基調講演「よみがえる巨人 賀川豊彦」 野尻武敏氏

 10月10日、「賀川献身100年記念徳島県民フォーラム」が徳島市徳島県郷土文化会館あわぎんホールで開かれ、約300人の会場には市民や関係者が埋め尽くした。テーマは「賀川豊彦の再評価−21世紀のグランドデザイナー」で、元コープこうべ理事長で神戸大学名誉教授の野尻武敏氏が基調講演した。続くシンポジウムでは山下俊史日生協会長原耕造NPO法人生物多様性農業支援センター理事長濱田陽帝京大学准教授がそれぞれコメントした。

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 賀川豊彦は、神戸で生まれました。そして神戸で社会活動をはじめました。しかし、幼少の頃を阿波(徳島)で過ごし、小学校・中学校を終えました。人間の人格形成にとって決定的な時期をここ徳島で過ごされました。とりわけこの徳島における影響で重要なのは、キリスト教信仰です。中学の頃に出入りしておりましたアメリカの宣教師ローガン、マヤスのお二人に感化され 16才で洗礼をうけました。もうひとつ、賀川は英語が非常に流暢でありました。これもまたこの時期に先の二人の宣教師から賀川が学んだものです。このふたつは、その後の賀川にとって決定的に重要なものであったと思います。

現在、一般的には賀川の名前はほとんど耳にいたしません。しかし、私は九州出身ですが、中学の頃より賀川豊彦という名前を耳にしておりました。それほど有名だったのです。戦前では賀川の名前を知らない人はいないほどでした。みなさんご存知の評論家大宅壮一、彼は非常な毒舌家でしたが、賀川を追悼した本において次のように語っております。

「明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかも知れない」。そしてさらにこうおっしゃっています。

西郷隆盛伊藤博文原敬乃木希典夏目漱石、西田幾太郎、湯川秀樹などと云う名前を思いつくままにあげて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くない。そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない」。さらにこう書いています。「近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる者を一人あげよと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物――、それは賀川豊彦先生である」。

 あの毒舌家の大宅がほめちぎっている。これを見ましても、今日日本人の多くが賀川を知らないことは大変不思議なことです。事実、賀川は非常に多方面で活躍している。360度、人間領域の全方位に活動した人物なのです。しかし、私が子供の頃知っていた賀川は小説家としての賀川です。『死線を越えて』という大正期のベストセラーがあります。今のお金に直すとその印税は15億円ほどになったといわれておりますが、賀川はそのすべてを社会運動・事業に投じました。私が知っていた賀川はこの小説家としての賀川です。また、賀川は詩人としても有名です。『涙の二等分』は与謝野晶子も絶賛した有名な詩です。悲しい運命で生まれた赤ん坊と賀川との交流の詩です。また妻であるハルに宛てた『わが妻恋し』も有名です。

 しかしなんといっても社会運動です。当時、1920〜30年代において賀川が関係していない社会運動はひとつもありません。たとえば労働組合運動、協同組合運動、農民運動、平和運動、あるいは普通選挙権運動、それから世界連邦運動等々、大宅が言うように「およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発している」のです。これだけの人であるのです。しかも、国際的に非常によく知られておりました。日本においてより海外で知られている人物だったとも言えます。

 1936年にアメリカにおいて英文で出版された本があります。『Brotherhood Economics』という本です。これは、翌年イギリスでも若干の修正を経て出版されます。それ以降、ヨーロッパ諸国の各国語、ノルウェースウェーデン語などで翻訳されます。さらには、ヘブライ語、ヒンズー語、中国語と17ヶ国語25カ国で出版されている。しかしずっと日本語では読むことができませんでした。その本が100年記念事業の一環として翻訳されました。日本語のタイトルは『友愛の政治経済学』としました。コープ出版から刊行されております。 1935〜36年にかけてアメリカで行われた賀川の講演が土台となっております。この当時、ルーズヴェルトニューディールという新しい政策をはじめた頃、賀川は国務省の招きで渡米し、半年で実に500回の講演を勢力的に行いました。これに集まったアメリカの聴衆は100万を超えるといいます。

