協同組合と賀川豊彦(3)

三・賀川と戦後の協同組合

 一・日本協同組合同盟の設立

 国民は戦争中から食糧難による飢餓と物資不足に悩まされてきたが、敗戦によって都市部に住む多くの市民は焦土に投げ出され、毎日を食うことに追われていた。とくに衣食住が深刻で、疎開した人もしなかった人も焼け出されて家のない人はバラックで雨露をしのぎ、初めは物々交換の闇経済でその日暮らしをしていた。が、遅欠配の長期化でタケノコ生活も底をつき、配給する品物が乏しいのに、闇物資の購入だけは取取り締まった。このインチキ統制経済に怒りを燃やした庶民は自衛のために立ち上がったが、その一つは米よこせデモであり、もう一つは協同組合の組織化であった。
 このような状況下で、東京都内で自然発生的に協同組合の組織化が取り組まれたのは、敗戦直後の一九四五年十月ごろからである。戦前から協同組合運動に携わっていた三つのグループは、当初は別々に相談をしていた。ひとつはロッチデール派と呼ぱれる賀川豊彦を中心とし
た人たちで、賀川、藤田逸男、木立義道、山岸晟の四人が毎週一回集まって全国消責組合協会の再建を協議したが、会合のたびごとに参加者が増えた。
 同じころ、山本秋、菊困一雄ら労働者消費組合(関消連系・モスクワ派)の同志も協同組合懇談会をもち、旧活動家と町内会や隣組の有志の結集に努力していた。これらのグループとは別に、鈴木満洲雄(注二三)の事務所に黒用泰一、渋谷定輔など産業組合と農民組合につながりのある人々が集まり、都市と農山漁村とを問わない幅広い協同組合の結集をめざしていた。また、会合は別々にもたれていたが、協同組合関係者全体に共通する気分として戦争中の分裂にたいする反省があり、戦後は統一した協同組合連合会を結成する意見が強まった。そこで、黒川泰一と山岸最が間に立って、前記の三グループに江東消費組合の再建で奔走していた嶋田啓一郎(N・バルウ著『協同組合保険論』の共訳者。後年同志社大学教授)グループと、全消協常任であった木下保男(家庭購買会)を加えることになった。
 (注二三)鈴木満州雄=秋田医療組合初代組合長、満州国合作社東京事務書長。当時、共栄火災で働いていた黒川泰一は、九月某日午前十時に連合軍総司令部の命令で二十四時間以内に間借りしていた東京海上ビルから全員退去を命ぜられた。やむなく黒川は鈴木に頼んで、丸ビル横の康徳会館横にあった満州国合作社東京事務所に共栄火災事務所を移転させた。その後黒川は、日本協同組合同盟設立のために、共栄火災を退社している。

 これらの人々によって、「協同組合再建懇談会」が東京・神田の基督教団ビルで開かれ、この会合には賀川、藤田、木立、山本、菊田、黒川、山岸の七名が出席して、戦後の協同組合運動の統一について話し合った。その後もこの懇談会は数回もたれたが、創立準備委員会(一九四五・昭和二十年十一月三日)を経て、東京蔵前工業会館で「日本協同組合同盟(略称・日協)創立総会」(同年十一月十八日)を開いた。総会の呼びかけば有馬頼寧賀川豊彦、千石興太郎、志立鉄次郎の四人でなされ、全国からは約一○○名の有志が参加した。
 政治活動や労勘運動の分野でも戦線統一の努力がされていたが、いずれも戦前の思想系譜によって分裂が固定化したので、協同組合戦線の統一は画期的だったといえる。
 その背景には、戦争中の厳しい弾圧のなかで、モスクワ派の共働社にロッチデール派(灘購買組合)の那須善治と田中俊介が金融支援を惜しまなかったり(注二四)、賀川が当局の弾圧と組合員の脱退で解散寸前の共働社との合併に協力したことがある(注二五)。また、マルクス主義者の山崎勉治が賀川社会事業研究所にいたし(注二六)、関消連や学消で非合法活勤家とも一緒に仕事をした山岸晟や、四・一六事件で二年間も拘留されたり冶安維持法違反で検挙(一九四四年一月)された黒川泰一がいたので、相互の人間関係は悪くなかった。イデオロギーは違っても分裂してはならないことをおたがいに知っていたから、創立された日本協同組合同盟の網領では「協同組合戦線における単一の給合的結集体」であることを規定したし、政治的には超党派
会員の政治的意見は自由であることを宣言した(注二七)。
 (注二四)「那須、平生はともに労働者の自主的な消費組合に理解を示し、東京共働社の創立期に担保物件の提供や銀行の貸越契約の保証などの援助をし、(山本秋のいた)関消連の分裂の困難に際しても融資金の棚上げ要請に応じて大危機を救ったことがある」(「山本日本生協史」一六七頁)
 (注二五)「私どもにたいする政府の弾圧はろこつとなり、……せめて光輝ある共働社だけでもまもろうと、……その頃関係も好転していた賀川さんを組合長とする江東消費組合に合同を申し入れた。……その後賀川さんから私に話があり、『あさって私はアメリカへたって来春三月ごろ帰るから、それまでトクと(合併について)考えてもらいたい』といわれた。これは賀川さんが、ときの権力に屈せず、また一にも二にも労働者に深い愛情と、その利益擁護に真剣であることの証拠にほかならない」(日協連顧問、元関消連中央執行委員戸沢仁三郎氏談。『生協運動』一九六○年五月号)
 (注二六)「東京世田谷の賀川邸内に私費をもって賀川社会事業研究所(所員は賀川氏と山崎)を設立する以前は協同組合運動のなかにおいてさえ、私のマルクシズムを基調とする協同組合思想は、賀川系統とは、むしろ対立する立場にたっていた」(協同組合研究家山崎勉治「生協運動」一九六○年五月号。山崎はN・バルウ著『協同組合保険論」共訳者の一人、「日本消費組合運動史」ほか著書多数)
 (注二七)「日協第三回大会(一九四八年五月)で共産党野坂参三政治局員と壇上で握手した賀川会長は、『思想は違っても我々の胃袋はお互いに一つしかない。共に協力しよう』と歴史的な答辞をした」(日本生活協同組合連合会二十五年史)

