日本の協同組合運動に再び光を/協同組合年に賀川スピリット(1)

 全農が手がけた農村時計

 雪印が酪農協同組合からスタートした企業であることは意外と知られていない。古い牛乳を混入した事件をきっかけに同社は創業の原点に立ち戻るべく「三愛主義」を再生のスタートのスローガンに掲げた。「人を愛し、土を愛し、神を愛する」というデンマークのグルントヴィの教えである。創業者の黒澤酉蔵は茨城県の出身だが、曲折を経て北海道の大地に生きる決意をしてかの地に渡り乳業王国を打ち立てた。ほぼ同世代で黒澤の理解者だった賀川豊彦もまた農村に産業を育成することが夢だった。
 戦後まもなく賀川は埼玉県桜井村(当時)にあった陸軍工廠を借り受けて「農村時計製作所」を設立した。スイスの時計産業が賀川の目標だった。東洋のスイスを夢みて、「農村に精密工業を! 時計工業を!」が合言葉となった。賀川の夢に手を差し伸べたのが全国農業会(現在の農協中央会、全購連、全販連、共済連)だった。
 時計工場と技術者養成機関「農村時計技術講習所」を設立した。資本金は350万円。全農が8割、社長が1割、大倉系の中央工業も1割を出資した。会長には、全農会長、柳川宗左衛門、賀川は相談役になった。講習所長は服部の技術者、古川源一郎が就任した。
 19万坪の工場敷地には2万坪の工場建屋と2000台の工作機械がすでにあった。同年3月28日、従業員1500人で月産3万個の目覚まし時計製造を目標にスタートした。約半年後の8月に第1号の3・5インチの目覚まし10個が完成した。みんな抱き合って喜んだが、売れなかった。バリカン、電気開閉器にも手を出したが満足できるものはできなかった。1年足らずで3000万円の損失が出た。
そこへ大口出資者の全農に対する解散命令が出て、農村時計は満身創痍。経営は全農の農村工業部長に就任したばかりの谷碧(たに・きよし=後のリズム時計社長)に任され、なんとか生き残った。
 農村時計は主に目覚まし時計を生産しブランドは「Rhythm」だった。一時期、インド、パキスタンシンガポール、メキシコ、バンコックなどにも輸出していたというから驚きである。
苦難の連続だった農村時計は設立4年半で遂に行き詰まり、昭和25年11月3日に発足した新会社「リズム時計工業株式会社」に継承され、シチズンが大株主となった。

 上伊那の龍水時計

 賀川は農村改革のため、立体農業を推進したが、一方で農家の次男、三男が現金収入を得る場として「農村工業」が不可欠だと考えていた。そのころの工場はすべて都市部に集中し、農村から都市に労働力が流れる結果、スラムが増殖していた。
 賀川は長年スラムに住み付き、貧しい人々の生活ぶりを見ていたから、その実態をつぶさに知っていた。農村に工場ができれば、彼らは都市に流れ出てスラムに住む必要はない。賀川にとって、農村工業という概念はスラム街の防貧対策のひとつでもあった。
 時計技術講習所の第一期の入学生は昭和21年4月から桜井村に集まった。講習所には長野県の青年が多く、卒業生によって千曲川時計、龍水時計という二つの時計メーカーが生まれた。千曲川は長くは続かなかったが、龍水時計は上伊那で雄々しく立ち上がった。
 時計技術講習所の第一期生だった北伊那の辰野町の野沢和敏さんに取材したことがある。北伊那の農協は龍水社といって、製糸工場も経営していた。賀川豊彦の影響を受けていた当時の北原金平社長は本気で時計製造に乗り出す覚悟でいたらしい。野沢さんらが研修を終えて帰郷すると養蚕の建物の一角が「時計工場」としてあてがわれ、昭和23年11月、時計づくりが始まった。
素人軍団が2年、時計づくりを学び、さっそく生産に取り掛かるのだから、夢多きスタートといっていい。野沢さんによれば「工業高校を出たのは僕だけだったから、僕がリーダーになった。工場長のようなものだった」。生産の準備を段取りする一方で、掛け時計の「設計」が続けられた。部品づくりのため近隣に10の工場が立ち上がった。
 時計の部品をつくるため、伸銅が必要だった。銅がないので高射砲の薬莢を「くず屋」から買ってきた。これを近くの伸銅工場に持っていって「銅板」にしてもらった。機械類は桜井の工場からの払い下げが主で足りない分は東京で調達した。すべてが手作りだった。
「講習所の先生たちは東大の先生だったり、精工舎の元技術者たちだったから、講義のレベルは相当高かった」
 「時計はできた。動くには動いたが、日常的使用には耐えられなかった。北原さんには『故障する時計は売るな』と厳命された。だから商品になるのに結局2年もかかった」
 昭和30年には龍水時計の生産した掛け時計が通産大臣賞に輝いた。賀川はこれをクアラルンプールで開かれた「東南アジア協同組合会議」にまで持って行き、「これは日本の農民がつくりあげた時計だ!」と演説して廻った。
 そんな龍水時計の試行錯誤が20年以上続いた後、龍水時計リズム時計の傘下に入った。経営が悪化したからではない。海外進出を図ろうとしたが、北伊那には人材が不足していたからだった。