少年平和読本(3)なぜ食肉動物が居るか

 食肉動物にはいろいろの制限がなされている
 食肉動物も必要
 生物界に、なぜ食肉動物が存在するのだろう。彼らこそは生物界の平和をみだすものではないか――と、あなたはおっしゃるのか。まことにそれにちがいはない。しかし、さらによく生物界の実情を観察すると、平和をみだすと思われる食肉動物も、ある場合には秩序をまもるため、いてくれないとこまるのである。それはどういう場合だろうか。
 だいぶ前のことだが、東京帝国大学理学部の人が、伊豆の大島へ八匹のリスをたずさえていった。たぶん、実験用にもっていったのであろう。ところが、いつの間にかそのリスは飼っていた人の手をはなれ、野放しとなった。はじめは何事もなかったのであるが、だんだん繁殖して、いつのまにか何万匹という多数となり、これらのリスが大島の大切な産業である椿油をとる椿の実を食べるようになった。そこで、島の人たちは困って、総がかりで リス退治をはじめることとなった。こうした場合、もし大島に食肉動物がいたら、リスはそんなに繁殖しなかったにちがいなかったのである。
 臨時警察官としてのカンガルー
 わたしは十年前、オーストラリヤへいったが、各州の境界には、どこにも大きな金網がはられていた。まさか、わたしをつかまえるためじゃあるまいと思ってきいてみたところ、これは今をさる百年前、イギリスから兎をつれてきた人があったが、それがいつしか何億と繁殖して全オーストラリヤの野をあらし、これがため、何万町歩の大豆類の収穫が少しもないことさえ、たびたびなので、万里の長城の何倍かの長さの金網の長城をはりめぐらして、兎の侵入をふせいでいるというのであった。これというのも、オーストラリヤに食肉動物がいなかったからであった。すると、そこに、ふしぎなことがおこった。
 オーストラリヤにはカンガルーがいる。おなかにポケットを持っていて、こどもをその袋の中に入れてそだてるあのカンガルー。
 カンガルーはあと足が発達していて、いきおいよく飛ぶ。スピードを出せば馬よりもはやく走る。ウマいことをいうって?ほんとうの話だ。そのカンガルーは菜食動物で、けっして肉食動物ではない。ところが、兎がむやみにふえてしょうがないようになると、カンガルーが「ようし、わが輩 が兎をこらしめてやる」そういって、菜食動物である彼が急に肉食動物にかわって、兎をたべはじめた。そして、とうとう兎の繁殖を食い止めてくれた。金網はその時の遺物だったのである。
 このように、ある動物がむやみにふえすぎて、あばれるような場合には、これを取締るため、一時、菜食動物が肉食動物に変わって警察官の役目をすることもあるのである。
 またロッキー山脈に、レミングと呼ぶ鼠によく似た小動物がいるが、四年に一度ぐらいあらわれては生物をあらす。そうすると、ふだんは菜食ばかりしているスズメが、急に食肉動物に変わり、タカのようになってレミングを食べるようになる。
 こういうように、食肉動物も必要なのだ。生物分岐のバランスをたもつために、食肉動物は存在しなければならぬのである。食肉動物をつくった創造主を批難してはならない。
 食肉動物は増加しない
 しかも、ここに見のがしてならないことは、食肉動物が必要以上にふえないように、その繁殖に制限がくわえられているという事実である。つまり、食肉動物は他の菜食動物などにくらべると、はるかに繁殖率が少くなっているのである。たとえばライオンなどは、ことに繁殖率が低い。これに反し、ライオンの餌食となる羊はライオンの百倍からの増加率である。これは、一匹のライオンの生きるために百匹の羊が必要だとすれば、ライオンが一匹の子をうんだ時、同時に羊が百匹しか生まなければ、羊は一代かぎりで絶滅してしまう計算になる。そこで自然は、羊を保存するために、百匹よりもずっとたくさん繁殖するようにしているのだ――と考えられる。このようにふしぎな調節が自然におこなわれているのである。
 人間がふつういっぺんに一人しか子を生まないのも、天の配剤である。今日の日本は、食糧不足、人口過剰が叫ばれているけれど、世界全体として見ると、人口は食糧の増産の率をこえて増加しているとは思えない。ただ、文明国だけに、人口過剰が見られるにすぎないのである。わたしはマルサスのいうように、かならずしも食糧の増加が人口の増加におっつかないとは考えない。もっと地球上を開拓すれば、食糧がふえて、十分、人口が養えると思っている。わたしは、ただ人口をへらせばいいというこの頃の産児制限論には賛成ではない。悪い種を減らすといった優生学上の制限をこそ励行すべきだと考えている。
 動物界のバランス
 エルトンという動物学者はまたこんなことをいっている。
 動物界の構成は、ピラミットのように、数の多い小動物が下ずみになっていて、だんだんに、数の少い動物がその上につみかさなっていって、大体四段ぐらいの段階をつくっている。そして上層の少数の動物が、下層のたくさんいる動物を順々に餌食としている。たとえば、エビのようなものはほとんど無数にいて大きな魚の餌食となっているが、その魚がまた鯨のようなものに一のみにのまれる。その鯨をまた人間が食べる。下積の動物は上積の動物に食われても、数が多いから絶滅する心配はないのみならず、その下積の動物を食う上積の動物が、またその上の動物にくわれて自然に制限をうけるから、いかに下層の動物でも、すっかりほろびるということはないのである。
