協同組合と賀川豊彦(4)

(3)農協共済事業の開始と保険資本との攻防

 協同組合保険が挫折すると、農協内部には農協法一○条一項八号の共済規定の解釈と今後のあり方をめぐって、大きくは二つの流れができた。一つ目の流れはさらに二つに分かれるが、その一つは協同組合研究会に給集した中央農業団体関係者の動きである。このグループは、あくまでも保険業法の改正を実現する考えでいたので、共済規定には注意を払っていなかった(注四〇)。そこには、共済は見舞金程度という農林省の影響もあったが(注四一)、協同組合保険(生活上の危険に対する保障)と共済(見舞金)は違うという考え方である。そこでこのグループは、保険業法を改正して協同組合保険を実現する方針を堅持し、保険業法改正専門委員会(大蔵省)での共栄火災の活躍に期待をかけた。

 (注四〇)「農業協同組合の手引」青木一己 農業協同組合研究会 一九四八年二月)、農業協同組合の経営」(青木一巳 農業協同組合研究会 一九四八年四月)、「『農業協同組合教科書』農業協同組合概論」」(全国指導農業協同組合連合編纂 一九四九年七月)、「農業協同組合の解説−組合のつくり方と運営」(上田貞治 農業文庫 一九四八年二月)。以上の著作は、の保険業法の制約で共済の限度は見舞金程度という見解をとっていた。
 (注四一)大蔵省の所管である保険業法で、農協共済が保険類似行為とみられるのを農林省は恐れていた。

 もう一つのグループは、農協(厚生連)が保険会社と提携してその協力を得ながら、協同組合保険を実現しようとする動きである。日本生命と単位農協は、これまで生保と団体協約を結んで加入を推進してきたが、これは保険業法改正専門委員会で農協が後退を余儀なくされた結果である。一九四九(昭和二十回)年三月末には、日生と団体協約を結んだ町村農協は三七七九組合に達したが、協同組合保険論者で全共連の誕生に一役買った黒川泰一なども厚生連にいた関係で、皮肉にもこの動きに巻き込まれていく。黒川らの目的は、厚生連と日生の協約によって「単位農協では得られない日本生命(相互会社)への経営参加権や他の有利な諸条件を獲得」し、「日生に蓄積された長期資金を農協組織を適じて農民自身の生活改書と生産力の発展に還元させる」というものである。
 二つ目の流れは、北海道農業共済事業の動きである。北海道では窮迫した農家の営農資金の不足と系統金融機関の行き詰まりを打開するために、「農家の資金を系統金融機関に吸収する」必要があったからで、これが北海道に農業共済を誕生させる原動力となった。
 この流れは大別すると、さらに三つの系統に分かれる。一つは、産組中央会道支会が戦前から実施していた経営共済で、組合の建物や購買品を対象にした火災保険であるが、類似保険の疑いで中止させられてからは共栄火災と協力してきた系統である。二つ目は道農業会北見支部の系統で、戦前から取り組んでいた「農業家屋共済」に加えて、「農業者災害共済」(一農家全家族を対象とする家族団体共済。一九四七年六月認可)を行っていた。三つ目は道農業会信用部保倹課で、養老生命の研究をしていた系統である。
 「共済事業は見舞金程度」という農林省や農協中央の見解と違って、北海遣では農協の発足当初から道農業会北見支部が共済規定に基づく事業の実施を予定していた。法的根拠は、農協法一○条一項八号の「農業上の災害又はその他の災害の共済に関する施設」で十分だと考えていたからである。
