう」と話しかけてきた。「そうだ」と答えると彼女らはつづけて、
「賀川さん、あなたは米国に来るより、なぜ支那に行かないのですか? 日本の兵隊が南京で悪いことをしているではありませんか。そんなことをしないように、なぜとめに行かないのですか」。
 彼女らはこう言って立ち去ってしまった。賀川はじっと考えていたが、突然私に向かって
「阿部君、支那に行かんか」
といった。命令するような、訴えるようなこの短い一言の中に何か、大きな力が感ぜられた。
 大戦が勃発して2日目に、私はすべてをなげうって中国に行き、終戦まで5年とどまった。これはこの時の賀川の一言に動かされたのである。その時の悲しみに満ちた賀川の眼を今も忘れることが出来ない。

 神の国は飲食にあらず

 私たち使節団がニューヨークに行った時、米国キリスト教連盟が中心となり、約30人の牧師が集まって、一行のために盛大な晩餐会を催した、一同が席につき、食前の感謝がささげられ、ナイフとフォークを手にとろうとする瞬間、賀川は私に向かって「僕が挨拶しよう」と言った。私は
「代表は私だ。君が挨拶する必要はないよ」と反対すると、賀川はむっとして、
「いや、挨拶する」と言い、立ち上がった。賀川は会衆をぐるりと見わたして言った。
「皆さん、このように盛大な宴会を催して下さったことに対し感謝します。しかし神の国は飲食にはありません。私たちのいただくものは一片のパンでよいのです。それが神様の下さる世界最大のものです。私は聖書の教えに従って、このような贅沢なものは食べることができません」
 賀川はそう言って席についた。しーんとして座が白けてしまった。
 するとディーフェンドルファーが立ちあがり、
「ドクター・カガワは預言者であるから、人の意表を突くような言葉を述べる。実に、ドクターカガワは神の人である」とほめたたえた。一同はこのことばにより緊張をほぐし、ようやくスプーンを取ることができた。(基督教学校教育同盟会総主事、『百三人の賀川伝』から抜粋)

 阿部義宗
 河井道子