少年平和読本(2)弱い生物は保護される

 何の武器ももたないで何億年も亡びない下等動物がいる
 無防備の原生動物
 地球が太陽から分離して冷たくなってから、およそ二十億年を経たといわれるが、地質学では、この二十億年を時計の目もりにならって、十二に分け、一時から五時までを第一紀、六時から十時までを第二紀、十一時を第三紀、そして十二時――つまり現代――を第四紀とよんでいる。
 第一紀の中でも最初の〇時――一時にあたる始生期は、地球が誕生したばかりのこととて、もちろん、生物なんぞはいない。それが次の二時にあたるカンブリアン時代となると、もう原生動物は生まれているが、しかし、まだ生存競争らしい生存競争をはじめたあとはみとめられない。現在も残っている生物についてみても、バクテリアプランクトン、環虫類など、みなまったく無防備で、生存競争などはみられない。
 バクテリアは単細胞からなっていて、おおむね、自分のからだの分裂によって繁殖するもの、プランクトンも顕微鏡でなければ見られない浮遊生物、また環虫類というのはミミズ、アカゴの類。蛔虫類は説明がいらないだろう。

 無抵抗でも生きられる

 こうした原始生物は、他と競争しようにも競争する武器も何もない。終戦前の日本のような竹ヤリさえ、持っていない。それでいて今日まで、五億年近くも、亡びないで生存 をつづけている。もしダーウィンのように、強者、優者だけがのこって、弱者、劣者が亡びるのだったら、これらの生物はとっくに亡んでいなければならないはずではないか。
 バクテリアの中には、人間と生存競争するものもあるが、反対に乳酸菌などのように酵素菌を生成して、消化をたすけ、人類のためになっているものもある。また近ごろ、結核に特効があるといってやかましくいわれているストレプト・マイシンも、地中にいる二万幾千のバクテリアの中の一つだというから、バクテリアだからといって、すぐ人類に有害だなどと思ってはならない。とにかく、微細なバクテリアも、こうして無防備のまま、生存を続けているのである。
 環虫類なども、やはり無防備のままニョロ、ニョロとしているのだから、強い動物にあえば一たまりもない。それだのに、何億年も生存しているのはふしぎのようだが、それはそれで、生きて行く道がひらかれているのである。
 たとえば、ミミズやナマコは、敵につかまると、自分のからだの半分ぐらいは、ものおしみしないで気前よく敵にくれてやって、あとの半分をもって、さっさと砂の中などにもぐりこんでいのちを助かる。これを「自己裁断」というのである。ミミズは前にもしるしたように、カンブリアン時代からいるのだが、自己裁断をただ一つの武器として、十何億年も存在を続けているのである。

 生存競争の輪

 あなたは質問するかも知れない。下等動物の中でも、昆虫は鳥類に食われるばかりでなく、昆虫同士食いあって生存競争をしているではないか――と。それはいい質問である。なるほど、ある虫は、他の虫の幼虫を食い、またある虫は他の虫のさなぎをたべている。それは一見して無制限に生存競争が行われているように思えるが、よく観察すると、そこには一つの空間格子(こうし)がはまっていて、めちゃめちゃの絶滅戦争はしていないことがわかる。
 ハワードという昆虫学者の研究によると、Aの成虫はBの幼虫を食い、Bの幼虫はCのさなぎを食い、Cの成虫はDの幼虫を食い、EF……PQとつながってRがAの幼虫を食うというように、大体十八種ぐらいの昆虫が、輪になって共存共栄のふしぎな組みをつくっているというのだ。ハワードさんはこれを「生存競争の輪」とよんでいる。彼らは食べられるばかりではなく、まわりまわって食べてもいるわけで、けっして弱肉強食ではなく、見方によっては、あんまり種がふえすぎてはならぬので自分たちで制限をしているのだともいえるのである。こうして生存競争の奥には、人間のはかりしることのできない神秘なものがあるのである。