 このような中央の動きと並行して、地域では多くの消費組合が続々と結成されていった。もちろん、戦前からの消費組合は米軍の爆撃で致命的な打撃を受けていた。たとえば、米軍の爆撃で灘購買組合は本部、甲子園、北口支部などが壊滅し、神戸消費組合も本部と長田、兵庫、籠池の各支部が消失した。江東消費組合も小岩店を除いて壊減したが、戦後に事業を継続ないし再開したのは家庭購買組合、江東消責組合、神戸消費組合、灘購買組合、大阪共益社、福島消費組合の六組合だけである。が、焦土にとどまった人も家族が疎開先から帰った人も、今日一日を生き延びるために労働組合と消費組合に結集した。
 ここで特記しておきたいことは、東京・久我山で設立された協同組合がおそらく、戦後初めて生活協同組合を名乗った(注二八)ことである。この久我山生協、武蔵野生協、井の頭協同消費組合、大宮前六北消費組合、天沼三丁目西協同組合、野方南生協、その他中央線沿線の約二○組合は、敗戦から四力月後の十二月十六日には早くも東京都西部生活協同組合連合会を発足させた。
 明けて一九四六年四月には、都内で約三○○組合が設立されて組合員がおよそ三一○万人に達したので、五月十二日にはこれらの組合を結集して東京都生活協同組合購買利用組合連合会(略称・東協連、理事長・橋浦泰堆)を創立した。日協も東協連の結成に取り組んだが、同時に労働団体と協力して職域生協の組織化を急いだ。
 (注二八)山本秋は「街のかみさんたちに『消費組合って何さ?消費ばかりしでいたらつぶれてしまうじゃないの」とやられてどぎもを抜
かれた」(山本日本生協史)と書いている。戦前から消費粗合という名称に疑問を感じていた山本は、戦後の協同組合再建運動でいち早く「生活協同組合」と言いだしたと証言している。彼によれぱ、「経済的弱者の生活の協同化という意味からすると『生活協同組合法」で『消費生活協同組合法』ではないが、生活の再生産と消費についての明快な理論化や生活者の概念化ができていない」という。残念ながら、久我山生協がなぜ「生活協同組合」を名乗ったかについての文献は、手もとにない。

