『死線を越えて』の発刊(1)

 賀川が貧民窟に入って10年たった頃から、その体験を生かして書いた論文が、中央の知識人の間の話題にもぼってきた、ことに『貧民心理の研究』は異色のある著述として学会からも注目せられた。
 そこへ沖野岩三郎が、大正7年11月の雑誌「雄弁」に「日本基督教界の新人と其事業」を書いて、賀川を紹介した。
 この頃、山本実彦が雑誌「改造」を創刊しようと準備していて、この記事によって賀川に関心を寄せた。賀川が「改造」に寄稿したのは、4号の「唯心的唯物史観の意義」が最初で、その後は毎号論説を発表した。「神戸に賀川という変った学者がいる」と噂されたのはこの頃のことである。「改造」の編集長、横関愛造と「大阪毎日新聞」の記者、村島帰之は、どちらも早稲田大学の出身であった。村島は『ドン底生活』を書いて、一風変った新聞記者として名声を馳せている、新しい思想の理解者であった。賀川がアメリカから帰って、2カ月たつかたたぬ大正6年7月14日の午後、大阪堂島田蓑橋際の大阪府知事官舎で、大阪府救済事業研究会の月並例会があった。この日は新帰朝者の賀川が「貧民心理の研究」と題して講演した。
 この講演の大要を筆記して、「大阪毎日新聞」に載せたのが村島である、これによって、賀川と村島の友情が結ばれた。村島は、1日、賀川の住む新川貧民窟を訪ね、賀川の献身的な事業を視察し、非常に感激した。
 村島と横関の間で、賀川の自叙伝的な小説を、「改造」に掲載しようと云う話がまとまって、それが改造社長山本実彦に伝えられた、山本は親しく貧民窟に賀川を訪ね、その生活と事業に深い感銘を覚えた。そして「死線を越えて」の原稿を受け取って東京に帰った。
 「死線を越えて」は三河の漁村で闘病生活をしている時代に書いた「鳩の真似」である。「鳩の真似」は其の後「再生」と改題されたが、山本に原稿が手渡される時には更に「死線を越えて」と改められた。
 大正9年1月号の「改造」に小説「死線を越えて」が35ページに亘って掲載され、更に「死線を越えてについて」という一文が付記された。その全文をかかげる。
「本篇は何分600枚にわたる長編なので、本号には僅かにその5分の1しか掲載することができなかった。それに肝要な部分は伏字又は削除の余儀なきものがあったので、何となく不徹底のうらみがあるのはまことに残念である。本篇の主人公が、真に活躍するのは、来月号からである。賀川氏の豊麗なる詩想と、徹底せる思想とが、血と涙によって描きだされる、火の如き熱筆を期して待たれよ」
 「死線を越えて」に対して作家方面からの批難は激しいものがあった。しかし、製本屋の小僧の如きが、2回、3回と待ち構えて読んでいることが分かったので、反対を押しきって4回まで掲載された。
 その後、単行本にする計画がすすめられた時、村島は危惧の念を抱いてあまり賛成しなかった。しかし、改造社はそれを敢行した。(続く=横山春一著『賀川豊彦傳』から転載)