日本の協同組合運動に再び光を/協同組合年に賀川スピリット(2)

 立体農業と高崎ハム

 賀川豊彦が関連した農村工業でもう一つ忘れられないのが高崎ハム。つい最近まで協同組合経営だった。高崎ハムのホームページには誇らしげに1938年の設立の背景を書いている。
「昭和初期の大不況で荒れていた農村の更生に、農業の多角化も奨励されていました。そのような背景の中、農民たちが相諮ってつくり上げたのが『高崎ハム』でした。高崎ハムは、わが国唯一の農民資本による食肉加工メーカーとして、創業以来、終始一貫して農民の意志により運営され、業界内の全国有数の企業にも劣らない組織として成長してきました」
 当時、群馬郡農会長だった竹腰徳蔵は生産者による畜産加工を考え、御殿場で農民福音学校を経営していた賀川豊彦に頼った。この学校は高根学園といい、デンマークの農民福音学校(ホイスコーレ)に学んで経営していた。賀川は社会運動家であるだけでなく農村復興のために「立体農業」を推奨していた。アメリカの農学者ラッセル・スミス教授が提唱したもので、1933年にはその著作を『立体農業の研究』(恒生社)として翻訳していた。
 賀川の立体農業は独特だった。地球上の1割5分しかない平地にしがみついていたらやがて食料が不足する。米麦穀物は中心にするが、残り8割5分を立体的、つまり山に依存すべきだと主張した。つまり、シイタケを育て、クリやクルミを植え、ヤギやヒツジを飼って乳をとる。農閑期の田んぼではコイなど淡水魚を飼えば農村経済は相当に充実するという。いまでも通用するかもしれない“理論”だった。
 賀川を支えたのは藤崎盛一。東京農大出身で賀川の信奉者のひとりだった。岐阜県からシイタケ栽培の専門家を招き、シイタケ栽培で成果を上げ、ハクサイの栽培にも成功した。生徒だった勝俣敏雄と滝口良策を長野に派遣して各地でクルミとアンズ、クリなどの栽培を学ばせる一方、土づくりにも励み、倉敷の板谷博士が発見したバクテリア「ザザ」による新堆肥の製法を指導、学園内に試験場もつくっていた。
その実験農場で、養豚・ハム製造を始めていた。高崎ハムの創業が幸運だったのは当時のハム・ソーセージの第一人者だった大木市蔵に学んだ勝俣喜六が派遣されたことであった。製造技術と製品販売についての問題を解決した。高崎ハムは賀川にとっても理想的な農村工業の一つだったに違いない。

 実践に基づく賀川の協同組合

 賀川豊彦の協同組合論は実践に基づくものであった。1919年、関西で労働組合運動を指導しながら、大阪に購買組合共益社を設立。翌年、神戸購買組合、翌々年に灘購買組合(ともに現コープこうべ)が立ち上がった。関東大震災の後は活動を東京に移し、震災後の人々の生活を支えるために本所に江東消費組合、中之郷質庫信用組合をつくり、大学生協も東京で相次いで設立させた。医療にまで協同組合の発想を持ち込み、1932年には医師会の大反対を押し切って東京医療利用購買組合を誕生させた。
当時、国民的は健康保険制度はなく、公務員と一部鉱山労働者や大規模事業所に働く人々に限られていたが、賀川は来るべき国民健康保険も組合で経営するべきだと運動していた。この運動によって戦後のJA厚生連につながる協同組合医療が農村部で相次いで立ち上がったことは忘れてはならない。
 驚くべきことに、賀川は実に多くの協同組合の設立と運営に携わったのである。それだけでない。協同組合の理論構築においても大きな役割を果たした。
 賀川は保険、生産、販売、信用、共済、利用、消費の7つの協同組合を考え、お互いに連携することで協同組合経済が成り立つと考え、「もう一度ギルドの世界に立ち戻る」ことを提唱した。
 賀川の協同組合論は「ともに生きる」という発想である。一部の資本家によって社会が支配されるのではなく、国家による経営に頼ることも排除したところが興味深い。著書の中で随所に国営になった場合の非効率性を指摘していたことは現在でも示唆に富むところではないかと思っている。
賀川の真骨頂は1935年、アメリカ政府に招かれ、全米で協同組合論について講演したことである。もちろん基督教原理主義者たちは大いに反カガワキャンペーンを張った。6カ月にわたり、148都市で500回以上の講演を行った。賀川の話を聞いた人は70万人とも80万人ともいわれる。翌年、ニューヨーク州ロチェスター市で行ったラウシェンブッシュ講座での講演は直ちにニューヨークのハーパー社から『ブラザーフッド・エコノミクス』として出版された。大恐慌後の世界経済を立ち直らせる処方箋として話題を呼んだ。この本は世界25カ国で翻訳出版され、国際的にも協同組合の理論家として知名度を上げることとなった。どういうわけか日本語版は出版されず、2009年、賀川豊彦献身100年記念事業の一環としてようやくコープ出版から翻訳された。