 この上と下からの協同組合の組織化は、東協連の結成によって地方の組織化を促進し、同年六月には東北・関東信越・東海北陸・関西・九州の五地方で協議会が持たれ、日協の地方組織が確立した。一九四七(招和二十二)年三月現在で、日協の組織状混ば次のとおりである。
 ・中央本部   一
 ・地方本部   二(関西・九州)
 ・支部設置県 一七
 ・県連設置県 三三
 ・日協に連絡のある単協 四六五七
(地域=一一五八 職域=三四九四)
 日協の組織がピークを形成したのはこの一九四七年であり、組織形態としては支部が少なくて連合会的運営が示唆されていた。
 ここでもうひとつ大事なことは、戦時中に農民は農業会への組織変更で官僚による支配を受けたし、消費組合は配給機関に成り下がった(注二九)苦い経験をもっていたので、日協は自主的で民主的な協同組合の大道団結をめざした。ところが、結成した日協は協同組合のオール組織であったが、その後に農業協同組合法二九四七年十一月)、消費生活協同組合法(一九四八年六月)、水産業協同組合法(一九四八年十二月)が個別に成立して、産業組合法は廃止された。この間、協同組合陣営は産業組合法に代わる新総合法制を制定するか、もしくは各協同組合の共通課題(主として事業権にかかわる事項)を総合法制に盛り込み、個別課題については農協法、水産業協同組合法、生協法に入れ込むという運動をしなかった。
 (注二九)戦時統制経済で、米、木炭、みそ、しょうゆ、鶏卵、乾物などが配給制になり、消費組合は小売業者として取扱高に応じて地区を担当した。その結果、組合員か非組合員かにかかわりなく消費組合は配給の義務を負うことになり、自主的な組合員のための消費組合ではなくなった。

 正確にいえぱ、日協は総合法制の実現に努力しなかったのではなく、個別法を要求して総合法制に反対したといえる。『山本日本生協史』は、「各種協同組合の総合法制定論は本位田祥男(ほんいでん・よしお)博士、辻誠(農業会)その他から主張されていた」し、法案策定に事実上の承認権をもつGHQ(連合国軍総司令部)の民政局(GS)も、ニューディール派であるグラッシュダンチェフ博士(帰国後グラッドと改名)が「各省からそれぞれの立場で個別の協同組合法案が持ち込まれているが、官僚の作ったものより民間人である君たちの案がもっとも優れているから、これを土台にして『総合的協同組合法』を作ろう」と言ったという。これと同様の記述が『日生協二十五年史』にもあるので、総合法制定の条件はあったと
みるべきであろう。
 では、なぜ農協法や生協法という個別法になったかというと、『日生協二十五年史』によれぱ「日協は中央委員である山本秋試案(生活協同組合法)を法案起草のたたき台にする」ことを決めたが、その理由は「生協法は事業権確保を目的とし、農協法は農地改革にともなう新しい農業建設に適応することを目的とし、それぞれの背景を異にしている」というものであった。目前の事態だけを見れば、それなりに理由がないとはいえないが、「商工業者とその協同組合ば労勧者や市民、とくにその生活協同組合とは著しく利害関係も異なる。このようにその構成する組合員の性格と果たすべき社会的・経済的任務の多岐で異質な内容を一本の総合立法で画一的に規定することは困難であり、不当といわねばならぬ」(山本日本生協史)というところが本音であったと思われる。
 このような、目前の小さな利害にこだわって協厨組合間協同をおろそかにしたこと、国際情勢の変化(冷戦体割の深刻化)によるGHQ内のニューディール派の帰国した影響や、国会情勢を読み誤り、革新陣営と生協の力量過信もあって、生協法の要求になったとみるべきであろう。
 個別法にこだわったもう一つの要因は、共産党が提唱した「食糧人民管理運動」(徳田球一論文)にある。内容は「町内会等の末端食糧管理委員会は政府の官僚統制に代って食糧の人民管理に当たる『権力的』『行政的機構』であり、生協はその統制の下に配給実務機関として機能する」というものであったが、方針作成には共産党本部の内野壮児と沼田秀郷に山本秋(注三〇)らが代々木まで出向いて参加した。
(注三〇)山本秋はみずからが方針作成に参加したと述べているが、日協同盟に参加した旧関消連(山本秋)グループは、戦後の早い時期に町内会を生協に再組織していた。食糧人民管理方針はその延長線上にある。ただし、山本は生協を配給の実務機関とする共産党の狭い性格規定には、異議があったと述懐している(『山本日本生協史』六六四ページ)。

