協同組合と賀川豊彦(5)

 四・賀川豊彦の協同組合論

 1・賀川論と賀川の協同組合論の間

 賀川の評価は生前から諸説紛々であったが(注42)、協同組合運動にかぎっていえぱ彼の評価は高いと考えていた。が、そうでもないらしい。賀川論のついでに、彼の協同組合運勤を批判する人がいるからである。もちろん、専門家でなくても賀川の協同組合運動について書くのは自由だが、影響力のある人が賀川論のついでに彼の協同組合運動をまちがって批判しているのを読んで、読者を通じて誤解が広まることを懸念した。
 そこで、まず、賀川論と賀川の協同組合論の間にある問題点を整理することにした。
 賀川論が揺れる第一の原因は、賀川が詩人的作家的素質に恵まれていたので、賀川の著作や言動にある種の華やかさがあったことへの共感と反感があるo第二は、彼の生涯を通してみると、賀川が精神的にも物質的にも無欲であったことは疑いないが(注43・44・45)、恩師のマヤス博士が賀川少年をフェイマス(有名)さんとあだ名した (注46〉ように、彼が目立ちたがり屋であったことへの反感がある。第三に、賀川は多くの問題に関心が強すぎて、すべてに挑戦するというタイプであったので、どの分野でも運動家、専門家、思想家、研究家というには物足りないという批判があり、それへの反論もあった。
 (注42)「(賀川は)『スラムの聖者』『世界平和の使徒』『預代の聖フランシスコ』……などと言われたりもしました。反面、『売名的社会的事業家』『偽善者』『日和見主義』『ヤソ看板の大山師』などとも言われて、評価が非常に極瑞でした」(「賀川豊彦の人物像」山口光朔著「賀川豊彦の全体像』神戸学生・青年センター編)
 (注43)賀川は植村正久のようにキリスト教界で君轄しようとか、教会にこもろうとせず、生涯を一伝道者として過ごし、四国伝道の途中で倒れた。賀川が精神的にも無欲であったあかしである。(筆者注)
 (注44)『死線を越えて』の印税一○万円は村島帰之(毎日新聞記者)によれぱ、三菱川崎争議後始末費用=3万5000円、日本農民組合費用=2万円、消費組合設立費用=1万円……等々で使いきっている(『雲の柱』19巻1940・昭和15年6月号)が、筆者の計算では、米価換算で当時の10万円は今の15億9000万円に相当する。(筆者注)
 (注45)「戦後の日協同盟発足時に借りた1000万円は、賀川さんが自分でみんな返した。日協同盟は一文も返してない」(中林会長談『日生協二十五年史』)
 (注46)賀川は4歳で父と、5歳で実母と死別してからは父の実家の徳島で義母に養育された。賀川の肩肘張ったフェイマス好きの性格は、差別意識の強い田舎で妾腹の子としてさげすまれた暗い幼少年時代に形成されたのかもしれない。賀川の学資をめんどうみていた兄端一の神戸の回漕店も破産して、徳島の実家も競売に付されている。(筆者注)
 第四に、個性の強い賀川との相性の良し悪しが、彼への極端な賛美と反感につながったといえる。たとえば、木立義道(中ノ郷質庫信用組合長)は「賀川豊彦と協同組合」(明治学院大学基督教学生会編『Kagawa』教文館)で「賀川の演説を聞いて彼のファンが講演会の後を追いかけるほどの人気だった」と書いているが、武田清子(国際基督教大学教授)は「賀川豊彦論」(『思想の科学』1960年1月号・中央公論社)に「労働学校に集まって彼の話を熱心にきこうとした労働者たちも、わけがわからなくて、しまいにはポカンとしてきいていた」と賀川を揶揄している。
 もっとも彼女の感性は特異なのか、同じ「賀川豊彦論」のなかで「日本のキリスト教界においても、『ああ賀川さんか……』と割合に軽くあしらわれている感なきにしもあらずである。敬虔な信仰者というにはあまりにも多才で、世俗的事業にも有能だということが、反感あるいは、そりのあわなさを日本のあるキリスト者たちに感じさせるのかもしれない。……(賀川の散漫な話)はどう考えても、何をきいたのかわからず、どうしてこの人がそんなにえらい人なのかわからなくて戸惑った」と書いている。
 筆者が「賀川豊彦と協同組合」を書く気になった一つの理由は、この武田論文が今でも『賀川豊彦の全体像」(神戸学生青年センター編 同出版部)や『生命の水みち溢れて』(緒方彰著 大阪キリスト教書店)などあちこちで引用されて影響が大きいからで、協同組合事業は決して「世俗的事業」でないことを「敬虔な信仰者」の皆さんにも理解してもらいたかったことがある。また、賀川が日本の協同組合の発展に尽くした偉大な先駆者の一人であり、聴衆の反感を買うペダンティックな人でないことを知ってもらいたかったからでもある。
