鼎談 下中弥三郎と世界連邦運動(5)

 やさぶろ窯のこと

 茅 私は、下中さんの“やさぶろ窯”の御飯茶碗をいただいているんです。大切にしているんですが、びっくりしたんですよ。こういう趣味も持っておられたのかと。

 尾崎 もともと丹波立杭焼の………。

  出がそうなんですね。

 田中 小学校の頃から土を練ったり、いろいろ陶器をおつくりになっていたらしいですね。

 尾崎 立杭焼というのは、非常に素朴な味のある焼ですからね。

  趣味として焼物をつくるなんというのは、非常に人間的であるんですね。そういう意味で実にふさわしい茶碗をいただいたんです。大事にしまってある。普段は使わせないんです(笑)

 田中 先生はまた書道をお好みになって、揮毫されることがお得意で、たくさんお書きになりました。私も何本かいただきましたが、パール・下中記念館ができて、そこへもご寄贈申し上げました。あそこにもたくさん下中先生の書いたものがある。ある書道の専門家にご覧に入れたところが、すばらしい書だと言うんです。

 短歌も大変おつくりになられたけれども、いわゆる歌人らしい歌ではなくて……。

 尾崎 それぞれそのときの心懐を託して詠まれるという………。

 田中 そうなんです。頭の中にひらめいてくるものが、三十一文字になってパッパッと出てくる。あれなども先生の一面でしょうね。

 尾崎 私は八重樫昊さんに頼まれて伝記をまとめるのに、お宅に何回も足を運んでいろんな話を伺うことができたわけですけれども、伝記はまとまらないで、社史の形に発展してしまいましたけれども、そうやって打ち解けていろんな話を伺っていると、スケールの大きさというものをまず感じさせられましたね。そして一見思いつきに言われることが、だんだん時間がたってみると、ちやんと実現性をもって生きてくる。これは大変なもんだと、後になって教えられることがある。

 田中 先見性というか、先生が指摘されたことが、今日どんどん実現されてきもするし、そういうように世の中も動いてくる。だから、先生の発想が五年から十年くらいずつ先を行っておられる。そういう感じですね。

  そういう下中弥三郎という人間は、誰の感化を一番よけい受けてでき上がったんですか。そういう人間が、ひょこんと生まれるとは思われないんですがね。

 尾崎 丹波の山奥だけではない発想ですからね。ただ、直接の先生というよりも、先ほどカントから始まって西郷に至るまで、いろいろな人の影響を受けたというお話がありましたが、やっぱり在野であり、学校にほとんど学ばなかったというだけに、自分にとってこれだと思われるものは何でも吸収できる。だから、すべてが先生だという発想の中で培われてきたんじゃないでしょうか。

  すぺてが先生だ、というのは、いい言葉ですね。

 田中 百年に一人出るか出ないかといったような人ですね。

 下中最後のことば

 尾崎 きょうここでこうやってお集まりいただいているクラブ関東は、ちょうど下中さんが亡くなられた当日、皆さんとお会いした忘れることのできない場所でもあるわけですね。たまたま同席された方たちの御記憶も鮮やかだと思いますけれども、そのときの最後のお言葉はテープにとられレコードにもなっているようですが………。

 田中 先生が亡くなられたその日、昭和三十六年の二月二十一日の五時頃からクラブ関東で会が開かれたんです。それは、あの松平康東さん(国連大使)が国連で発言されたことが国会でいろいろ問題になった時です。世界の治安に任ずる国連平和部隊の創設に日本も協力するといった松平発言が、日本の海外出兵につながるという意味で国会で問題にされ、松平大便は招還され、帰国中であった。先生は松平さんに同情し、この会に招いた。そのときの出席者は北村徳太郎、片山哲谷川徹三(哲学者)、鮎沢巌(ILO事務局)、山田節男(広島市長)、時子山常三郎(早大総長)、和歌森太郎、藤田たきという先生方と西沢恒治氏と私。これは何の会というんじゃなくて、とにかく皆さんに言いたいことがあるから集まってくださいという案内状を出したんです。いつもはタイプで打ったり、私が代書して御通知するんですが、そのときは下中先生がちび筆で案内状を書いたんですよ。
 場所はこの建物です。いつも小さいグラスでブドウ酒をせいぜい一杯ぐらいなんですが、その日は大変御機嫌がよくて、三杯飲まれた。それで顔がほんのりしまして、立って皆さんにお話しされた。それが、後から思うと遣言なんですね。
 どういうことを言ったかというと、世界連邦運動に自分が関係してから十年にもなるけれど、一向に目鼻がついてこない、残念だ。これを何とか飛躍させたい、それには皆さんのお力を借りなくちゃいかぬ、ということが骨子なんです。
 私がいま、先生は御機嫌がよかったと申しましたが、それは、ケネディに書簡を出されて、その返事がたまたまその日に着いたんですね。