 そこで、全国にさきがけて北海道共済農業協同組合遠合会(一九四八年七月十八日。略称・北海道共済連)を創立したが、事業計画は生命共済と家屋共済の二本柱であり、生命共済は一件当たり最高一○万円で、火災は団体建物など農協所有物件を一○万円にした。超過部分は共栄火災再保険することになったが、農家の所有家屋は一棟三○○○円から一万円であった。
 当時と貨幣価値が違いすぎるので簡単にはいえないが、それにしてもささやかな出発であったといえる。
 しかし、北海道共済連の志は高く、「今度はこれ等の保険事業と同じような仕事を新しくできた農業協同組合で大いにやって貰い、農民共同体による共済制度を確立して農家経営の安定を図ると共に、従来の弊害であった農村資金の都市集中(金融資本、独占的資本への従属)を是正する」(『農協共済発達史』)ことを目的にしていた。そこで、全国厚生連と日本生命の提携に、北海道共済連は強く反対した。
 中央には、農協と日生の提携の場である「協同組合生命保険中央委員会」(委員長・賀川豊彦)が設立されていたが、趣旨は保険経営の重要事項について農協の意見を反映させ、農村への資金還流を図ることにあった。しかし、これは相互会社にたいする過大評価で、厚生連の顧問である賀川豊彦を協同組合の代表者として送り込んだが、思うような成果はあがらなかった。
 そこで北海遣指導連会長は、日生との提携を進めることを協議した一九四九(昭和二十四)年度全指連役員会で「(日生との提携について)そんなぱかな話はない。北海道ではすでに農協独自の組織で、北海道共済農業協同組合連合会を設立して協同組合保険事業を実施している。協同組合保険はこの線を伸ばすべきで、保険会社と提携するとはもってのほかだ」と強硬に反対して日生との提携案を否決した。
 一方、北海道の実情が全国に徐々に伝わり、九州でも共済事業に取り組む動きが出はじめた。他方、農業災害補償法の一部改正で農業共済団体の任意共済が可能になったので、農林省農業保険課は、北海道共済連に根拠法(農協法一○条一項八号)を農業災害補償法に変更するように求め、農林省農協課も農協法に照らして共済は見舞金程度にするように北海道共済連を説得した。
 このような所管庁の圧力に加えて、大蔵省銀行局保険課は北海道共済連に類似保険の疑いがあるとして文書照会をしたり、事務官を派遺して現地調査を行った。北海道共済連では、「保険業法に基づく生命保険は行っていないが、農業協同組合法に基づく共済事業として農民相互の共済制度を実施している」ことを文書回答した。
 大蔵省の調査も、保険業法に違反しているという視点でなされたが、山本利幸担当官(大蔵省保険課)は「北海道共済農業協同組合連合会の共済事業に関する私見」で「共済は総合的な観察が必要で、保険技術をとり入れているから保険だとはいえない。技術はあくまで技術で、事業という総合体は目的関連的なものであるから、事業目的から見て保険でないならぱ保険業法第一条にいう『保険事業』とはならない。事業概念のなかで技術は必須要件ではなく、営利か非営利かも派生的な問題である。保険だから不特定多数で、共済だから特定多数になるのであって、不特定多数を以て標準とすることは本末転倒である」(要約)と報告したので、類似保険問題には終止符が打たれた。