 それなら万物の霊長だといって、最上層にふんぞりかえっている人間はどうなるかというに、これはまた元へ戻って、一ばん下等の生物のバクテリアのためにその増加を制限されるのだ。このことを考えると、生物界はじゃんけんの石、紙、はさみのような環をなして平衡を保っていることを知るのである。
 食肉動物は食いしん坊ではない
 こうしたほかからの制限があるほかに、食肉動物自身が先天的に、食いしん坊でなくできていて、自分で自分を制限していることも注目されねばならない。
 わたしは十年前、インドへ講演に出かけたが、そのとき、アサム地方でおもしろい猛獣の話をきいた。それはライオンのような肉食獣でも、年が年中、牛や馬を襲撃して食べるものではなく、もし食べものを定期に十分に与えさえすれば、けっしてむやみやたらに、そこらじゅうの動物をたべるものではない。このことは、数年間、実際に菜食動物と一しょに飼って見て、はっきりとわかった――とアサムの役人が話してくれた。わたしはそれを聞いて、さすがは百獣の王といわれるライオンだけのことはある。見上げたものだ、と感心した。これも自然が食肉動物を調節し、統制している一つの例といえよう。人間もあまり食い意地をはっていると、万物の霊長というかんばんをおろしてライオンにでもやらなければならなくなるであろう。
 なお、肉食動物は、多少の例外はあるが、自分の仲間同士、食いあうということは少ない  とエルトン教授はいっている。仲間同士、殺しあいをして少しも恥としない人間は、他の食肉動物にはずかしいではないか。
 巨大動物への制限
 また、食肉動物が小動物を食いちらさないように、自然は彼らに足かせ、手かせのような制限を加えている。神の用心の深さには、ほとほと頭のさがる思いがする。
 ニューヨークの博物館へいくと、地階に第二紀の頃、地球上 にいたといわれる大トカゲ「ダイノサウルス」が、実物を見るように組み立てられている。これは、わたしの母校の、プリンストン大学のスコット博士の助手ハッチャー氏が、アリゾナ砂漠で発見した骨格をもとにして作ったものだ。はじめ掘りあてた時は大木の化石かと思ったが、もっと付近を掘ってみたところ、大きな臼のようなものが出てきた。それでよくよくしらべて見ると、それは身長百五十四尺という、鯨をしのぐようなサウルスの背骨だとわかったのである。
 ダイノサウルスの腰骨が鳥に似ているのもかわっているが、一ばん興味のあるのはからだが並はずれて大きいのにひきかえ、脳髄はきわめてちいさいことであった。人間でも「大男総身に智慧がまわりかね」などというが、この大動物も、智慧の方はチトにぶかったらしく、したがってモーションも、のろい方だったらしい。それで、見たところは化けもののように大きくてものすごいが、実際はそれほど、どうもうではなく、腹がへっても近くにいる動物をとらえるだけで、けっしてそこらじゅうの動物をかたっぱしから餌食にするというどうもうさはなかったらしいのである。つまり、戦闘力のさかんな大動物には、あらかじめ、その戦闘力をそぐよう、制限が加えられていることをしるのである。
 生命の経済のために
 さっき、生物界には仲間同士喰いあう共食の少いことを記したが、カマキリやクモの一種のタランチラの雄は雌のために食われる。これは一体どういうわけであろう。わたしはこれは生物界に、生命を経済的にとりあつかおうとする気持のある、あらわれと見るのである。
 カゲロウのように、うまれたかと思うと、つかのまに死んでしまう生物がたくさんにある。そんな生物は、まことにもったいないわけで、生命の浪費ともいわばいえる。こうして、うまれたと見る間に死ぬような動物は、寿命の長い動物に、その生命をあたえるということにすれば、生物全体としては、失われるところが少い。それと同じように、カマキリやタランチラの雄は、子孫の繁栄のため、みずからその生命を提供するのだと考えたらどんなものか。
 こうして生物は生命をむだにはしていない。カマキリもタランチラも、無秩序に生命をうばったり、うばわれたりしているのでないことがわかる。
 一体、生物は雄の方が早く死ぬ。人間も女の方が長命である。病気の感染率も女の方が低い。らい病患者の妻はおっとと同せいしていても、すぐには感染しない。これはバイ菌を殺す砒素が女性の成長ホルモンの中にあるためである。
 どうせ雌より一足さきに死ぬのなら、自分の生命を雌の餌食に提供しようというのも、生物生命の経済と見ればうなずけよう。
 なお生命の経済は、いつも雄のみが犠牲になるとはかぎっていない。昆虫の中には胎生の子に、母が自分の肉を食わせて、つぎの世代に生命をおくっていくという三代虫のような、涙ぐましい犠牲愛の実例もある。こうした事実からみても、生存競争のみが宇宙の根本精神でないことがわかると思う。