 さらに、賀川がどの分野でも専門家の領域に達していないという意見とあわせて、被差別部落問題に関する彼への厳しい追及がある。彼は「貧民心理の研究」(『賀川豊彦全集」第8巻)の自序に、「私は立派な心理学者でもなし又経済学者でもない」と書いている。本人も自覚していたのであろうが、たしかに心理学者の著作としてみれば多くの欠陥があり、今日的に見れば差別用語差別意識が随所でみられるし、出版後には大いに問題になった。賀川も「石の枕を立てて」(『全集』第19巻)のなかで小説の主人公新見をして部落解放関係者に謝罪し、「貧民心理の研究」の絶版を約束したことを書いている。
 また、賀川は「日本協同組合保険論」(『全集」第11巻)の序文で、「各種の社会事業に多忙なる暇々に、寸暇を利用して極めた給果非常に不備な点が多いと思うが、他日これを正して更によきものとしたいと思っている」と書いている。要するに、賀川はみずからの差別意識を認めて謝罪と著書の絶版を約束し、彼自身が専門家でないことを認めている。しかし、関係者のなかには賀川が本心から謝罪しているのではないとか、差別意識を克服できなかったとか、賀川はもともと浅薄であったという批判が今もある。
 ところが、賀川非専門家論や賀川浅薄論について、マルキストの山崎勉治(協同組合研究家)(注48)は「したがって私は、今日常識的な意味で氏に加えられている賀川浅薄論(荒正人「賀川服の恩い出」朝日新聞4月25日号)には同調しえないのであり、いわゆる浅薄性は、賀川氏の本質ではなく、超人的多忙さが生んだ不可避な現象で……」と賀川を弁護した後、「だが、賀川社会事業研究所特代(昭和10〜13年のはじめのころ)のマルクシズムとの関連における研究にたいする、賀川氏の知織欲求は、まさしく貪欲であった」(『生活協同組合研究」1960年6月号)と評価している。
 一方、賀川とともに国外伝道をしたり、関東大震災以後はずっとペンによる協力をした鑓田研一(神戸中央神学校出身。作家)は「賀川豊彦の思想」で「賀川豊彦は組織的に思索して自己の思想体系を建設するという学者風の歩み方をした人ではない。その意味において賀川は思想家とばいえない。賀川は助手も研究室も持っていなかったが、賀川の多岐多端な思想を一つの体系にまとめるのは私たち後人の任務だ」(『Kagawa』前出)といっている(注49)。
 他方、賀川批判者としての武田清子は、前掲書のなかで「(賀川の書いたものを読むと)社会科学としてのマルキシズムの理解も『唯物主義に反対』ということで固定的で、自己疎外された人間の回復というような底を流れる課題に十分な洞察も足りないように思う」と、賀川の理解の浅さを指摘している。が、マルキストの山崎だけでなく、マルクス主義学者の新井義雄なども賀川を評価しており(注50)、武田の見解が主流というわけにはいかない。
 (注47)「『賀川豊彦全集』と部落差別」の中に、「賀川は、中国の民衆にも愛されていた……という人もいますが、あれはウソです。中国は戦後の賀川の著作を発禁処分にしています」(討議資料の欺瞞性を撃つ 賀川豊彦は差別者か」吉田光孝著)という主張がある。発禁が事実だが、中国政府が賀川の著作発禁にしたのは、同じクリスチャンとして賀川は蒋介石に親近感があり、賀川が私人としては台湾政府を支持していたからである。が、中林証言(賀川豊彦研究第7号)にもあるように、賀川は公人(日生協会長)としては中国合作総社のICA加盟を支持した。だからこそ中国は、賀川の葬儀に丁重な弔電を寄せたと考んられる。
 (注48)戦前からのマルキストだった山崎勉治は、賀川社会事業研究所で賀川と一緒に多くの仕事をしている。『国民健康保険と産業組合』賀川豊彦・山崎勉冶共著)、「産業組合読本」(賀川豊彦・山崎勉治共著)、『協同組合保険論』(N・バルウ著、賀川豊彦・山崎勉治ほか共訳)、「保険制度の協同組合を主張す』(賀川豊彦著、山崎勉治・執筆協力)、「日本消費組合運動史』(山崎勉治著)
 (注49)鑓田研一は「(賀川)が進化論の研究に学者的エネルギーのすべてを投入したら、賀川は進化論学者として世界的ランキングの第1位から5位までのどこかに自分の席をしめていたであろう」前掲書)と言っている。
 (注50)マルクス学者の新井義雄は、「『保険制度の協同組合化を主張す』(雲柱社発行)の理論はマルキシズムだ」と語っていたことを、山崎勉治は「賀川と協同組合思想」(『生協運動』1960年6月号)で明らかにしている。このように、賀川浅薄論には賛成も反対もあるが、賀用は悩める人や困った問題があればどこにでも出かけ、問題解決に全力を尽くしたことは周知である。つまり、賀川は書かなけれぱならない問題があるから書いたし、貧困による社会問題があるから運動を組織したのであって、浅薄か重厚か、素人か専門家かを問題にしたことは一度もなかった。あの大宅壮一が、大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動などの大部分は、賀川豊彦に源を発しているといっても決して言いすぎではないと言ったが、寸暇を惜しんで先進国の文献と実情に学び、すすんで協伺組合を設立した賀川は運動の先駆者であり、専門家だったといえる。
