「愛と協同−賀川豊彦」 山下俊史

 10月10日、「賀川献身100年記念徳島県民フォーラム」が徳島市徳島県郷土文化会館あわぎんホールで開かれ、約300人の会場には市民や関係者が埋め尽くした。テーマは「賀川豊彦の再評価−21世紀のグランドデザイナー」で、元コープこうべ理事長で神戸大学名誉教授の野尻武敏氏が基調講演した。続くシンポジウムでは山下俊史日生協会長原耕造NPO法人生物多様性農業支援センター理事長濱田陽帝京大学准教授がそれぞれコメントした。

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 立ち返りたい「一人は万人のために、万人は一人のために」精神
  山下俊史(日本生活協同組合連合会会長)

 日本生活協同組合連合会(以下、日本生協連)は1951年3月に創設されました。その初代会長が賀川豊彦その人でした。当時、日本生協連で一緒に仕事していた先輩方は会長である賀川のことを「先生、先生」と呼んでいたと聞いております。私自信は、1944年生まれですので、賀川豊彦がなくなった1960年にはまだ16歳でした。実は、残念なことに中学・高校時代に賀川の名を耳にする機会には恵まれませんでした。

 私が賀川豊彦の思想や業績に触れるようになったのは、生活協同組合の活動に参加するようになってからのことです。ですから私は、8代目の会長となりますが、直接賀川に接したことはございません。
私のほうからは、主として生協運動、生協活動に絞って賀川を語らせていただくつもりですが、この賀川ゆかりの地である徳島とのかかわりから語りはじめたいと思います。

 賀川豊彦が徳島の本家に引き取られたのは1893年、5歳の時でした。徳島市内で下宿していた徳島中学校時代に片山先生の塾に入ったことがきっかけで、宣教師ローガンより英語を学び、同じく宣教師であるマヤスより1902年に洗礼を受けました。翌年には賀川家の破産といった災難にみまわれました。決して幸福ではありませんでしたが、この時代の大変な労苦が後の賀川の精神的な支柱となったことは確かだと思います。いろいろと紹介された文献では、賀川は「本の虫」と呼ばれていたようです。あるいは疲れた心や体を吉野川流域で癒したともいわれております。

 この賀川が19歳のとき、肺結核で何度も死線をさまよった経験の中で自らの長くない命を貧しき人びとに捧げたいという思いが生まれたと賀川自身が述べております。そして1909年、21歳のクリスマス、神戸の貧民街に身を投じました。その年から数えて今年が100年となります。

 その後プリンストン大学神学校への留学を経て、帰国後の賀川が終生精力的に取り組んだのが今日に続く生協運動です。1921年に賀川の指導の下に設立された神戸購買組合、灘購買組合は今日のコープこうべに繋がり、その思想である「愛と協同」は脈々と受け継がれてきております。1923年の関東大震災で被災者の救援活動を東京本所で行いました。

 これ以降、関東での賀川の活動は広く展開していきます。1926年に設立した東京学生消費組合は、不幸な戦争の過程で一度消滅しましたが、その活動は今日の大学生協大学生協連合会に引き継がれております。

 1927年に江東消費組合、1932年には東京医療利用購買組合を設立しております。賀川自身が何度も病で死線をさまよった経験がこの医療組合の創設に向かわせたと言えます。安い診療費で病人を救うことができる協同組合方式の「われらの病院」ということで、現在の中野総合病院が設立されました。現在の JA共済労金、全労災、共栄火災に受け継がれる共済組合運動にも取組みました。

 賀川の活動は、海外でも活発なものでした。世界各国への講演旅行を行っております。アメリカの船の中でその骨格をまとめた講演。その講演の内容を出版したものが先ほど野尻先生からのご紹介もありました『友愛の政治経済学』です。この本はわたしどものコープ出版から刊行しております。

「なぜ、協同組合なのか?」この問題を正面から語ったもっとも体系的な本がこの『友愛の政治経済学』です。私もこの本を読みましたが、賀川の思いはどこにあったのか?それは、やはりキリスト教による「アガペー」、そしてそこからくる人格に対する尊敬の念、さらに隣人同士がお互いに助け合おうという兄弟愛、これらが中心となっています。賀川にとってはたぶん、キリスト教は人類にとってもっとも全きもの、完全なものでなければならない、そういった考え方が中心にあったのだと思います。

 賀川は、その立場からイスラムキリスト教批判、マルクス唯物論などもこのキリスト教をより完全にするために自らの思想に取り込んでいかなければならないと強調しております。多くの批判を真摯に受けとめる中で考えを進めていく、このことが賀川のキリスト教信仰のエネルギーだったのではないでしょうか。

 この本では、賀川の友愛や隣人同士の協同の思想、こういった賀川の理念が具体的な実践や制度、国家構想にまで言及される形で提示されております。そういう意味で、私は数多い賀川の著作の中でも、この本が、今わたしたちが受け継いでおります協同組合の事業や組織、考え方の原点として、その拠って立つ思想として最も体系だったものであると考えております。

 この1936年の講演の影響もあって、アメリカでも協同組合が創設されました。カリフォルニア州に創られたバークレー生協などがそうです。この生協は今のお金にすれば年間100億にもいたる大組織になりましたが、1988年に倒産しました。

 このバークレー生協で機関紙の編集者であったロバート・シルジェンという人がいます。彼の書いた『賀川豊彦−愛と社会正義を追い求めた生涯』という伝記はアメリカ側の資料に基づきながら賀川の思想を生き生きと語るものです。

 賀川はその生涯で多数の講演旅行に旅立っておりますが、その期間は合計すると11年になるといわれます。アメリカでの講演は一日に何箇所も回るものでした。先ほど野尻先生が述べられましたように、アメリカ留学以降の賀川は救貧から防貧へと大きく立場を変化させております。そのときの賀川の標語が「愛」「協同」、そして「一人は万人のために、万人は一人のために」です。

 この3番目の言葉は、ドイツにおいて農村の信用組合運動を行ったライファイゼン1872年からその運動の中で使った言葉だと言われています。この言葉自身はロッジデールで生協がはじめられたと同じ年である1944年にアレクサンドル・デュマが『三銃士』の中で使ったとも言われていますし、ラグビーの選手たちが用いたとも言われています。ある研究者によれば古くはシェイクスピアにも遡ることができるとされます。

 ライファイゼンが協同組合の思想としてあまねくヨーロッパに広め、これに学んだ賀川が日本に広め、具体的な生協の組織・事業として定着させたものだと認識しております。
今は100年に一度とも言われる、暮らしの危機・経済の危機・経営の危機の時代だと思います。この時期にあたって、お互いにもう一度、「一人は万人のために、万人は一人のために」、この思想をわたしたちの思想としてどのように生かしていくべきか、生協としても創立の精神に立ち返り、そして未来に向けて歩んでいくために賀川の思想を皆様とともに受けとめながら考えていきたいと思います。