 (4)各種共済全国連の設立

 全共連の殻立

 このように、北海道共済連は多くの不当な圧迫をそのつど排除したが、設立第二年度になっても大数の法則が適用されるだけの契約量に達せず、全国的な共済に取り組む体制も遅れていた。そこで農協中央は、大蔵省や身内のはずの農林省と農業災害共済団体の違法攻撃で北海遣共済連が孤立しないように、農協法による共済事業を協同組合保険として全国的に波及させることと、そのための全国連を早急に発足させるという方向転換を行った。つまり、農協中央はこれまで考えてきた協同組合保険の実現をあきらめて、全国的な共済推進に踏みきったといえる。
 その結果、「農協共済事業調査研究協議会」が全指連、全購連、全販連など九団体で結成(一九五○・昭和二十五年五月九日)された。この会は、農協の共済事業推進のための調査と普及・宣伝を目的としたが、当時は経営的に苦しかった全購連や全販連が赤字の予想される共済の全国連設立に反対であり、農林中金も技術的な困難性を懸念して消極的だった。
 また、これとは別に協同組合組織による保険割度の調査研究をし、その健全な発達を図るこどを目的とした「協同組合保険研究所」が、黒川泰一らの呼びかけで中央機関の有力者によって設立された。事務局ば共栄火災におき、日本生命などの民間保険会社にも賛同を求めて一部は入会した。顧問には賀川豊彦を迎えたが、ほかに日本生協連からは中林貞男(専務)も役員に名をつらねた。これは農協共済事業調査研究協議会が、「農協の共済」を名実ともに全国事業として発展させようと意図したのにたいして、協同組合保険研究所は「農協の共済」は見舞金程度の共済であるから、それはそれとして生保をいたずらに敵視することなく、相互に協力関係をつくりだすなかで「本格的な協同組合保険」を実現しようとしたものと推測される。
 このように、共済事業の全国的波及と全国連の組織化には多くの困難があり、二つの流れがあって錯綜していたが、協同組合保険研究所には島村軍次(全指連会長)や岡村文四郎(全国組合金融協会副会長)ら中央機関の有力者がいたのと、黒川が農協共済事業調査研究協議会にも属して両組織の現状と共済事業の実態をいち早く知りうる立場にいたので、協同組合保険研究所はやがて全共連を設立する陰の支援組織に変身した。
 注目の「全国共済農業協同組合連合会」の創立総会は一九五○(昭和二十五)年十一月二十七日、東京・永田町の参議院会館で開かれた。出席は四一都道府県農業協同組合連合会であったが、賀川は顧問に就任し、全共連設立準備委員会の事務局員であった黒川は、全共連発足後は業務部長になって共済事業の発展に貢献した。創立総会における圧巻は、来賓として出席した共栄火災社長宮城孝治の次のような祝辞であった。
 「共栄火災は協同組合保険を日本にうちたてるために、産業組合の先輩たち、同志たちによって創立されたものであるが、法律上の制約で共栄火災を協同組合組織に改めることができないで、今日に至った。したがって、この度の全共連の創立によってはじめて共栄火災創立の目的が達成されるものであり、喜びにたえない。全共連の発足に対して、社をあげてあらゆる応援と協力を借しまない。もし全共連と全国の農協共済組織が確立し、共栄火災の歴史的役割は終わってこれ以上は不必要であるということにでもなれぱ、その時はいさぎよくこの会社を解散してもよいと考えている」
 この意表をつく大胆なあいさつは、出席者に大きな感銘を与えた。全共連は、この創立総会が終わった翌十二月十二日に農林大臣に認可申請書を出したが、その後、農林大臣広川弘禅の認可指令書(一九五一・昭和二十六年一月三十一日付)を受け取りに行った岡村文西郎は、「わしは、認可指令書をもらいに来たんだから、この指令書はもらっていく。しかし、別の文書は、わしには必要がないから返す」といって局長があとから出した文書を押し戻して帰ってしまった。
 その文書には、「農協共済は農協所有の建物とし、農災法による共済団体は原則として農家所有の建物とする」という文書であった。農災団体に農協組合員を対象とする共済を認めるのは不当であり、岡村がこの書類を突き返したのは当然であった。
 ところで既述したように、北海道共済連の動きに警戒の目を向けた大蔵省は、担当官を派遣したが保険業法違反という結論を得られなかった。そこへ全共連設立の動きが表面化したので、共済事業はいずれ協同組合保険に成長するであろうから、アウトサイダーとして放置するのではなく、大蔵省は各種共済をみずがらの管掌下に置くように保険業法の改正に動きだした。