 賀川は世界各地に講演旅行にいっております。北米はもちろん、中米、南米、オーストラリア、ニュージーランド、ヨーロッパ各地、中近東から中国に至るまで世界各地を回っております。

 日本が中国と戦争していたとき、戦争していたのは蒋介石を総統とする国民党政権ですが、この蒋介石の奥さんである宋美齢は「日本は憎い。日本人を皆殺しにした。しかし、賀川先生が中国のために祈っていることを考えれば、日本を憎みきれない」こう述べたそうです。

  20世紀をとおして世界の三大聖人と呼ばれた人がいます。そのひとりはシュヴァイツアー、アフリカに入って一生を捧げた医師です。もうひとりはガンジーです。彼は非暴力によるインドの独立に一生を捧げました。そして残るひとりが賀川豊彦なのです。20世紀の世界の三聖人の一人と言われています。賀川はノーベル賞の候補に挙がりました。ひとつは文学賞、もうひとつは平和賞。残念ながら後者については審査中に亡くなられたこともあり、受賞するには至りませんでした。

 賀川は、世界でもっともよく知られた日本人のひとりと言われています。第一次大戦後、国際連盟に関して非常に活躍した日本人がふたりいると言われております。そのひとりはご存知の新渡戸稲造です。もうひとりが賀川豊彦なのです。賀川は世界に平和をうったえ続けました。海外では周知のことです。このような巨人、この賀川豊彦のすべてに触れることは、本日はできませんので、社会活動に絞って話していきたいと思います。

 賀川が神戸の貧民街に入って社会活動をはじめたのが1909年、ちょうど100年前のクリスマス・イヴです。プリンストンに留学するまでの間ずっとここで活動しておりました。2年半あまりの渡米から帰国したとき、賀川が活動を再開したのはまた神戸でした。帰国後の賀川の活動の性格は、賀川自身の言葉を用いれば、これまでの「救貧」から「防貧」へと変化しておりました。貧困にあえぐ者に宿や職を提供する救貧事業だけではなく、貧困を作らない社会を作る防貧活動、こうした「社会改革運動」をはじめました。

これについてはひとつのエピソードがあります。私はコープこうべに関係しておりますが、賀川について正面から考えるようになったのはコープこうべとの関わりをもった20数年前です。このコープこうべの前進である、神戸購買組合、灘購買組合は賀川の指導の下に作られました。ですからコープこうべは、今も賀川の基本理念「愛と協同」を掲げております。

 このうち後者の灘購買組合を創設したのは、那須善治です。この人の郷里は四国でしたが、戦争で大いに儲けた仲買人でした。ところが、彼は日蓮宗の熱心な信者でして、贅沢を嫌い、「自他享受、不惜身命」をモットーとした人物でした。この儲けたお金を社会に役立てたい、その思いをどう叶えたらいいのか神戸の住吉に住んでいた平生釟三郎という人に相談に行きました。平生は甲南大学の創設者であり後に文部大臣も務めた人物でした。平生は、当時貧民街で活動していた若い牧師である賀川に相談するよう答えました。こうして那須は賀川のもとに向かいました。賀川は那須に「それを慈善事業に使うのも悪いことではない。しかし、それはデキモノに膏薬を貼るようなものである。膏薬を貼ったところはよくなるかもしれない。しかし、別のところにまた別の吹き出物ができるだろう。吹き出物自体ができないような体質作りにお金を使ったらどうか?」と述べ、生活協同組合の理念について語りました。こうして那須は灘購買組合を創設することになったのです。

 さて、次に労働組合運動の話にまいりましょう。当時、友愛会という団体があり、鈴木文治(彼は熱心なクリスチャンでした)を筆頭に日本の労働運動の草分けとして活動しておりましたが、ここで賀川が行った貢献も凄いものです。灘購買組合が設立された1921年、この年の夏、日本最初の労働争議である川崎造船所・三菱造船所に労働争議がおこりました。この日本最初の大規模ストライキを実質的に主導したのは賀川豊彦その人だったのです。さらに、農民組合とくに現在のJA共済に引き継がれている農業共済を創ったのは賀川です。普通選挙権運動、平和運動、世界連邦運動など賀川はさらに次々と運動を展開していきます。つまり、賀川は日本だけではなく世界全体の大改造を考え、これを推進しながら生涯を終えたのです。