 (注51)「神はわが牧舎」(田中芳三編著『噫々賀川豊彦先生」大宅壮一著 クリスチャン・グラフ社
 また、既述の部分は繰り返さないが、賀川は太平洋戦争末期のキリスト教会合同や労勘運動、農民運動、協同組合運動などでもそうだったが、非暴力・非抵抗・合法主義というみずからの行動規範にそって実践した。その結果、教会合同では当局への迎合を批判され、労働運動や農民運動では直接行動主義者(サンジカリストコミュニストなど)によってはじき出された。が、神戸消費組合、江東消費組合、東京医療利用組合などの設立ではいつも専任者を配置して2、3年前から準備を始め、妨害を受けても任意組合で発足せず、努力して認可の見通しをつけてから事業を始めた。要するに、賀川は場当たり主義でなく慎重で、かつ合法主義で組合員の信頼をかちえていたことを述べておきたい。もちろん、賀川のこの行動規範は、戦前から多くの批判を浴びた。民衆の杜会運動にたいする弾圧が極度に厳しい状況のもとでは、合法主義は運動の幅をみずから狭めたし、運動参加者の手足を縛るという弱点があったからである。また、戦前からロッチデール派とモスクワ派に見解の違いはあったが、彼は戦後もキリスト教信者として唯心論の立場から唯物論マルクス経済学を批判した。日協の会長として、協同組合戦線の統一に最大限の配慮はしたが、「新協同組合要論」(『賀川豊彦全集』第11巻)ではレーニンの協同組合論を厳しく批判している。が、協同組合をネップ以前のレーニンは否定していたという誤解や、彼の主観経済学にも問題があって的確な批判ではなかった。
 (注52)レーニンは第ニインター大会(1910年コペンハーゲン)に提出した決議案で、「①プロレタリア協同組合は中間搾取を減らし、商品提供者のもとでの労働条件に影響を与え、職員の状態を改善すること等々によって、労働者階級がその状態を改善することを可能にする。②プロレタリア協同組合はストライキロックアウト、迫害その他の際に援助をあたえることによって、大衆的な経済闘争と政治闘争においてますます重要な意義をもつようになっている」などの評価をしている。が、反面では、協同組合がブルジョア的な株式会社に退化する傾向や、社会問題を解決する手段であるかのような幻想を生みやすい(「レーニン全集」16巻・239頁)と警告している。
 (注53)「(レーニン)消費組合を解体し、飢餓によって四百数十方人の餓死を招来した。彼はその誤謬を知って消費組合を復活し、生産、消費組合を作った。これがNEP即ちレーニンのNew Economic Policyであった」(『賀川豊彦全集』第11巻「新協同組合要論」第1章 協同組合国家の建設・490頁)
 一方、賀川は暴力革命や労働運動、農民運動、水平社の糾弾闘争における暴力は否定したが、罷工(スト)と暴力の違いを強調して神戸消費組合でも川崎造船所などの争議は支援した。そこで、マルキシズムの立場に立つ協同組合運動家や理論家は賀川の「協同組合主義」を批判したが、賀川の協同組合論の基本については支持した人が少なくない。脚注の理由(注54)と思われるが、前記の山崎勉治も山本秋も富田順一も、それぞれの著書で賀川の協同組合論と実践を評価している(注55)。
 労福研(日本労働者福祉研究会)の帰りに富田が、賀川の『日本協同組合保険論』研究を筆者に勧めてくれたことがあるし、生前の水越哲郎(全労済専務理事)が共栄火災とのゴルフコンペで昼食をとりながら雑談をしていたとき、「いまは賀川の研究が大事だよ」と私たちに話してくれたのを覚えている。
 (注54)ロッチデール派とモスクワ派間の論争は、主として協同組合国家の問題や政党からの独立のあり方、あるいば争議支援の限界をめぐる諸問題であって、協同組合原則をめぐる対立ではなかったように思われる。(筆者注)
 (注55)山本秋著「日本生活協同組合運動史」(日本評論社)、「賀川豊彦先生と新興消費組合四十年」(『生協運動』1960年6月 で賀川を評価。富田順一著『共済事業』論攷集(現代共済事業研究会)で賀川を評価(筆者注)
 以上が賀川論と賀川の協同組合論の間にある問題点の点描だが、より正確に考察していただくために彼の協同組合論に関する著書名と、協同組合研究で歴訪した諸国名を紹介しておく。
 ★著書名