 内容は、①保険と共済を厳密に区別したうえで、共済は一件当たりの金額を一万円程度とする、②保険事業を実施する法人として協同組合を加える、③すでに共済事業を行っている協同組合をそのまま保険組合として認めることはない、④保険組合の行える事業は損害保険に限定する、というものであった。
 そこで、全共連が中心になって、農協、生協、漁協、中小企業協組などの代表者による懇談会(一九五○年十二月十三日)を開いた。当日、大蔵省の担当官が説明した内容は、次のようなものである。
 ①今回の保険業法の改正は、保険類似行為の取り締まりに中心を置いた。
 ②保険事業とそれ以前の共済事業を明確に区別する。
 ③保険業法に新たに保険組合を加えるが、保険会社および保険組合以外は保険業、あるいは保険類似事業を行えない。
 ④現に共済事業を行っている協同組合を、そのまま保険組合として認めることはしない。
 ⑤事業種類は損害保険のみとし、一件当たりの最高限度額は一万円程度以内とする。
 これにたいして、当日の参加団体はただちに協同組合共済事業協議会として反対決議を行い、代表者が大蔵省保険課長に抗議(一九五○年十二月二十六日)した。これにたいして保険課長は抗議の趣旨を了解し、今後は協同組合と連絡して法案をつくるなどの回答をしたが、大蔵省が基本的態度を変えるとは思えなかった。全共連は、このような大蔵省とその背景にある保険資本の攻撃のなかで誕生したので、岡村文四郎が農林省の共済規制を毅然としてはね返したわけだが、その後は最大の防御である事業実績を伸ぱすことに全努力を集中した。
 業績は急遠に伸びたが、大蔵省は性こりもなく「協同組合の保険事業に関する法律要網」を作成(一九五三年一月)して各所管庁に意見を求めた。内容は、協同組合保険の種類を政令で定め、保険金額の最高限度額を設定して協同組合にも募集取締規則を準用し、大蔵省と協同組合の所管庁が共済事業を共管するというものであった。
 しかし、全国共済事業団体連合協議会に結集した広範な協同組合と、総評・全労などの労働団体を含むニ四団体の反対で法案は国会に提出できなかった。大蔵省と保険資本は、その後も共済規制の攻撃を繰り違したので、全共連は「農協法一○条一項八号 農業上の災害又はその他の災害の共済に関する施設」という一行だけに準拠してきた共済事業の法的基盤を整備し、あわせて農災との関係整理と大蔵省や保険資本の攻撃をブロックするために、多角的な改善点をもつ「農協法改正法案」を大変な苦労のすえに成立(一九五四・昭和二十九年)させた。この農協法改正とその後の省令・指導要綱の整備で共済事業を推進する府県共済連の設立は急速に進み、全国的な組織体制の確立と危険分散が進んで共済事業は順調に発展した。
 ここで考えてみたいことは、もし保険業法の改正で協同組合保倹が認められていれば、許認可権による行政指導と護送船団方式によるマイナスや、生損保協会の妨害が十分に考えられた。それは共済が誕生して間もなく、類似保険のいわれのない攻撃を繰り返し受けたことで明らかだし、生損分椎という厄介な問題が起きる可能性も十分にあった。が、それでも各協同組合をつなぐ思想的・経済的・人的結合があれぱ、協同組合保険研究会に結集して解決ができたはずだし、経済的弱者の立場に立った「安くてよい生活保障」という協同組合保険の開発と推進も、可能だったという推測が成り立つ。
 しかし、歴史にこうした仮定は無意味である。賀川たちは戦前の体験と戦後の置かれた状況から、協同組合保倹に取り組まざるをえなかったし、その結果の挫折であったからである。したがって、賀川たちの奮闘を抜きにして今日の共済事業の発展はない。同時に、北海道共済連が協同組合保険という既成概念を超えて組合員の要求を大事にしたことが、共済事業を協同組合保険に発展させる原動力であった。また、賀川たちも協同組合保険についての理論や概念にたいするこだわりを捨てて、共済事業を発展させるために全力をあげて協力した結果得られた今日の成果である。
 今はウイナー・テイク・オール(一人勝ち)の時代であり、大競争社会である。欧米も含めた協同組合の成功と失敗の事実に学び、そこから多くの教訓を引き出すことが新たに協同同組合保険を発展させる必須要件の一つだといえる。

