祈っているかね 金田弘毅

 昭和10年(1935)の夏、イエスの友夏期聖修会がヤマトの多武峯で開かれた時だった。午後の講演を終えた賀川先生は
「金田君、一緒に風呂に入ろう」
と誘ってくださった、そしてお風呂の中で先生は
「僕は暫くアメリカを廻って来ることになると思う、君は会堂の与えられるように祈っているかね」
「ええ、祈っています、教会員も少しずつですがそのために献金しています」
「どの位献金が出来ているかね」
「そうですね、200円位あるでしょうか」
「そんな小額では仕方がないが、祈って居たまえ」
「ええ、祈ります」
「祈っていればかならず与えられるからね」
 しかし、実際は祈ってもなかなか大変で、正直に言って与えられるという確信はなかった、当時物価は安かったが、それでも土地は坪50年位はするし、建設費は少なくとも坪当たり100円は必要と考えねばならない、たとい30坪の会堂を建てるにしても土地と共に5、6000円はかかる。200年の貯金が何になろう。
「祈っていたまえ」と言われたから祈りはするが聴かれるのは遠い遠い未来でしかあり得ないが・・・と私は全く頼りない気持ちで毎日お義理のように会堂を与えてくださいと祈っていた。
 翌年の昭和11年(1936)1月末、次男義国が生まれた。ところが、1カ月目に病院で猩紅熱を感染させられて母子とも病臥してしまった。未だ1歳半の長男弘光の子守と家内の看病と雑用に追われて、私は心身ともに疲れ果ててしまった。家内は猩紅熱は治ってもその後の心臓衰弱がひどく、少し働いても39度から9度5分の高熱が出るので殆んど何も出来ず、衰弱は加わるばかりだった。パウロの「誰か弱りて我弱わざらんや」で「わが最悪の年だなあ!」と長嘆息して毎日を送る私であった。丁度その時、アメリカの賀川先生からの手紙が来た。
「ボストンで開かれた私の講演会が大盛況で、集会費用を差し引いた残りの入場料約2000ドル(当時の日本金6300円)近くあったのを貰ったから送ります。土地を借りてこの金で会堂と保育園とを兼ねた建物を建ててください。吉田源治郎、西阪保治両氏に相談して下さい。主にあれ! 1935年4月20日ボストンにて トヨヒコ 金田大兄」
 この手紙を読んだ私は全く、死から甦った思いだった。こうして現在の日本基督教団大阪生野教会と聖浄保育園の前身、生野聖浄会館が現在の地に与えられたのだった。