 この「食糧人民管理方針」は、日本革命をめざす基本方針の一部であり、生協はその一翼を担う期待をかけられたわけだが、その場合に(封建的な残滓が残る)農協と革命に積極的な都市部の生協を総合法制で一本化するよりも、農協と生協を分離して生協を革命に活用するという、方針起草者の考えがあっても不思議ではない。オール協同組合の日協を、生協だけの指導組織に変更したのもうなずけるが、その誤りによる損失は大きかった。
 たとえぱ、産業組合法に準拠した消費組合は産組中央会主催の「全国消費組合協議会」に出席して全体共通の問題を解決してきたし、組合病院は「全国医療組合協議会」(全医協)で医師会対策や重要課題を協議したが、発足時の全医協は産組中央会次席主事の浜田道之助が常任幹事で事業第一課長の辻誠(戦後の総合法制論者=『山本日本生協史』)が事務局長であったからである。しかも、組合病院も消費組合も農林中金と取り引きをしていた。つまり産組法は、軍国主義時代の産物で欠陥の多い法律だが、協同組
合間協同を法的に担保して重要問題の解決に貢献してきたのである。
 ところが、好意的なグ博士(ニューディール派)がトルーマン・ドクトリンによる冷戦体制(一九四七年三月)の影響で帰国したこと、戦後の高揚した雰囲気に酔って力関係の分析を誤った(生協陣営の力量を過大評価した)こと、経済的弱者の戦力分散になる個別法を要求したこと(注三一)などが重なって「生活協同組合法」は「消費生活協間組合法」に変わり、非課税原則の撤廃、員外利用の禁止、地域生協の事業連禁止(地域制限条項は従前のとおり)などで、産組法からも大幅に後退した。また、統制経済下の事業権保障や生協の資金的裏づけとしての信用事業と保険事業という二大要求が認められなかったし、産組法の廃止(注三二)で消費組合に融資してきた農林中金との関係が失われ、ドッジ・デフレが重なって生協の経営破綻が続出した。
 (注三一)農林省は、農協法第一次案を一九四六(昭和二十一年三月十五日にGHQに提出した。グ博士が「個別法が各省から持ち込まれている」と言ったのはこのことを指す。
 (注三二)産組法は生協法一○三条によって廃止され、生協の所管は農林省から厚生省に移った。

 また、各種協同組合法に盛られた「共済条項」は、タテ割り行政の欠陥で、賀川が金融制度調査会で苦労した協同組合保険の要求を反映したものにはならなかった。その給果、営利保険は戦後復興期に大きく経営を伸ぱしたが、比較的取り組みの早かった農協共済を除いて他の共済は立ち後れた。山本はこのような予測できる事態について目を向けず、「農協運動者の一部、たとえぱ一楽照雄(元全国農協中央会常務理事・協同組合経営研究所理事長)などは、農協法、生協法等を分離して個別法としたのは占領軍の分裂政策の現れと見る考え方であったが、少なくども(GHQ民政局)のグ博士が担当している間はそうではなかった。原因はむしろ山本にあった。山本は各種協同組合間の連帯や統一行動の成否は法律が問題でばなく、当事者の意思と方針の問題である」(山本日本生協史)と言っている。
 しかし、意思や方針だけでは乗り切れない問題がある。たとえば、消費組合は産業組合法に準拠して農林中金を系統金融機関としてきたが、生協は今でも系統金融機関を持てないでいる。
 そういう過去の経験からすれぱ、今は共済協同組合のトータルなレベルアップをはかって、各種共済に共通する事項を規定した総合法(共済基本法)を要求する必要がある。もしそうしないならば、生保の経営被綻と同じような状況が共済陣営に相次いで起きても対策の立てようがないし、営利保険が進めている重要問題(セーフティーネットや予定利率の引き下げなど)についても、その影響を受ける共済陣営が意見をさしはさむ場も余地もない。共済陣営が全体共通の重要課題に対応し、事業にかかわる法的基盤を整備するためにも共済基本法の制定と、日本共済協会の拡充強化が必要な時期に来ているといえよう。
 さて、話を元に戻すと、東協連の設立で足もとを固めた日協は地方の組織化に
乗り出すとともに、組合員の急速な拡大と食糧メーデーの盛り上がりをうけて、臨時総会(一九四六年六月・神田教育会館)を開いた。運動方針の基調は、生協による民主的配給機構の確立と、「日協を生協中心の運営にする」という組織機構の整備であった。その結果、日協はオール協同組合の中央組織という当初の構想から離れて、「生協の指導組織」に変身した。

 2・協同組合保険運勤の挫折とど各種共済の誕生
 (1)金融制度調査会における賀川の春闘と挫析

 戦争政策の遂行という国家目的に沿って業績を増大させた生保各社も、その後は戦病死や米軍の都市無差別爆撃による死傷者の増加という大きな危険を背負い込み、敗戦で全資産の二五%(総額二七億円)という莫大な在外資産を失った。損保各社も在外資産の一五%を失い、一九四六(昭和二十一年八月の戦時補償打ち切りや国・公債の切り捨てで、さらに手ひどい打撃を受けた。また、戦後の悪質なインフレで貨幣の実質的価値が大幅に減価し、一件平均二五○○円程度の生命保険契約額では保険目的を達成できず、契約者の強い不信を買った。また、占領軍による財閥解体公職追放、社屋接収などが行われ、戦争に協力した生命保険中央会ならびに損害保険中央会は、それぞれ生命保険協会(一九四五年十月)と損害保険協会(一九四六年一月)に衣替えした。
 (注三三)賀川は一九四五年九月五日∴東久邇内閣の参与に任命された。また、一九四六年三月十二日には貴族院議員に勅選されている。