  • 社会構成と消費組合(1927・2)、
  • 家庭と消費組合(1927・6)、
  • 医療組合論(1934・4)、
  • ◎経済哲学より見たる産業組合(天龍蚕糸社 1934・7)、
  • ◎組合国家を論じ国家改造に及ぶ(東京学生消費組合出版部 1934・7)、
  • 国民健康保険と産業組合(賀川豊彦・山崎勉治共著 成美堂 1936・4)、
  • ◎保険制度の協同組合化を主張す(賀川豊彦著、執筆協力者・山崎勉治 雲柱社 1936・2)、
  • ◎産業組合読本(賀川豊彦・山崎勉治共著 春秋社 1938・5)、
  • ◎協同組合保険論(N・バルウ著 賀川ほか共訳 叢文閣 1938・9)、
  • キリスト教兄弟愛と経済(発行年月不詳)、
  • 漁業組合の理論と実際(1940・3)、
  • 産業組合の本質とその進路(1940・4)、
  • 日本協同組合保険論(1940・10)、
  • ◎協同組合の理論と実際(コバルト社 1946・6)、
  • 新協同組合要論(1947・11)

 (注56)書名の頭に「◎印」があるのは、『賀川豊彦全集」に所収されていない賀川の著書である。
 (注57)ほかに、『賀川豊彦全集」第23巻「世界を私の家として」ならびに第24巻「身辺雑記」にも、かなり重要な協同組合関係の記述がある。
 (注58)前掲著書はいずれも単行本であるが、このほかにも賀川の個人雑誌『雲の柱」に多くの協同組合関係の記述がある。また、賀川が発行しでいた友愛会神戸連合会機関紙「新神戸」(後に、『労働者新聞』と改題。縮刷版がある)にも同様の記事が多いので参考にされたい。
★賀用が直接設立、もしくは設立に協力した協同組合(協力は◎印)と役職