 全労済の設立

 生協法による共済事業は、一九四九(昭和二十四)年前半から設立され始めたが、それには五つのタイプがあった。
 ①職域生協による共済事業=野田醤油生協(四九年四月)、石川島共済生協、播磨生協、新潟鉄工所生協、鶴鉄生協など
 ②地域生協による共済事業=灘生協(後に神戸市民生協に合流)、東協連など
 ③市民共済による共済事業=群馬県共済生協(五三・九・二四)、生協都民共済会(五三・一二・二六)、北海道共済生協(五四・四・三〇)、神戸市民共済生協(五五・三・一〇)、金沢市火災共済生協(五五・四・一九)、福島県民共済生協(五五・一一・二一)など
 ④中小企業者による共済事業=全国特定郵便局長生協(四九・四・一)、全国酒販生協(四九・七・二八)、日本塩業生協(五〇・一・二六)、全国煙草販売生協(五〇・四・三)、全国自転車従業者生協(五一・二・八)など
 職域生協による共済事業は、野田醤油生協によって初めて取り組まれたが、定款第二条四項の「組合員の生活の共済を図る事業」に基づく、火災と生命共済であった。一口当たりの共済給付金は火災六万円、生命三万円であったが、掛金は加入者が事故発生のつど納入する仕組みで、そのほかに一年掛け捨ての加入金を納入するものもあった。この試みは、生協による共済事業としては最初のものであり、生協関係者および労政関係者から注目され、日協が共済事業の研究を始める契機になった。
 地域生協による共済事業は灘生協や東協連によって始められたが、灘生協は必要な加入者数が得られなかったので神戸市民生協に合流した。が、最近は日生協の共済事業も急速に成長しており、コープ共済を取り扱っている単協や、一部を保険資本と提携して組合員の総合的な生活保障二−ズにこたえている購買生協もある。
 市民共済も発足したときは火災共済だけだったが、近年は交通災害共済や生命関係共済(コープ共済たすけあい)を取り扱うようになり、危険分散のために全労済に出再している単協もある。また、日生協と生協全共連(注四二)は、日本共済協会に加盟している。
 (注四二)日本共済協会では農協共済の全共連と区別するため、市艮共済の全共連全国共済生活協同組合連合会)を「生協全共連」と呼んでいる。
 生協法に基づく共済事業は、このように一九四九年ころから多様に取り組まれてきたが、これに触発された日生協は第一回総会(一九五一・昭和二十六年十月二十八日)で「組合共済事業の促進について」決議するとともに、さっそく全共連の黒川泰一や共栄火災の専門家を招いて研究会(一九五二年二月二日)を開いて、「共済事業に関する日協連の考え方」を取りまとめた。このようにして、一九五○年を前後して生協法に基づく共済事業の萌芽が生まれたが、日生協、労金、福対協などは一方で共済規制と闘いながら他方で共済事業の創設に取り組み、ついに大阪で本格的な労働者共済生協を発足させることに成功した。
 大阪の取り組みは、大阪福対協が「労働組合の共済活動について」「大阪労働者福祉協会火災共済事業規定(案)」を発表し、労働組合の福祉活動の一環として共済事業を位置づけたことに始まる。
 福対協は会員四○○組合の労働者一六万人を対象に、火災共済が発足したら参加するか否かを調査し、二万五○○○人が参加するという調査桔果を得た。
 そこで福対協は、組織を通じてオルグ活動を行うとともに、大阪府の各労政事務所の協力を得て共済事業開始の徹底を図り、一九五四年十一月二十五日に大阪労済(発足時は全大阪労働者生活協同組合)の創立総会を行った。大阪労済が実際に事業を開始したのは十二月一日だが、火災共済は一口一○○円で約三万人が加入した。
 この大阪労済の火災共済事業には、保険業界から強い圧力がかけられた。創立は大阪労済がいちばん早かったが、認可が下りたのは一九五八年十月で順位は一二番自だった。これが官僚の嫌がらせというものであろうが、その後は新潟、長野、富山、福島、北海道、東京などで順調に設立されていった。設立から間もない時期に、新潟大火(一九五五年十月一日)や富山県魚津の大火(一九五六年九月十日)が発生し、関係者は共済給付金を労金からの借入でまかないながら加入促進をするなど大変な苦労をした。この経験を経て単協の法人化と全国連の必要性が痛感され、各単協は日生協、労金、総評、全労などの協力を得て全国労勘者共済協議会(略称・労済協)を結成(一九五六年十一月二十八日)した。
 しかし、協議会であるから調査研究と相互交流が主たる事業であり、再共済事業は全労済の設立まで待たねぱならなかった。
 事務局は回り持ちであったが、このとき日生協で労済協の事務局を担当したのが小林基愛である。彼は後に労済連(後年の全労済)に転籍して労働者共済事業の発展に尽力したが、その小林も当時は神田の古本屋をあさり歩いて保険と共済に関係する本を片っぱしから買い集めたというエピソードがあるほどで、彼は全共連の黒川泰一や小川正衛にもよく教えを乞うたようである。また、小林は賀川をこよなく敬愛していたので、日生協の賀川追悼集(『生協運動』一九六○年五月号)に心温まる一文を寄せているが、全労済の創立に賀川と関係の深い人たちの協力があったことを考えると、組織と人間関係の不思議な綾を感じずにはいられない。
 この労済協を母体に、生協法に基づく指導調整機能と再共済機能を持つ全国労働者共済生活協同組合連合会(略称・労済連。後年の全労済)が誕生した(一九五七・昭和三十二年九月二十九日)この日は三人の来賓が出席して祝辞を述べたが、最初にあいさつしたのは全国共済農業協同組合連合会を代表する参事の黒川泰一であった。全共連の設立に賀川と奔走し、いままた、自分が協力してきた労済連の創立総会であいさつすることは、戦前から協同組合保険の実現に賀川と奮闘してきた黒川にとって、特別な感慨があったと思われる。
 全労済が、賀川を会長とする日生協に加盟したのは当然で、日生協専務の中林貞男も労済連の第一期役員に選ばれた。翌三十三年六月には、賀川も全労済顧問に推薦されている。