 第一次世界大戦が終わるのが1918年、そして第二次世界大戦がはじまるのが1939年。その間の20年間は大変な時代でした。日本では、1923(大正 12)年、関東大震災が起こりますと、賀川はすぐさま本格的な救援ボランティア活動を組織しました。これを機にして賀川は東京に移り、その活動を全国的に展開しはじめます。大変な時代でした。その数年後の1927年に金融危機が起こります。今日も金融危機ですが、このとき神戸は大変な状態にありました。神戸の新興財閥鈴木商店が破綻します。29年には世界大恐慌がはじまります。当時の失業率は今日よりもさらに高いものでした。この大恐慌を背景に1939年の第二次世界大戦が開始されます。その間、日本は、5・15事件、2・26事件、満州事変、日中戦争そして1941年にはとうとう日米開戦を迎えることとなります。

 この時期、賀川は何を考えどう行動していたのでしょうか。賀川は自由資本主義の悲惨な結果(貧困とすさまじい格差)を徹底的に批判しておりました。労働者の人格はもちろん、資本家の人格も破壊する考えであるという批判です。当時、自由資本主義に対抗してでてきたソ連共産主義やイタリア・ムッソリーニファシズム、ドイツ・ヒットラーのナチズム、民主社会主義などが生まれております。しかし、賀川の構想は、これらとは異なる考えに基づくものだったのです。本来、自由で自己責任をもつべき人格がそこでは無視される。ファシズム共産主義も長続きすることはない。

 こう賀川は言い切っております。民主社会主義は、民主主義の政治を前提にしておりますが、中央政府による福祉政策を通して格差是正や貧困解消を求めます。ヒトラーが出てくるまえのワイマール政権のドイツ社会民主党やイギリスの労働党はこうした民主社会主義を実践しておりました。賀川はこうした民主社会主義も批判します。賀川は中央の政府に頼るという「政府依存」の考え方を批判します。人間の福祉というものはお互いが助け合って高められるものであり、これを中央の政府に頼るのは間違いであると述べております。では何が望まれるのか。賀川の答えは協同組合によって築かれる国家、協同組合主義に基づく政治体制の再編です。これが賀川の示した「第三の道」です。賀川がこの具体的なモデルとして現実に頭に描いていたのはデンマークスウェーデンでした。

 さて、こうした賀川の社会理論には3つの大きな柱がありました。そのひとつは「行動的・実践的なキリスト教神学」です。賀川はよく「わたしに向かって、 “主よ、主よ”と言う者が皆天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」という言葉を引用します。信仰を個人の心情の問題として扱う人は多いが、それはキリスト教の半身不随であると賀川は言っております。キリストの実践に倣い、命をかける。こういったキリスト教の実践が賀川の社会構想の基本にあります。

 二番目の柱となりますが、賀川の基本理念は「人格」と「友愛」のふたつです。「人格」という言葉には注意が必要です。人間は「個individual」としては犬やネコと同じです。別個独立の存在individualであるだけはなく、人間は「人格person」でもあります。人格、これこそが、人間にとっての基本理念なのです。人間だけが神の姿を映すパーソンなのです。神が自らの姿に似せて造り給うたもの、これが人格、パーソンです。人間の命の尊さはここから生まれているのです。人権とはこのキリスト教における「人格=パーソン」という理念の尊厳と価値から流れでてきたものです。

 もうひとつ、キリスト教において神とは愛です。人間を愛することは神を愛することです。この友愛こそ、賀川が掲げたもうひとつの価値理念です。兄弟を愛することは神を愛することであり、神を愛することは兄弟を愛することです。パーソンにおける自律、そして他者を愛するという友愛、この二つを基礎にして社会が運営されるべきである。これが賀川の考えたことです。社会は自律と責任をもってお互いに助け合っていく、これを基礎にして積み上げられていくべきだ。この基本理念を体現するものとして賀川が示し、そしてその活動に没頭したものが協同組合なのです。