 兄弟愛で危機に歯止めを

 振り返ると賀川豊彦の一生は貧困との対決だった。21歳にして神戸市の葺合新川のスラムに飛び込み、日本で一番貧しい人々と生活をともにしながら、貧困の原因を考え、社会改造に何が必要かを模索し続けた。
 スラムで始めたのは一膳飯屋「天国屋」であり、貧しい人々が働く場としての「歯ブラシ工場」だった。また働く人々が怪我をしたり病気になった時に安心して通える「無料診療所」も開設した。いずれも後の多くの協同組合の設立につながる重要な経験だった。
 資本主義に内在する貪欲な体質に批判を向けながら、一方で革命社会主義の暴力性に対しても強い拒否感を持っていた。労働運動で労働者の権利を主張し生活向上を求めたり、農民運動を指導して小作農の救済のために闘いながらも、自ら革命の浸透の防波堤になろうとした。ここらが当時のサンジカリズムと一線を画するところだったが、右翼からはアカとなじられ、左翼からは日和見主義と批判された。だが賀川は人間性に潜む兄弟愛を信じ続けた。
 世界は社会主義の崩壊後、経済が一体化しグローバル・エコノミーの時代に入ったが、2008年のリーマン・ショックを契機に資本主義への反省が始まった。80年前の大恐慌後の世界と似た様相を示している。賀川が協同組合的経営を訴えたのはまさにその時期だったことを思い出す必要があるだろう。
 現在の協同組合は農協は農協、生協は生協として横の連絡が希薄に思われて仕方ない。賀川の理想は生産と販売は一体でなければならなかったし、共済や信用事業が集めた資金は農村時計製作所や高崎ハムのように地域に還元されて人々の営みを支える資本とならなければならなかった。また協同組合があげた収益は出資者である組合員に還元されるだけではなく、地域の教育や病院など社会福祉に役立てるものとされた。
 80年前の「ブラザーフッド・エコノミクス」で賀川は「現在の貧困は貧しさゆえではなく、豊かさゆえに貧困がある」と喝破している。
 賀川豊彦の研究者の一人として自負している筆者にとって2012年の国連協同組合年は賀川スピリットを思い起こさせ、日本から世界に再発信する年であると考えている。
 いま、世界を揺り動かしているのは巨大な余裕資金である。有り余ったマネーが巨利を求めて社会の弱い部分を侵食しているのではないだろうか。そしてそのマネーの一部に協同組合の資金があるのだとしたら本末転倒である。先進各国ではともに財政が疲弊しているのに、民間資金は傍若無人に地球丸を駆け巡る。そんな危機に一定の歯止めをかけられるのが国際的な協同組合の連帯ではなかろうか。国連協同組合年はぜひともそんな議論が巻き起こり、日本の協同組合運動に再び光があたることを期待したい。