 3・日生協の発足

 日協は、戦後すべての協同組合を組織対象にするとともに、運動者の同志的結合をめざして出発した。が、既述したように一九四六(昭和二十一)年の臨時総会で、生協の中央指導機関として再出発した。また、協同組合運動者の同志的結合という性格も除かれて、規約上の整備が図られた。一方、ドッジ・ラインの強行で単協や県連の経営破綻と解体が進み、日協もまた危機に直面した。さらに、日協事業部の鮭の買いつけ失敗などで財政も弱体化し、かつて一○○人を超した事務局員は六人を残すのみとなった。また、事務所も移転を繰り返し、機関紙『日本協同組合新聞』は一九四九年六月に三回も休刊したが、機関紙資金三〇万円募金運動に寄せられたカンパで復刊した。
 しかし、それもつかの間で極度の財政逼迫と日協の弱体化により、機関紙はついに一九五○年四月二十五日の一○五号を最後に廃刊になった。その後の日協本部と会員のパイプは、一九四九年八月から発行されたガリ版制りの「日協情報」のみとなったが、逆にこのころから生協運動の危機を克服する努力が全国各地で始まった。また、多少とも活動力を持った生協は、任意組合から生協法人への組織変更を完了しており、こうした組合を再編成して生協法に基づく全国連合会を設立する必要性が生まれてきた。このような経過のなかで、個人会員はすでに第三回総会(一九四八・昭和二十三年五月)の規約改正で廃止され、会費も組合員数に応じた制度に改定されたが、第五回総会(一九五○年六月)で当面は「日本生活協同組合同盟」に改称し、その後に生協法に基づく全国指導連合会として日本生活協同組合連合会(略称・日協連)を結成するとの方針が次のような理由で提案された。

 ①日協は各種組合を合む同志的結合体として上からの組織として発足したが、これとは別に全国の組織を基盤にした全国指導連を下から盛り上げる必要がある。
 ②法的基盤をもった各種協同組合との提携、金融機関の信用の点から法人格をもった全国指導連が必要である。
 ③官庁折衝にさいしても法的な全国指導連が必要である。
 ④ICA(国際協同組合同盟)加入につきGHQの許可を得るためにも、法的な全国指導連が必要である。

 この提案に基づいて、日協は多くの全国的な討論を経て解散総会を一九五一(昭和二十六)年三月十九日に東京大学法経二九番教室で行い、翌三月二十日に同じ場所で「日本生活協同組合連合会」の創立総会を開いた。総会での論点は、
 ①朝鮮戦争を契機に日本の再軍備が進められているが、よりよき生活と平和を求めて活動すること、②官僚の再統制が懸念されるが、官僚統制に屈した過去の経験に鑑みて協同の理論以上に団結の決意を実行に移すべき秋である、◎消費生活協同組合法は欠陥に充ち、金融の道は閉ざされ、現資本主義機構は我々の成長を拒否しているので、これらの障害を打破して勤労者大衆の生活擁護のために闘う、というものであった。
 賀川(東京医療生協)はこの日生協創立給会でも会長理事に選ばれ、専務理事(常勤)には中林貞男(員外)が選出された。副会長は藤田逸男(家庭組合)・田中俊介(灘生協)・奥むめお(員外)という戦前からの壊かしい顔ぷれで、常務理事にはこれも戦前派の木下保推(砧生協)が常勤になり、賀川と神戸消費組合から一緒だったクリスチャンの木立義道(東協連)は非常勤になった。理事はロッチデール派とモスクワ派の共存で、関誠一(福島県連)、菊田一雄(横浜生協)、佐々木虎三郎(川崎生協)、涌井安太郎(神戸生協)らがなり、後に日生協専務になった若き日の福田繁(東大生協)もいた。顧問には小泉秀吉、石黒武重、戸沢仁三郎、本位田祥男らが推されたが、人名と選出にあたっての配慮を見ると、歴史と知恵が感じられて興味深い。
 最後に、日生協創立総会の役員選考にまつわる中林貞男(初代専務)の回想を紹介するので、賀川の協同組合連営について理解を深めていただきたい。
日本生協連結成の時、私は賀川さんに木下君はクリスチャンだし、戦前からの運動者だから彼を専務にした方がよい、と言いました。そしたら先生は、現在生協運勤の中にはクリスチャンが沢山いるし、また共産党の譜君もいる。生協は絶対に片寄ってはならない。俺もクリスチャンだから(中林)君のような(中立の)立場の者が中心になるのが一番よいし、そうしないと運動は発展しないと言われ、その先生の卓見に感心しました。私はお互いの思想、信条、宗教は自由だが、生協としては政府に対し毅然とすると共に如何なるイデオロギーや政党の支配も受けてはならないと固く信じています。この賀川さんから受けた教訓は非常に大切なことで、この賀川精神は今日まで脈々と流れていますが、それが生協発展の基礎になっていると確信しています」(「生活協同組合運動の基礎」中林貞男『賀川豊彦研究』第7号本所賀川記念館)(つづく)