中ノ郷質庫信用組合を生んだ清き質屋さん=奥堂定蔵

 奥堂定蔵は明治28年9月1日、栃木県那須郡黒羽川西町の中野家に生まれた。同42年3月、川西尋常高等小学校を卒業したが、当時は日露戦争大勝利の直後であったので軍人志望で、宇都宮士官学校に進みたい希望をもっていた。しかし、意に反して義兄につれられて上京し、神田岩本町の衣類および羅紗商、奥堂倉之助商店に見習いとして入店した。

 奥堂商店は間口20間、倉庫4カ所をもつ大問屋で、使用人も番頭、小僧合わせて34人の大世帯であった。当時の徒弟制度はきわめて厳しいもので、休日は年に2回、正月とお盆だけであった。また当時の風習として見習い店員は新聞さえ読むことができなかった。奥堂は好奇心の強い少年で、新聞は店員にかくれて読み書物は家人が寝静まってから読むという熱心さであった。しかも仕事に対しても懸命に努力し商才もあったので、勤続13年にして奥堂家の養子となった。そして、先代が病気で倒れたので店をまとめて滝野川に質店を開業した。

 奥堂の信仰は、若かりし頃の夫人の家庭教師から聖書の講義を聞き、キリスト者の道に魅せられたときから始まる。28歳の大正13年6月8日、聖パウロ教会で聖公会の監督(主教)松井米太郎師の導きで洗礼を受け、34歳のとき師に誘われて、3泊4日の行程で草津に赴き、聖バルナバホールのらい病患者に接する奉仕者、英国婦人ミス・コンウォール・リー(Miss Cornwall Legh)の敬虔な姿をみて、ここで魂をゆさぶられた。「やっと聖書の教えがわかり、魂が入り我が道を切り開く心が育成された」と、深い入信の境地を述懐している。そして大正11年、神戸葺合新川の貧民街に賀川豊彦を訪ね、その真剣な伝道事業と人格にうたれて、奥堂の信仰はゆるぎないものとなった。

 関東大震災の社会大混乱のなかで、質屋業者があまりに不当な高金利で庶民階級を圧迫するのをみて義憤を感じ、同志と計って質屋改善連盟をおこし、業者の覚醒を促した。また一方では、有限責任北豊島消費購買組合を設立し、スローガンに「団結は力なり」「消費者の団結は新社会を生む」とし、これを大きく掲げて協同組合の理想の実現に努力した。

 賀川が本所基督教産業青年会を設立して社会事業に精進しているとき、奥堂は訪ねていった。その目的は、日本における産業組合の運動をいかに実践に移すかということを問うためであった。

 ここに賀川、木立、奥堂による中ノ郷質庫信用組合の創設の企てが生みだされていった。この組合が設立されるや奥堂は初代の専務理事となり、経験深い質屋業務の知識を存分に活用し、日本ではめずらしい質庫信用組合の基礎をつくりあげ発展させていった。

 昭和7年には姉妹協同組合である東京医療生活協同組合の監事となっている。どこまでも敬虔なクリスチャンとして協同組合の仕事一筋に進んできている。

 昭和31年5月には、中小企業発達功労者として東京都知事賞を、43年5月には同じく中小企業発達功労者として勲六等瑞宝章を授与されている。また同49年2月には郷里の栃木県黒羽町自治功労賞を授けられた。

 昭和49年5月には、木立が病気のため組合長を引退したので、その後に就任し、現在まで組合長として組合業務の第一線に席を置いて働いている。

 奥堂は、どこまでも真面目な実践者であり、いまも次のように語っている。
「この後、なんの心残りもないが、中ノ郷質庫信用組合が存続する限り、4代にわたるキリスト教精神だけは存続するよう念願するものである」

中ノ郷信用組合五十年史、1979年から転載】

 グラミン銀行と中ノ郷質庫信用組合