賀川豊彦と関東大震災 田辺健二【徳島新聞】

 世界最大級の地震と千年に一度といわれる大津波により甚大な被害を及ぼした東日本大地震。死者・不明者は2万7千人を超え、明治以来の自然災害では、1923年の関東大震災に次ぐ規模となった。関東大震災の直後、いち早く被災地に駆けつけ救援活動に尽力したのが、幼少期を徳島で過ごした社会運動家賀川豊彦(1888〜1960年)である。被災地での賀川から私たちが学ぶものは多い。(鳴門市賀川豊彦記念館館長の田辺健二さんに寄稿してもらった。

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 東日本大震災から1カ月。被害の大きかった宮城、福島、岩手などでは、倒壊した建物の中で、今もがれき撤去や死者・行方不明者の捜索が続く。全国からは多くの義援金が寄せられ、復興支援や被災者救済のボランティアに駆けつける人も後を絶たない。何か自分にできることはないか。被災者のために少しでも役に立ちたい。そう想ううち、頭に浮かんだのは「日本のボランティアの先駆け」と呼ばれる賀川豊彦のことだった。
 大正2年9月1日午前11時58分、南関東を中心に大地震が発生した。関東大地震である。テレビもラジオもまだ放送されていなかった当時、神戸にいた賀川は、翌2日の大阪毎日新聞朝刊で震災の発生を知った。後の発表によると、マグニチュードは7・9で、南関東震度6,死者・行方不明者は10万人にのぼる。
 ただちに救援活動に当たらなければならないと決意した賀川は、購買組合(生協)やYMCA、教会のメンバーらに呼びかけて、救援活動の資金や物資を集めて欲しいと要請した。
 自らは、その日の午後出稿の山城丸に乗り、4日の早朝4時半に横浜に。記者や徒歩で東京芝白金の母校明治学院にようやくたどりついた。すでに日は落ち、灯火もなく、辺りは真っ暗。あちらこちらにはまだ炎が上がっていた。
 5日、東京の主要な被災地を見て廻る。東京の被害は、地震そのものよりも、火災によるものが多かった。東京市庁に寄って、今緊急に必要な物は、現金と物資、特に衣類であることを知った。
 6日、すぐに東京を離れ神戸に戻ると、ハル夫人や同志の人たちが集めた物資を、教会のメンバーに運んでもらう。
 賀川自身は、連日連夜、募金のための講演会を、関西、中国、九州などで催した。約40回の集会で7500円余り(現在の数千万円)の義援金を集めた賀川は、それを持って、10月7日再び上京。YMCAの人たちとともに、被害の最も甚だしかった本所・深川の江東地域に救援の本拠地を置くことを決めた。
 東京全体がスラムになったようであった。救援活動は一時的な物ではなく、組織的、教育的に行われなくてはならないと考えた。賀川の神戸での貧民救済の経験が生かされた。
 同14日、再び神戸に引き返し、婦人団体や篤志家に訴え自らも書籍を売るなどして、蒲団や衣類、雑誌その他の物資を集めた。16日、イエス団の同志4人とともに三たび東京へ。そして18日、本所松倉町(現墨田区)に5張りの大型テントを張り、震災救済活動の拠点とした。このときの救済活動に参加した人々と東京YMCAが協力し、本所基督教産業青年会が設立され、さらに中ノ郷質庫信用組合、光の家保育園、東駒形教会などが生まれた。
 大正13年4月、政府は、各界の代表を集めた諮問会議「帝国経済会議」を召集し、賀川もその一員に選ばれ、日本の経済復興のために手腕を振るった。東京は「帝都復興院」総裁の後藤新平の強力なリーダーシップもあって、新帝都として見事に復興した。
 関東大震災によって、江戸文化の名残が完全に消え、昭和モダンの大衆文化時代が到来した。そして、その後の日本は、昭和恐慌、世界大恐慌満州事変から太平洋戦争に及ぶ15年戦争など、試練の時代へ。関東大震災は、そんな時代の大きな転機であった。今回の東日本大地震は、それをさらに上回る転機になるといわれている。
 原子力発電所に象徴される近代工業文明、大量生産・消費による物質万能時代が終わって、いかなる時代が来るのか。願わくば、減少し荒廃する地球資源や環境を守り、分け合って、すべての人に本当の幸せがもたらされる時代が来てほしい。関東大震災の被災者救済活動に心血を注いだ賀川の思いを、現代に生きる私たちも共有したい。