 武器を持たぬ魚類

 魚類について見よう。魚の中には他と争闘し、または防衛のために武器をもっているものもいる。たとえば、腺分泌による武器――つまり毒をもっているものや、するどい歯をもっているものもいるにはいるが、その数はきわめて少ない。日本の魚の生態学研究家熊田四郎さんが南洋の有毒魚類を調査された報告を見ると、三万種もある魚類の中で、有毒なのはわずか百種にすぎない。しかも、その百種の有毒な魚類も、だいたい、さんご礁付近の、水のまったく、にごらないところにいて、河の水のはいる温帯にすむ魚はほとんど無毒だという。中には、オコゼのようなかたいとげのあるひれ(ヽヽ)をもち、あいてを刺すものもいるが、かえって他の魚類に食べられてしまう。
 うろこは魚の防禦用武器といえるが、このうろこさえもたないのがいる。ウナギはそれだ。ウナギは稚魚のときはふとっていて口もあいていず、何もたべずに産卵地の深海から二年間に三千哩も旅をする。そのあいだに、自分のからだを消費して、産卵のため河をのぼるころは、やせて、みなさんの見られるようなヒモのようなウナギになっているのである。その間、ウナギは原子力をつかっているのではないかともいわれるが、とにかく、うろこ一つもたず、まったく無防備のまま、三千哩もの旅をして、ヌルヌルと生存をつづけているというのだから、ふしぎといわねばならない。
 こうした下等動物の例を見ても、生存競争はあっても、それは無制限に行われているものでないということがわかるのだ。そこにはかならず一定のわくがあり、空間の格子があって、そのわくの中では弱い動物も強い動物から侵害されず、のうのうと生きていっているのである。

 弱小動物の時間的保護

 また弱小動物に対しては、時間的にも巧妙な保護が加えられている。
 たとえばカエルである。カエルは二月ごろ卵を生む。なぜ二月ごろのような寒い時にわざわざ産卵するのかというと、そのころは、卵を食うヘビがまだ地中で冬眠をむさぼっているからなのだ。つまり、「鬼のいない間に卵を生もう」というのである。こうして、害敵の出て来る前に、産卵をすませて、こどもの安全をはかろうというのであって、これはカエルの考えでそうするのではなく、まったく天の配剤である。
 弱い動物の卵は、強い動物のねらうところとなるので、いろいろと保護が加えられている。あるものは地中に、あるものは木の上に、害敵の目につかぬようにおかれている。中には空中にぶらりと巣をさげて置くのさえある。
 また卵からかえって成長するに従い、こんどは本能の調節によって安全な方法、形態、場所をえらんで、害敵から自分自身をまもる。ある動物は幼虫時代を地上にすごしても、成育するにつれて羽根がはえて空中にとび、蝶となり、トンボとなり、鳥となって害敵からのがれ、またある者は水中にもぐって魚となり、土中にもぐってモグラとなり、走っては馬となり、甲らをきて亀ともなる。つまり動物には本能の差はあるが、みなそれぞれ生きる道が開かれていて、生存をまっとうするようにしくまれているのである。弱い動物だからといって、みんな強い動物の犠牲になるというものではない。弱小動物に対する保護は、このように行きとどいているのである。
  
 敏捷で身軽な小動物

 あとで述べるように、大昔、ダイノサウルスといって鯨よりも大きいトカゲがいたが、そんな大動物は、らんぼうをさせないため、ことさら動きにくいようにからだがつくられてある。これに反し、弱い動物は、害敵からのがれる場合につごうのいいように、きわめて身軽にできている。鼠などがすばしっこく、害敵からのがれることは、あなたがたのよく知っているところだが、鼠は炭坑で千尺もあるところから落ちても死なないという。それほど身軽に作られてあるのだ。人間などは三間もあるところから落ちると死んでしまうのと思いあわせて、いかに小動物が保護されているかがわかるだろう。アリなどは、どんな強い風に吹かれても、また、どんな高いところからふるい落されてもへいきである。アリは皮膚からすぐ酸素の供給をうけられるようになっていて、肺蔵をもつ必要もなく、きわめて身軽である。
 こういうようにして、弱小動物は保護せられて、まったく防備をもたないのに、強い動物にほろぼされもしないで、何億年も生存を続けているのである。
 生存競争はある。しかし、同時に生存競争に対する制限、調節が行われ、また統制や支配が行われて、生存競争を最小限度に食い止めようとの努力の払われていることをしらねばならない。
 人間の世界にも、生存競争はある。しかし、それを最小限度に食い止めて、強大国だからといって弱小国を侵略することなく、世界平和を維持することは何よりも必要であり、またそれは可能である。われわれは、人間同士が、あさましく殺し合うというやばんな風をすみやかにやめて、人類が相助け、相愛して共存共栄の世界をうちたてるようにしなければ、動物たちから、けいべつされるであろう。