  • 有限責任購買組合共益社・理事(1919・8)、
  • 有限責任神戸購買組合・理事(1920・4・12)、
  • 有限責任灘購買組合・顧間(1920・5・26)、
  • エスの友復活共済組合設立(1923・2〉、
  • エスの友大工生産業協同組合を組織(1925・3)、
  • ◎消費組合促進会設立(安部磯雄、布施辰治らと協力1826・4)、
  • 有限責任購買組合東京学生消費組合を設立・組合長(安部磯雄、末広厳太郎らと協力1926・5)、
  • 有限責任購買組合江東消責組合設立・賀川組合長、木立専務(1926・4)、
  • 中ノ郷質庫信用組合設立(1928・6)、
  • 東京医療利用組合設立・専務(組合長は新渡戸稲造 1932・7)、
  • 日本協同組合学校設立(安部磯雄、斧武夫らと協力1933・8)、
  • 日本協同組合同盟創立・会長(1945・2・18)、
  • 全国厚生文化農業協同組合連合会生命保険中央委員会委陰長に選任(1949・4)、
  • 日本協同組合キリスト同盟を結成(1949・8)、
  • 日本協同組合同盟の発展的解消により日本生活協同組合連合会を創立・会長理事(1951・3)、
  • 全国共済農業協同組合連合会・顧問(1953・1)、
  • 全国労働者共済生活協同組合連合会・顧問(1958・6 設立には閣係せず)

★賀川が協同組合についての講演・研究に歴訪した諸国

  1. 豪州、ニュージーランドを訪問=全豪州基督教連盟とニュージーランドYMCAの招待で豪州建国百年祭に出席したが、招待目的のなかに①無心論が盛んだから神を基礎とする社会連動の教えと、②消費組合の話をしてもらうことが入っていた。1935年2月18日に長崎港を出港し、豪州、ニュージーランド、フィジー、ハワイを経て7月30日に帰国。
  2. アメリカ政府と米国基督教連盟の招きで米国復興運動・協同組合運動の全米巡回講演と欧州の協同組合保険を研究するために諸国を歴訪。米国〜ノルウェースウェーデンフィンランドエストニアラトビアポーランド〜ドイツ〜ベルギー〜フランス〜スイス〜オーストリアハンガリーユーゴスラビアギリシャ〜トルコ〜パレスチナ。1935年12月5日に横浜港から出港し、翌1936年10月12日に神戸港に入港。

 2・執筆時の時代的背景

 いつの時代にも、節目がある。『日本協同組合保険論」の執筆者序文の日付は、日米開戦一年前の1940(昭和15)年10月4日、つまり15年戦争が最終局面にさしかかった時期である。40年体制の起点の年だが、これは起点というよりゾーンと考えてもらえばよい。この40年前後につくられた日本経済の特徴は、日本型企業、間接金融中心の金融システム、直接税中心の税体系、中央集権的財政制度など戦争遂行のための統制経済が確立した年だが、それらのシステムは今でも生き残っている。が、賀川はこの転換の年に、『日本協同組合保険論』で官僚主導の統制経済を敷しく批判した。
 この国家経済体制の中枢を掌握した官僚のアンセスターは、中国東北部(旧満州)侵略以降に登場した新官僚である。岸信介、後藤文雄(内務官僚、斎藤内閣の農相)、迫水久常(大厳官僚、敗戦時の内閣書記官長)、箱田博雄(片山内閣の経済安定本部長官)らだが、その系譜を引き継いだのが革新官僚である。新官僚が内務官僚中心であるのにたいして、革新官僚の中心は経済官擦であったが、その活動の場は内閣企画院だったといわれる。この革新官僚は、国家の戦争目的を達成するための経済統制を実施したが、それは官僚依存の国家経済システムであった。
「国防目的達成ノ為国ノ全カヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スル」ことを目的に、「国家総動員法」(1938・昭和13年)が制定された。この法律に基づく主要勅令の一部を見ると、賃金統制令・地代家賃統制令(1940・10)、価格統制令(1939・10)、物資統制令(1941・12)、重要産業団体令(1941・8)、金融統制団体令(1942・4)、新聞事業令(1941・12)、動労動員令(1938・6)などであった。また、米穀配給統制法(1939・4)、食糧管理法(1939・4)、税法改正(1940・4)などを相次いで公布し、実施に移した。
 このように、政治・経済に限らず暮らしに関係するものすべてが官僚統制に服した時代であるがら、小売りや保険も例外ではなかった。既述したように、消費組合は組合員の自治的な相互扶助組織であることが認められず、配給機構の一部として位置づけられた。また、強い要求にもかかわらず協同組合の保険参入は認められなかったし、保険業界は統制団体として企業の統廃合を進めた。産業組合も農業会に改組され、官僚統制の下におかれた。賀川が「日本協同組合保険論」を執筆したのは、こんな時期である。
 (注59)農業団体法が公布(1943・昭和18年3月10日)されて産業組合中央会、帝国農会、全国購買・販売連合会、帝国畜産会などの7団体が統合され、産業組合は相互扶助組織から戦争遂行のための官僚統制による「農業去」に改組された。

