少年平和読本(1)生存競争ということ

 

 弱いものは、みな亡ぼされてしまうものだろうか?
   
 進化論者ダーウイン
 
 空襲で皇居が焼けてから、天皇、皇后両陛下は御苑内の狭い御文庫におすまいになっていられるが、その御文庫の書斎には二つの青銅の像がかざられてあるという。その一つはリンカーンで、もう一つはダーウィンである。
 リンカーンアメリカの大統領で、ひどいめにあっていた奴隷を解放した偉人として知らぬ人はない。陛下もこの人道の偉人を尊敬しておいでなのであろう。
 ダーウィンはチャールス・ロバート・ダーウィン(一八〇九―一八八二)といい、イギリスの名高い生物学者で、「進化論」をとなえた人。 生物学に御造詣のふかい陛下は、この生物学者をも尊敬していられるのであろう。
 ダーウィンは、はじめ、医学を勉強していたが、のち、ケンブリッジ大学の神学部に移って宗教を研究していた。ところが、そこで、ヘンスローという植物学の教授と親しくなって、自然科学に興味をおぼえるようになり、とうとう、神学校をやめて、ヘンスロー教授のすすめにしたがい、軍艦ビーグル号で世界周航にでかけていった。そしておよそ五年、オーストラリヤ、ニュージー・ランド、南洋諸島をめぐって生物の研究をし、ロンドンに帰ってから、さんご礁や甲殻動物の研究論文を発表した。

 生物進化の理法

 その頃、ダーウィンの頭に一つの疑問がおこっていた。それは、「生物の進化」ということで、かいつまんでいうと、生物というものは永久に一つの形のままで、変わらずにいるものではなく、進化していくものであろう――というのだ。この考えはダーウィンの先生のライエルという学者もうすうす考えていたことだったが、ダーウィンはこれをハッキリさせようとして、それから二十二年、熱心に研究をかさね、ついに一八五九年になって有名な「種の起源」という論文を発表したのである。
 ダーウィンはこの「種の起源」の中で、世界にすんでいるほとんど無数ともいえるたくさんの生物の種、属および科は、その属している綱の範囲の中で、それぞれ共通の両親から発生し、その発生の道中でみな変化されたものである――といって「進化学説」を、はっきりととなえたのである。ではどういうふうにして、その進化が行なわれるか――というと、ダーウィンは、「生物の生存競争による自然淘汰」という事実に帰着する――と説明するのである。この「生存競争」ということを、もう少し、わかりやすく説明するために、進化論と関係の深い「人口論」を説明しよう。

 生存競争と弱肉強食

 イギリスの経済学者にマルサス(一七七六―一八三四年)という人があって、「人口の原理」という論文で、「人口は等比級数的に増加して行くが、食糧は等差級数的にしか増さない。したがって、人口はだんだん過剰となって行く――と説いた。つまり、食糧は一から二、二から三、四、五というように増加するだけだが、人口の方は、一から二、二から四、八、十六というように、鼠算でふえていって、人口の過剰と食糧の不足を生じてくるというのである。
 ダーウィンは、このマルサス人口論にヒントを得た。マルサスの考えたようなことは、ひとり人間だけにかぎらず、すべての生物に当てはまる事実で、その結果、生物が生きていくには、自分たちの食べ物を得るため、どうしても他の生物と競争せねばならない。そして、生きるために、食うか、食われるかの争いを続けるうち、だんだんと、弱い者は強い者にたおされて、弱者――劣者はほろび、強者――優者だけが生きのこることになる。優勝劣敗、適者生存は、まぬがれることのできない生物の運命だ。この生存競争の法則こそは、宇宙を支配する唯一の法則である――こうダーウィンは説いたのである。
 ダーウィンが進化学説の中で説いたこの生存競争の学説は、弱い者は強い者のために食われてしまうのが運命だというのだから、弱者にとってこれほどありがたくない話はない。
 もしこの学説にまちがいがないのだったら、人間の世界でも、弱肉強食が行われて、弱い国家や民族は、強大国や武力のすぐれた民族のためにほろぼされ、これも人類の運命だとあきらめねばならない。世界の平和というようなことも、まったくのぞみがないことになる。
 はたして、弱肉強食、適者生存というこの生存競争の法則が、宇宙を支配する唯一の法則だろうか。世界は強い者の支配下におかれて、世界平和の望みはないのだろうか。

 弱者も生存する

 わたしは、この点について、少年時代から疑いをもっていた。それで今から三十五年前、アメリカのプリンストン大学に留学したときも、神学の勉強のかたわら、大学の許しを得て生物学の講義を聴講し、また実験室にも出入りさせてもらって研究をした。その結果、ダーウィンの説いているように、生存競争は生物界を支配する絶対の事実だとはいえない。そこには空間的に、時間的に、また本能的にいろいろと制限があって、強者が無制限に弱者を食いちらすというような、絶滅競争はない ――ということを知って、ホッと安心することができたのである。
 もちろん、生存競争の事実はある。これを頭から否定することはできない。キリストの言葉にも「多くもてる者は与えられ、持たざる者はそのもてるものをうばわる」とあるほどで、強い者が弱い者を苦しめ、しぼりとるという事実は、人間の世界にも、またすべての生物の世界にも見られる。しかし、それにはおのずから制限があって、極端に、無制限に行われて、弱い者が絶滅するというようなことはないのだ。
 もし、生存競争の法則だけが宇宙を支配するもので、適者、優者、強者のみが生きのこるものだとすれば、弱い物――たとえば、ミミズとか、カエルとかいった何の武装もなく、敵に抵抗もできない動物は、とっくにほろんでいなければならないはずである。ところが、彼等は何万年の久しきにわたって生存している。これは一体どうしたわけであろう。宇宙は決して、弱い者がみんな強い者の餌食にならねばならぬというような、無慈悲なものではないのだ。生存競争は、決して生物界を支配する唯一絶対の法則ではないのだ。

 平和の望みはある

 一般生物界でもそうであるように、人間世界でも、弱い民族や、弱小国家が生存していける。りつぱに生存権を主張することができるのだ。戦争を回避し、世界に平和をもたらすことも、望みがないわけではない。戦争のない世界の実現は、十分、みこみがあるのである。
 しかし、平和は、ただだまつていて与えられるものではない。たなからボタモチの落ちてくるのを待っていてもダメなように、手をつかねていては、平和は来ない。わたしたちは、たがいに力をあわせて、平和な世界を作り上げるため、努力をしなければならないのだ。
 日本は敗戦を機とし、世界にさきがけて、永遠に戦争を放棄した。しかし、世界はまだ武装をといてはいないのみか、原子力戦争などの危険が加わってきている。世界にさきがけて武装を解いたわれわれ日本人は、自分たちが二度とふたたび戦争をはじめないのはもちろんのこと、進んで世界に向かって、強く平和の実現を要求しなければならない。
 世界平和のみこみはある。世界平和は必要だ。このままでは、世界が原子力の前に滅亡しないとも限らない。必要と可能とを知りながら、しりごみをしているという法はない。
 原子力をさえ発見した人間が、おたがいの助け合いと友情とによって、戦争を放棄し、平和をもたらすことができぬということはない。わたしは、少年少女諸君を敬愛し、信頼する。諸君が、この世界と人類を、崩壊と滅亡から救うために、平和の天使として、あらゆる時、あらゆる場所において、懸命の努力、精進を惜しまれないことを信じてうたがわぬのである。