鼎談 下中弥三郎と世界連邦運動(4)

 出版人教育者としての下中弥三郎

 尾崎 確かに世界連邦運動、七人委員会の構想は、それそれ下中さんらしい面白さ−−という言い方は悪いかもしれませんけれども、独自性というものが大きく影を投げているという感じがいたしますね。
 そういう問題を踏まえながら、出版人としての下中弥三郎、あるいは国際的な文化という面での下中弥三郎を少し補っていただきたいと思います。平凡社といえば百科事典と言われるくらいに、一つのイメージができ上っている。平凡社は、もともと『や、此は便利だ』で始まった歴史から言いましても、百科事典的な構想は基本的な路線としてあったわけですが、その底には学習権というものを平等に広く多くの人に与える。限られた人達の知識ではなくて誰にでも学習権はあるんだ。それが与えられなかった人達に知識を公開する。そして人類の文化的共有財産を豊かにしていく、といった発想が、出版人・教育者としての下中弥三郎の考えの基礎にあったんじゃないだろうか。世界連邦運動にしても発鹿途上国の多くの民衆に経済的な自主独立を与えたい。何らかの協力をしたいという発想が基礎にあると言われましたが、まさに出版人としての発想も世界連邦運動などと共通した認識から出ているんじゃないでしょうか。

 田中 昭和三十一年に、日中出版文化交流で中国へ渡りまして………。

 尾崎 代表団長としてですね。

 田中 ええ、それで北京協定に調印してこられます。それから、三十三年に日ソ出版文化交流でソ連へ赴きまして、やはり出版文化の交流を約束してこられる。その間の三十二年には中谷武世、中曽根康弘両氏を従えてエジプトへ参りまして、ナセルと握手して、アスワンハイダムを日本でやろうという構想まで打つわけですね。これは工ジプトも本気になって考え、日本のある方面の人も真剣に考えたんですが、何か故障があって、できなかった。
 それは別としまして、出版と平和、あるいはそれに付随して教育の問題をひっさげて、晩年の十年間というものは、下中先生は毎年海外に出られている。縛を放れし鷲のごとく、これから世界にはばたくんだという先生の歌があるんですよ。これは愛妻家である先生が奥様をおなくしになられたということが一つある。それまでは奥様は先生の健康を慮って海外旅行を強くセーブされておられたらしい。

  なるほど。

 田中 どうもそういうきらいがあるんですよ。それで、奥様が亡くなられてから世界連邦、出版文化、教育に打ち込む。

 その教有のことに一言触れさせていただきたいと思うんですが、出版と平和と同時に、三本の柱としての教育の問題は、先生を語るときに見逃すことのできない大きな柱だと思うんです。ちょっと調べてみましたら、大正十一年に沢柳政太郎先生をかついで、日本国際教育協会というのをつくっておられます。それから大正十三年には野口援大郎、為藤五郎、志垣寛といった人達とともに、新しい教育としての「児童の村小学校」というのをおつくりになって運営されている。戦後は、これは私も関係したんですが、追放解除と同時に生産教育協会という財団をおつくりになりまして、東大の宮原誠一さんとか桐原葆見、東京工大の海老原敬吉、早稲田大学の田中彦太郎といった先生らと一緒に、戦後の日本の農耕技術を高め、工業の生産性を高めていこう、それには働きながら学ぶという例の先生の"万人労働の教育"の根本原理を現場に生かしていこうというので先生はそのことに熱中する一時期があります。
 その中で一番実を結んだのが、長野県の伊那にできた上郷農工技術学校というのを先生がテコ入れしまして、豊川海軍工廠から廃物機械五十台を導入して学校に据え、南信工業高等学校という定時制の高校を建てられた。つまり生徒が働きながら技術を覚え、しかも学費をそれにより補って行くというユニークな学校です。それが県立に移管されて、今日の飯田工業高等学校になっております。

 尾崎 それに加えれば、大倉山文化科学研究所長に昭和二十八年になられ幾多の優秀な学者を養成し、さらに戦前にさかのぽると教員組合の啓明会を建てたこともありますし、婦女子教育という点で早い時期からいろいろ活躍されて、婦女新聞、児童関係の新聞、そういうものを編集しながらやったという点でも先駆者であるということは間違いないところですね。

 田中 もともと大百科事典というものも、教育ということが根にあってのものですからね。

 尾崎 出版人として、ただ単に本を出して儲けようということじゃなくて、それが文化的にどう結びつくか、教育の問題にどう結びつくか、言ってみれば教育実践のための出版だったという面もあったと思いますね。

  なるほど。

 尾崎 つまり、戦前戦後と大ぎな百科事典が何度も出ているわけで、しかも百科事典のたびに平凡社はやや苦境に立ち至ったりした時期がある。

 田中 ややどころじゃないんじゃないですか(笑)。

 尾崎 逆に、その苦境を救ったのも百科事典。

 田中 そうです。

 尾崎 そういう点では、明暗こもごも百科事典にまつわってくるような出版社ですね。何度そうやってつまずいても百科事典を押し通していく、というその基礎には、教育者としての実践というものが、非常に強く心の中にあったんじゃないかと思いますね。

  さっきお話しした文部省と日教組の対立も、非常に悲しまれた。対話がないから対話をしようじゃないかという勧告にも、灘尾さん絶対聞き入れないんで、がっかりしましてね。私は灘尾さんとずいぶん親しく付き合って現在に至っていますが、あのときほど頑強な灘尾さん見たことがない。

 尾崎 そういった意味では、学ぶ者と教える者との間に断絶があるということも、本当に耐えられなかっただろうと思いますね。下中さんの昔からのいろんな書かれたものを見ても、人間的な交流を土台に置いて、そこからいわゆる人間教育をやるという発想が強いですから、そういう意味でも、例の教員組合の啓明会にしましても、それを単に労働組合的に発展させるということだけじゃなくて、教育の実践というのが一つあるわけで、いつも変わらない、一貫して自分の考えを生涯貫いた方だったと言えるかもしれませんね。

  大学の学生騒動というのが、下中さん亡くなられてからありましたね。私は、あの時代に下中さんおられたら、どういうことをやられたかと、時々考えたことがある。非常に心配されたと思いますね。

 尾崎 ほかにも日本出版クラブの創立をはじめとする出版文化国際交流会の設立や日本書籍出版協会の設立だとか、いろいろ出版界での裏の役割も果たしてこられているわけですけれども、最後に、下中さんの人間的な印象というか、お付き合いを通しての人柄だとか、そういうお話をしていただけないでしょうか。(続)
 「下中弥三郎を語る−その人と思想」(発行者:パール・下中記念館、1978年10月3日)から