 3.賀川協同組合論の思想的背景

 繰り返すが、賀川は実践の人である。これは、協同組合運動においても例外ではない。
 賀川が共益社を設立したのは1920(大正9)年で、それから神戸消費組合(1921)や江東消費組合(1927)など多くの協同組合を設立したが、彼が本格的に協同組合論を書くようになったのは、「家庭と消費組合」(1927・6)からである。つまり、彼は救貧から方向転換して防貧のために協同組合運動を組織したが、しだいに理論的研鑽を積んで多くの著書をものにした。
 したがって、彼の協同組合論は時期を追ってしだいに巧緻になり、情報と言論統制の厳しい戦争中であったが質の高いものになった。
 (注60)「有光社から頼まれた協同組合保険論をぼつばつ纏めているが、日本にも協同組合保険が曲がりなりにも、法律案としては9つも出ているので、もう少し皆がこの方面に知識を持ってくれたらと思う」(「身辺雑記」『賀川豊彦全集』第24巻・昭和15年1月記)
 一方、賀川は徹底したクリスチャンであった。周知のように、戦時中に彼の言動が弾圧され、キリスト教信仰が危機に陥ったとき、彼は信仰維持に最大の努力を払った。さらに、彼は非暴力と非抵抗と合法主義を貫いたために、直接行動主義が多数派の労働運動や農民運動からはじき出されたが、マルクス唯物論レーニンの協同組合論を批判し、クリスチャンとして唯心論の立場から当時の多数派に論戦を挑んだ。そこで、賀川の協同組合論を考察するには、その背景にある彼の宗教思想を理解し、そこから導かれた彼の主観経済原理についても十分研究する必要がある。
 ところが、筆者は宗教はわからないし、一彼の協同組合国家(協同組合の目的・機能・役割などを国家改造にまで拡大すること)や主観経済原理(注61)には賛成できない。が、それらの点を除けば、『日本協同組合保険論』は協同組合原則を押さえた名著であり、今こそ必要な論文であるのに、このごろは紹介文すらほとんど見かけない。『協同組合の名著』第9巻も『賀川豊彦全集』第11巻も、いまは遠くなったのかもしれない。
 そこで、ためらいはあるが、神戸生まれの賀川が神戸の貧民窟で、日本で、世界で協同組合運動に残した足跡を検証するために、賀川の協同組合論をひも解くことにした。
 (注61)「かれの経済学は、経験科学としての経済学の枠をとび出してしまっていた。資本主義の病根を批判することはできたが、分析することはできなかった。そもそも、かれの『主観経済学』は経済学ではなく、一種の経済哲学だったのである。それを経済学への自己流の解釈から、あえて経済学として提示しようとしたところに誤りがあったのである」(『賀川豊彦』隅屋三喜男著 岩波書店

 4・日本協同組合保険論
 (1)構成
 第一章 協同組合保険の本質
 第二章 欧米に於ける協同組合保険の趨勢(其一)−消費組合に依る協同組合保険−
 第三章 欧米に於ける協同組合保倹の趨勢(其二)−労働組合に依る協同組合保険−
 第四章 欧米に於ける協周組合保倹の趨勢(其三)−農業協同組合保険−
 第五章 欧米に於ける協間組合保険の趨勢(其四)−協同組合従業員組合保険−
 第六章 国民健康保険組合の諸問題
 第七章 労働者健康保険組合
 第八章 労働者災害扶助責任保険組合とその共済組合
 第九章 職員健康保険組合の諸問題
 第十章 船員保険とその共済組合

 第十一章 家畜保険組合の諸問題
 第十二章 農業保険問題
 第十三章 漁業保険組合の詩問題
 第十四章 失業保険組合の譜問題
 第十五章 生命保険組合の出発と企画経済