「日米会談の舞台裏」 阿久沢英治

 昭和十六年四月二十二日に渡米した賀川先生は、同年八月十八日に帰国されたが、横浜港へ迎えに行った私の顔を見るやいなや、「阿久沢君、日米会談をどう思うか」という質問を発せられた。その当時日本は支那事変という泥沼に足を踏み入れて進退難に陥り、国民を挙げて心を痛めていたのであった。日米会談というのは、時の内閣総理大臣であった近衛文麿公が事変の収拾をもてあましていたおりから、十五年十一月二十九日、米国カトリックの最高学校メリーノールの事務総長でカトリックの神父補助監督ドラウト師が産業組合中央会理事井川忠雄氏と会見したのに端を発し、近衛ルーズベルト会談の案が持ちあがり、その計画は近衛総理の共鳴となり閣議を動かし、十六年一月二十三日野村大使の特派にまで進展し、ついで井川氏及び当時陸軍軍事課長であった岩畔泰雄氏等の出発となったのである。

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