 このような保険業界の混乱は、敗戦という事態に起因した金融制度全体の混乱であり、日本経済の非軍事化・艮主化の一環として実施された財閥解体、独占禁止、経済力の集中排除などをともなったが、GHQは保険を含む単一の金融業法で各種金融機関の運営を考えていた。敗戦間もない一九四五(昭和二十)年十二月五日に、大蔵省は省議で金融制度調査会(一次)を設置し、日本銀行・銀行、保険会社、証券会社などすべての金融機関のあり方について検討を始めた。
 この金融制度調査会には、学識経験者と銀行・保険・証券などの各業界から委員が選ばれたが、日本協同組合同盟からは賀川豊彦が委員の一人として参加した。賀川は年来の主張である協同組合保険を実現するために奮闘し、保険業界自体の混乱と保険資本にたいする強い社会的批判もあって、次のような“保険制度改革答申案”(一九四六年四月二十三日)が決定された。

 「保険制度改革答申案
 保険業法に基づき大蔵大臣の監督下に株式会社及相互会社の外、保険組合に依る保険事業の経営を認むるを可とす、但し、保険契約者の利益保護の為組合設立認可を厳重にすると共に資金の運用及事業費の支出等に付き保険会社に対する場合に準じ之を監督する必要ありと認む」

 その後、金融制度調査会の下におかれた保険業法改正専門委員会は、この答申に基づいて具体的に検討した結果、次の
ような〃保険業法改正要網(試案)〃をまとめた。
 ①現行保険業法に規定する保険業の形態に株式会社、相互会社の外、協同組合組織のものを認める。
 ②組合の組織は被保険者をもって組織する単位団体が単位組合(原組合)となり、これによって協同組合組織の保倹団体が構成される。
 ③その規模は全国的規模を構想する。

 さらに、この間の消息を伝えるものに、〃昭和二十一年十二月二十日、保険業法改正専門委員会幹事試案〃と付記してある「保険業法改正法律案要旨」があるが、これには「第一 株式会社又は相互会社のほかに保険組合による保険事業の経営を認めること」という一七項目がある。これは、規定が詳細にわたっているので省略するが、後述する大蔵省案と違って保険組合が一本(生保と損保が一つの組合)に扱われており、共栄火災も保険会社から保険組合に組織変更できるという、協同組合に好意的なものであった。
 このような金融制度調査会ならびに保険業法改正専門委員会の動きの一方で、大蔵省自体も協同組合保険を認める立場で、次のような基本的見解を持っていたことが記録されている。
 ①協同組合保険は協同組合運動の一環として行われねぱならない。
 ②原始的保険は採用しない。
 ③危険の分散を図る為に大きな地区の組合形式を採用する。町村単位組合を基礎として、その上に全国的な危険団体を作って行く。
 ④組合員(世帯員を含む)以外の契約はとらせない。
 ⑤「生命保険の組合」は別個に作る。
 ⑥組合への加入脱退を厳重にする。また、持ち分の払い戻しを制限する。
 ⑦本法の根本は産業組合法に準ずる。
 ⑧共栄火災の組合組織移行を認める。
 ⑨独立の法律を作るのではなく、現行保険業法を改正し、現監督官庁の指導を受けさせる。
 (協同組合保険研究会第二回総会議事録、昭和二十二年一月三十一日所載)