 尾崎 記念すべき日ですね。

 田中 ええ。ご存じのように、ケネディは、人類が戦争を滅ぼさなければ戦争が人類を滅ぽすであろう。力の抗争に終止符を打とう、世界に新しい法の秩序を打ち立てようではないか。という大統領就任演説をするわけですが、これに先生はいたく感銘しまして大いにやれということを手紙にお書きになるわけです。それは、単に励まし程度のものじゃいかぬから、要望という形で意覚を出そうというんで、六つの意見を述べておられる。いま読んでみても、その当時のおかれたケネディ大統領の立場に対する非常に適切なアドヴァイスだと思うのです。
 こういうことを言っています。一つは、アイゼンハワー前大統額のソ連封じ込め政策は誤りである。百八十度転換して、封じ込め政策をやめなさい。第二は、集団安全保障体制というものは平和につながらない。だから集団安全保障制度を洗い直せということ。第三は、米ソは世界平和の責任者である。人類を皆殺しにするような兵器を両方とも山積みにしておるけれども、それだけに重大責任があるんだ。だからそれをどうやったら廃絶することができるか、余人をまじえずソ連首相とさしで真剣に話しなさい。英仏その他の国の思惑を加える必要は毛頭ない。
 第四は、発展途上国への援助は、アメリカもソ連もひもつきでやっている。つまり自分の言うことを聞く国だけに援助しておるが、それはやめなさい。国連に一つの機関を設けて、そこへプールして、そこから必要に応じて援助するプール方式をとりなさい。これなどは、びったり現在に当てはまりますね。第五は、国連の平和維持機構というものをもっと強固にする必要がある。そのための国連憲章の改正を行ないなさい。最後の六番自は、中共を速やかに国連に加盟させなさいというのです。この手紙を早稲田の長谷川先生が翻訳してケネディ大統領に送ったんです。
 これに対する返事が着いたのが、お亡くなりになる二月二十一日。大変いい忠告をいただいて感謝申しあげる。私の在任四年問を通じて先生の意に沿うように努力したいと思う。というジョン・ケネディのサインをした返書がとどいたわけです。
 それと、平和ノーベル賞を得られたイギリスのボイドオア卿という世界連邦の初代会長からも、その写しに対する返事が二、三日前に来て、このおニ人の手紙を当日集まられた先生方に発表されたわけです。
 それでブドウ酒も二杯余分に召し上がって、足がふらふらされていた。皆さんお帰りになったとき、私と西沢君が先生の手を支えるようにして階段をおりだしたところ、わしを病人扱いにするな、その手を放せ、わし一人でおりる、と言ってきかない。仕方なく手を放すと五、六段のところをトットットッとおりて、ポンと踊り場に立ったんです。ニコッと子供みたいな笑顔をされまして、どうだ、ちやんと歩けるだろうと声を出して笑われ、自動車でお帰りになった。
 そして、お風呂をお召しになって、お風呂場で倒れる。いかにも先生の最期らしい大往生ではなかったかと思います。

 尾崎 いまのお話にもありましたけれども、下中さんが考えていらっしやったことの見通しというか、先見の明というものが、そういう遣言の中にも出ている感じがいたしますね。

  ケネディへの六ヵ条は、いまになって、それでなきゃだめだっていうことがよくわかるんですね。こういう考え方が基調になっていたんですね。

 田中 ほんとうに大したもんです。

 尾崎 ではどうもありがとうございました。

 この座談会は下中弥三郎生誕百年記念特集の平凡社社内報(1978年6月12日号)に掲載されたもので、その座談会の全文をご出席者と平凡社のご諒解を得て一冊にしました。

下中弥三郎を語る−その人と思想」(発行者:パール・下中記念館、1978年10月3日)から