 最後のひとつは「唯心論idealism」です。経済学という角度から眺めた賀川の特徴です。当時はマルクス主義が強い影響力をもちはじめた時代です。賀川の資本主義批判は、マルクス主義と近いところが多くあります。人格の奪回や人間の回復などといった考えは両者で共有されております。しかし、決定的に違うのはすべてが「経済」によって規定されるというマルクスの考えです。経済関係や生産力が修正されれば、すべてが上手くいくという考えです。賀川はこうした楽観はもちませんでした。経済関係や生産力も人間の精神の創造物であると考えます。賀川は精神を変えていくことを訴えます。そこで出てくるのは、「唯物論」とは大きくことなる「唯心論」の構想です。協同組合の7か条の最期に賀川が挙げているのが「教育」です。革命ではなく教育によって社会の理想に近づけていく。これが賀川の社会理論のひとつとなっております。

 こうした賀川の構想は今日において大きな意義をもつと思います。賀川の生きた時代と今日の状況は非常に似通ってきております。賀川の時代の金融恐慌と今日の金融危機、格差問題。さらに今日、貧困が大問題です。かつての大恐慌の時代、「ものがないから貧困」というわけではなく、店頭にはものがあふれながらも、外では多くの失業者が飢えておりました。こうした事態に賀川は憤慨し、新しい社会を築くための運動に力を注ぎましたが、今日の貧困も「豊かさの中の貧困」です。賀川はこれを「過剰の貧困」とも言っております。こうした賀川の射程は近代文明の批判へも向かいます。このうち、モノにのみ興味をもって心を失ってしまう物質主義、自分だけよければという個人主義、さらに効率主義、この3つが近代文明の病理を生み出したものとして批判されます。

 これまで、賀川の時代との類似点に言及してまいりましたが、相違点もございます。社会の編成が大きく変化してきております。市場経済の失敗は国家の行政の役割を必要とします。市場だけでは上手くいかない。自由市場は万全ではない。「市場の失敗」という認識が広く共有されております。一方で、「国家の失敗」もあります。あれかこれか市場か国家か、そういったものではなく市場と公的関与をどう結びつけるかが問題なのです。ここ30年、行政でも企業でもない第三の組織であるNPOなどの「中間組織」が急激に増えてきております。こうした中間組織がカバーする領域が広がってきていることが顕著な社会編成の変化として指摘できます。生協はNPOにはあたりません。「利益を配分しない」という原則が生協をNPOの定義上からはじいているのです。

 しかしヨーロッパをみてみると生協こそが中間組織、ボランタリー・セクターの代表なのです。このボランタリー・セクターにおいて中心理念となるのは「友愛と連帯」です。市場で中心となるのは「自由と効率」です。行政で中心となるのは「平等と公平」です。国家と市場との仲介をはたし、社会の運営の中心となって歩んでいく、これが中間組織であり、その代表的な存在が協同組合です。160年の歴史において「友愛と連体」を中心理念に掲げてきたのは生活協同組合です。この生協、国際的にはICAという組織があり、8億のメンバーを抱える世界で最も大きなボランタリー・セクターです。賀川豊彦がいま生きていたら、この生協によって世界を新しい方向へと進めていこうとするはずです。

 自然の限界という認識も重要です。いま私たちが直面している自然、資源の限界、この問題の重要性を70年も前に指摘したのは賀川です。賀川の構想は、こうした現代的問題が引き起こされるのを見通しておりました。また、世界は、植民地主義や戦後の東西冷戦から冷戦の崩壊、アメリカ一極支配などめまぐるしく情勢が変化しております。さらに、2001年の9・11テロ、BRICsの台頭、昨年のアメリカ発金融恐慌など、アメリカ一極支配がはっきりと崩れてきました。新しい社会編成はまだ模索されている最中です。環境問題の克服も喫緊の課題となっております。賀川の主張した世界連邦の構想は、これらの情勢が孕む困難を克服する道筋として示されたものです。

 これから世界を「助け合い」の形で再編成することが必要となります。賀川が危惧した事態が生じております。今まさに、賀川が何を考え、何を構想したのか考えるべき時代がきております。特に賀川の郷里でもある徳島の皆さんはこのことについてより意識的に考えなければならないのです。今日はどうもありがとうございました。