 大蔵省案は、保険業法改正専門委員会幹事会試案よりも生命保険組合と損害保険組合を別々に作るなどで大きく後退しており、いろいろ問題点もあったが工夫の余地のある案であった。また、産業組合法に準ずるとしているが、同法を産業民主主義と主権在組合員という民主的な法律に改正することを前提とすれば、これも検討可能な案であったといえる。
 各協同組合は、このような金融制度調査会と大蔵省の動きに呼応して、協同組合保険研究会(注三四)を設立した。事実上の推進者は、旧産業組合中央会で協同組合保険運動に携わった人たちが中心であったが、事務所を日協内において実質的な事務局を共栄火災が担い、活発に運動を広げた。
 しかし、金融制度調査会が改組されて大蔵大臣の諮問機関(一九四六年十二月十日)になると、委員名簿に賀川の名前はみられなかった。第二次金融制度謂査会(二次金制調)では、六委員会のうちの第四委員会(損保委員会)に共栄火災の足立壮社長が出席したが、損保協会の
一員である足立が協同組合を代表して意見を述べることはできなかった。
 (注三四)①協同組合保険研究会の構成=全国農業会、農林中央金庫、中央水産業会、日本協同組合同盟、農村金融研究会、組合金融協会、全国農村保健協会、農村工業研究会、共栄火災海上保険相互会社、学識経験者
②同研究会は、一九四七年一月三十一日に大蔵省銀行局保険課の担当官を招いて事情聴取と保険業法改正を要望した。また、同年三月十七日と七月三十日の二回にわたって農林省の担当官を招いて立案中の農業協同組合法案について事情聴取したが、共済規定についての明確な説明とそれにたいする質問はなかった。ところが、農協法立案についての交渉経過をみると、翌七月三十一日には第八次共済規定案が農林省から全国農業会に正式に提示されているので、農林省も農業会も農協法に共済規定のあることは知っていたが、協同組合保険と共済は違う(両立する)と考えていたことがわかる。
③とくに七月三十日の研究会に参加した日協の代表からは、生活協同組合案の立法趣旨と協同組合保険関係条文について報告していることが当日の議事録に記されている。したがって、この日の研究会で日協担当者が説明した生協法の協固組合保険関係条文については、同席した農林省担当官も農業会関係者も聞いていたはずである。また、この段階では農協法の共済規定案文は作成されでいたので、農林省担当官と農業会関係者から農協法の共済規定について報告は可能であった。が、報告された形跡もなけれぱ農協法の共済規定が問題になった記録もないのは、前述したように関係者が本格的な協同組合保険とプリミティブな共済は違うという認識をもっていたからだと思われる。
④同研究会の報告を記述している『農協発達史』にも、そのような趣旨の記述が散見される。当時としてはやむをえなかったのかもしれないが、その後も一、二年は大方の協同組合保険関係者が共済規定に関心を払っていなかった。

 戦時中、共栄火災は産業組合中央会によって設立され、協同組合保険の中核組織として位置づけられてきたが、保険業法の制約と損保中央会の統制で会社保険の枠内(当初は株式会社、後に相互会社)に閉じこめられてきた。その反省に立った産組と賀川たちの奮闘であったが、二次金制調では協同組合保険の規定は自紙に戻され、大蔵大臣あての最終答申案(一九四七・昭和二十二年十一月)からは除外された。かくして、賀川と産組や生活協同組合関係者の奮闘もむなしく、彼らの期待は挫折した。

