日本農民福音学校 金田弘毅

 西宮市郊外の瓦木村にあった「日本農民福音学校」は昭和2年2月11日から3月10日まで1カ月毎年開かれ、昭和17年、太平洋戦争で閉鎖されるまで15年続けられた。
 最初は校舎もなく賀川先生が自宅を開放して教室とされた。校長は杉山元治郎先生で、校主が賀川先生、教務主任が吉田源治郎先生で、私は昭和5年から主事として聖書を教えることと全部の事務の責任者とされた。
 瓦木の賀川先生の家と云っても、それは二軒が一棟となっている借家で、家賃が一軒につき25円と云うお粗末なものであった。その離れに賀川先生のお姉さんの病床があり、そのお世話をする為に中原さん御一家が住んでいられた。
 農民福音学校の生徒は北は北海道から南は鹿児島、琉球にわたる全国各地から集まってきたが、12名が定員の処へ、5、60名も志望者があった。
 枡崎外彦、永井政一、坂井良次、横山春一、小林憲、大川拡と云う人々が卒業生名簿に載っている。
 どんな教育がなされたか? ヒントはデンマークの国民高等学校から得られたと云うことであるが、日本流に云えば、吉田松蔭の松下村塾の様だったと云えば一番近い感じであろう。
 賀川先生は神の国運動その他で忙しく、4時間しか睡眠時間もないと云った日常であり、1年の中で自分の家でやすまれるのは精々90日位と云った時代であったが、それでも農民福音学校の間は、最初の1週間と最後の1週間は必ず皆と寝食を共にし、午前中3時間の講義をされて居た。
 農民福音学校が終る頃には毎年必ず洗礼式が行われ、今まで信仰のかなった者も1カ月の生活で皆信仰を与えられて受洗するのが普通であった。賀川先生はまだ寒さの残っている3月の中旬、近くの武庫川に行き、生徒達と共に川に入って洗礼を授けられるのであった。
 しかも農民福音学校は当局からは厳しく監視されていて、開校式の時から必ず、刑事が二人来て生徒の名簿と時間表を写し、毎日キチンとどの時間にも出席し、講義内容を筆記していた、そして生徒の郷里の警察に連絡したものだから、理解のない親は社会主義の賀川や杉山の処に行って我が子が赤になっては大変だ、と偽の電報で帰郷を促したり、手紙をよこしたりしたものであった。
 講師は賀川先生、杉山先生、吉田先生の外に村島帰之、湯浅八郎、駒井卓、山本一清、竹内愛二、遊佐敏彦、行政長蔵と云った顔ぶれは何時も変らず、藤崎盛一、川瀬勇、久宗壮の3氏が専任講師のような形で加われ、「6畳の王宮」の著者錦織久良子女史が短歌について、保良せき女史が農村衛生について、木村清松氏が世界漫遊談、柳宗悦氏が民芸について、また富田象吉氏が石井十次について、西阪保治氏が教会学校について、林歌子女史は矯風運動について話されると云った具合で、実に多方面の名士を網羅していた。
 昭和7年に小説『一粒の麦』の印税で一麦寮が建ち、20名が定員となり一層充実したものとなって来たが、昭和17年太平洋戦争の勃発で閉鎖の止むなきに至り、私も12年間の主事の責任を解かれた次第である。
 私は今その12年間を振り返り、何よりも感銘深く思い出すのは、賀川先生が生徒達と非常に親しくなられ、一人ひとりの性格と問題をよく心に留めていられたこと、そして、また講師の費用全部と、生徒の食費も半額補助と云った具合で経済的にも時間的にもずいぶん多大の犠牲を、此の少数の農村年達の為に惜しまれなかったことであった。(イエス団理事 『神は我が牧者』から転載)