 (2)共済をめぐる折衝経過

 ①農協共済
 GHQの農民解放指令によって、日本政府は農業改革(農地解放と小作人の一掃等)と農業協同組合の創設を急いだ。戦時中は国家機関の一部を代行し、戦時統制経済の一翼を担って絶対主義的な官僚に支配されていた農業会を改組して、農民の自由意思による民主的な農業協同組合法を作ることが日本政府に指示(一九四五・昭和二十年十二月九日)されたからである。第一次案(一九四六年三月十五日)が農林省から提示されて以降、第八次案が国会を通過(一九四七年十一月十九日)するまで、約二年近い歳月を要して決着した。
 農地改革法などはGHQの指示で国会議決も早かったが、農協法はGHQ←→農林省←→農協という折衝過程を経て国
会で議決されたので時問を要したわけである。
 当時は占領軍と日本政府の二重権力状態で、国会(帝国憲法では議会)での立法とポツダム政令という二つの方法で、日本は統治されていた。が、国会における立法も、占領軍の指示で政府案を国会に提出し、国会の議決を経て法律になる場合が少なくなかった。農業改革関連法案などはその一例だが、多くは事前にGHQの担当部局と各省や関連組織が事前折衝をし、調整されたものが国会に政府提案されるという仕組みである。農協法は後者だが、農林省の第一次構想案と第二次案(I)には共済に関する条項はなく、第二次案(Ⅱ)農業協同組合法(案・一九四六年九月)が成文化したとき、初めて共済規定が挿入されたが、それは「農業災害の共済に関する施設」であり、農協組合員の財産に関する共済ではなかった。それがGHQ天然資源局第二次案では「組合員の財産の災害を保険する事業を営むこと(Engage in the business of the property of its members against damege or loss)」(一九四七年五月十五日)になった。
 これを持ち込んだのは農林省でも農業会でもなく、GHQの天然資源局(注三五)であった。経過からみれぱ、農協法第二次案(I)で初めて共済規定(農業災害共済)が提案された以降に、農協とは団体の性格が異なる農業災害保険団体側が農協組合員を対象とする共済事業を強く主張したことにたいして、GHQは農業災害保険団体は公的かつ強制的な性格を持っているので、任意の自由主義的協同組合原則に基づく組合員の共済は農協がすべきであるという見解をとった。
 また、農協法案の共済については、GHQに提出する英訳がnutual insurance となっていたので、農協が実施する事業が保険であるならば、農協の共済も大蔵省所管であることをGHQ経済科学局と大蔵省が主張した。このときの大蔵省との応答を通じて、後に「保険と共済の異同」という問題が生じたが、これが共済側の「保険と共済は違う」という主張につながった。
 (注二五)次項「②生協共済」で、「第一次金融制度調査会での奮闘もむなしく協同組合保険を実現できなかった賀川は、GHQと折衝して農協法に共済規定を挿入させた」という記述をしているが、その挿入された共済規定とは「GHQ天然資源局第二次案」(一九四七・昭和二十二年五月十五日)であったと思われる。
 それはさておき、business of insurance=保険をmutual relief=共済という用語に置き換えて農林省所管でGHQの承認を得た。そこには、共済と保険の異同問題をあからさまに論ずると、大蔵省や保険業法との関係でよい結果を生まないという農林省側の配慮と、農林省自体が「想定していた共済事業の内容と規模や程度は、農業会で実施していた共済事業を前提にして考えられる程度」という小規模なものであった(『農協共済発達史』二七○頁)ことによる。それが協同組合保険研究会の「いずれは協同組合保険を実現するので共済はプリミティブなものでよい」という考え方と一致した結果であろう。
 ②生協共済
 日本協同組合同盟が作成した「生活協同組合法案骨子」(一九四六・昭和二十一年七月。山本秋試案と思われる)では、組合の事業について次のように提起している。
 一五 組合は左の事業の一種又は数種を単営または兼営し得ること
  1.供給事業(組合員の生活ならびに文化に有用なる物及び設備の供給)
  3・金融事業(貯金・保護預かり・金銭出納・財産の売買・通用無尽・債務保証・貸付・公益質店等)
  4・保険共済事業(財産・生命・健康・失業その他の社会的損害又は危険に対するもの及び経済的負担の過重又は一時的集中に対するもの)
 一六 組合は業態者が営業として経営することを許される事業を開設することを妨げられることなきものとすること、組合は価格その他の経営上の条件に付き、少なくとも業態者に許されたるものと同一の条件に依ることを得るものとすること
 一七 金融事業及保険共済事業を行う組合は法人たることを要し、かつ事業開始に付認可を要するものとすること
 一八 保険共済事業の一部として国民健康保険組合の事業を行い又はその業務の委任を受け得ること
 二六 剰余金は組合員の出資金・事業利用高に応ずる配当となし又は配当となさずして出資金・保険料の払込・利用施設積立金その他の処分をなすことを得ること
 三三 中央及地方に生活協同組合審査会を設け、法人格を受けんとする組合、金融事業・保険共済事業を行わんとする組合の審査に当たる外同一地域内の組合の調整等に当たらしめる。審査委員は地域内の組合及連合組織の選挙により任命す

 生協法の成立過程については、すでに「1 日本協同組合同盟の設立」の章で概略を記述したので重複を避けて、必要と思われる事項と共済問題に焦点を絞って述べることにする。
 まず、保険(共済)事業を行う組合については、これは別法人として認可を必要とすることになっているが、地域内の組合および連合組織から選挙で選ぱれた生活協同組合審査委員が審査に当たることになっているので、実際は自動認可の仕組みである。しかも保険(共済)事業(注三六)に例をとれぱ、業態者、つまり生命保険会社と損害保険会社に許されている事業と同一の条件で扱うことができるという(事業権の同格)要求であった。
 (注三六)「生活協同組合法案骨子」に「保険共済事業」という文言が出てくるが、なぜ「保険(共済)事業」なのかという資料はない。

 ここで問題なのは、GHQ民政局のグ博士との直接折衝で起草した日協六月案(一九四七・昭和二十二年六月)(注三七)は、この当時の占領政策の一定の民主性を反映して、前述の生協法骨子に劣らず、組織法(法人格と運営)と行為法(生産・配給・施設・金融・保険など広範な事業権)などに生協の要求が率直に織り込まれていた。が、当時の所管官庁
だった農林省も、新しく所管するはずの厚生省も事前折衝にタッチした記録がないことである。しかも、政党にたいしては日協第二回総会後に衆参両院の厚生常任委員の参集を求めて日協六月案を説明し、七月六日には各党政調会長にこれを提示して第一国会での生協法制定を要請する手順をとったが、この前後にも厚生省と日協六月案について事前折衝をした形跡がない。
 (注三七)日協六月案の特徴=①生協を組織する根拠を憲法二五条の健康で文化的な生存権に求め、国民の権利として生協を組織できる(第一条)として、個別法令の解釈にさいして規範的指導性を持たせた点で、現行法第一条と大きな異差がある。②経済統制との関係で、生協に広範な事業権を与えた。③基本的に口ッチデール原則を貫き、生協の民主的運営を保証した。④生協の免税の原則を明確にし、員外利用についても一五%の範掘内で認めた。

 片山内閣は四派政策協定、三党連立という複雑な政権基盤の上に立っており、しかも石炭国家管理法案をめぐって与党間の対立は頂点に達していたので、国会運営も複雑で生協法の成立が遅れた。日協は国会遵営の促進をめざして「一○○万人署名・一人一円募金募集」と国会請願を全国に呼びかけたが、中小商業者の生協法制定反対運動が激しくなり、政党工作を行ったが生協の経営が悪化し始めて運動が盛り上がらず、生協法制定の主導権は日協から厚生省に移って、同省から「消費生活協同組合法要網」が発表された。
 これは、時の権力者であるGHQと政治への過度な依存がもたらした禍根であり、官僚依存も官僚軽視もともに問題があるという教訓である。
 その結巣、組織面ではかろうじて協同組合原則の立場を放棄せずにすんだが、事業面では「1 日本協同組合同盟の成立」の章で既述したような大幅な後退があり、本項の注でも述べたような当然の権利が認められなかったぱかりか、信用事業も保険事業も不承認になった。ここでの問題は、日協と厚生省が金融・保険事業についてどんな事前折衝をしたのか『日本生活協同組合連合会二十五年史』にも『山本日本生協史』にも「『共済事業』論攷集」(富田順一編・現代共済事業研究会)にも記述がないことである。成立した生協法は、共済事業について第一○条第一項四号で「組合員の生活の共済を図る事業」とわずかに一行規定しているだけであり、信用事業についてはなにもない。
 しかも、生協法立案に最初からタッチしていた厚生省社会局事務官・長倉司郎は、『消費生活協同組合法逐条解説』(一九四九・昭和二十四年一月)で、「(共済事業は)所謂保険業とは異なり、厳密な係数に基づくものではなく、吉凶禍福に対する祝金弔慰金、見舞金、又は手当金の程度である。掛金及び共済金の最高限度額は、定款の相対的必要記載事項であり、又厚生大巨は、その最高限度額を定めることができる(二六条三項)」と述べている。もちろん、生協本部の関係者がこの共済規定に関心を示した記録はない。
 それでも、官僚や保険資本の思惑をのりこえて、今日の共済は大規模事業に発
展した。しかも、立法も含めた数多くの共済攻撃があったが、それを排除して協同組合保険(共済)を今日あらしめたのであるから、生協共済の苦労には大変なものがあった。
 ところで、なぜ共済規定が農協法と生協法に挿入されたのかという問題だが、富田の「『共済事業』論攷集」によれば、賀川は農協法と生協法の成立過程を回想して、賀川が主催した雑誌『農村』(改題『農村改造』)の昭和三十年二月号に、次のように書いている。
「敗戦後、わたしは内閣総理大臣東久邇宮の参与になったので、日本再建の経済的基礎として大蔵大臣渋沢敬三氏と相談して大蔵省の金融制度調査会の委員となり、全国の生命保険会社二○社の代表たちといっしょに、この問題を研究してもらった。この時もうまくゆかなかった。しかし全国の生命保険会社は、相互保険(注三八)にならねぱならぬことになった。だが、わたしはこれで満足することができなかった。……生活協同組合法が成立し、産業組合法が廃止されたことから、農林省の手をはなれて厚生省に移管されたとき、連合軍司令部にいって生命保険協同組合が運営できるようにかけあったが許可してくれなかった。辛うじて共済事業として法律に挿入されることになった(注三九)。そして農業協同組合の内部においても、共済事業の経営が可能になった」
(注三八)賀川は相互保険会社の性格についてはバルウから正確な知識を得ていたが、後述するように少し甘い期待を持っていたようである。
(注三九)賀川の回想ではは、生協法成立後に「共済規定」を挿入させたようにも読めるが、第二次金制調が発足したのは一九四六年十二月十日である。ところで、第二次金制調が一次金制調の保険協同組合承認の決定を白紙に戻したことにたいして、「保険協同組合研究会」が二次金制調に抗議したのが一九四七年三月十二日であるから、賀川が農協法(GHQ天然資源局第二次案・一九四七年五月十五日)の共済規定挿入について、GHQと話し合ったのは一九四七年三月から四月にかけてのころと思われる。(つづく)