賀川豊彦を世に出したのは村島帰之さんです

 神戸賀川記念館館長の村山牧師から、意外な話を聞いた。
賀川豊彦を世に出したのは村島帰之さんです。先生の片腕だった。毎日新聞の記者ですよ」
 この連載を始めたころ、労働記者の草分けで賀川のベストセラー「死線を越えて」出版の橋渡しをした先輩がいる、と聞いたのだが、確かめられないままになっていた。
 インターネットで調べると、学校法人・平和学園(神奈川県茅ヶ崎市)のホームページが見つかった。取り寄せた同学園設立20周年記念出版「ますらおのごとく 村島帰之先生の生涯」の「小伝」によると、奈良県生まれで賀川の3歳下。早稲田大学卒業後、大阪毎日新聞新に入社し、経済部を経て、内国通信部で地方版編集をしていた25歳のころ賀川と知り合った。「ドン底生活」を新聞に連載し、翌年出版。出世作だった。労働運動に深くかかわり、友愛会関西同盟を発足させ、賀川が理事長に、村島が理事に就任している。
 27歳の夏、神戸支局に転勤し、1年いた。その間、日本初のサボタージュ川崎造船所で労働者1万6000人が参加して決行している。友愛会の指導だから、いわば黒幕だったのだろう。サボタージュは、労働者の争議戦術の一つで生産妨害行為や破壊工作をいう。
 「サボを『同盟怠業』と訳し、夕刊に報ず。まさに特ダネ」と村島は備忘録に残したが、それ以来、怠けることを「サボる」というようになり、この「誤訳」を後々まで気に病んでいたという。
 神戸勤務時代。月刊誌「改造」の依頼で賀川に寄稿の橋渡しをした。1920年1月−5月に前半を連載、後半を加えて10月に出版され、ベストセラーとなった。
「単行本にしようという話がきて意志を聞かれた。とても売れないだろうから、やめたほうがよい」と答えた、と村島は書いている。
 大阪本社に戻ってからは社会部、調査部、学芸部などに勤務。結婚では賀川夫妻に仲人を頼み、神戸教会で挙式。新婚旅行に代えて上京し、関東大震災の本所バラックで賀川の難民救済事業を手伝った。この後、賀川から洗礼を受けた。
 病気のため45歳で退社。東京の社団法人・白十字会総幹事に就任した。賀川が急性肺炎で入院した事があり、見舞いに行った。面会謝絶で、筆談になった。「バイオリンの弦もたまにはゆるめるがよろしい」として村島に、賀川は「ツル モウ ダメラシイ」と珍しく弱音を吐いたという。
 敗戦の翌年、キリスト教主義の私立平和女学校を開設して校長に就任し、その後、学校法人平和学園を創設、賀川が理事長、村島が専務理事と学園長と校長を兼務した。
 「小伝」をたどると、正義感が強く、情熱的で痛快な人物という印象の半面、労働運動の内部に深くかかわるなど、中立を求められる記者として現在では考えにくい行動に出た。
 村山部長は「今ならクビになるかもしれませんね。でも村島さんがいたから賀川先生は世に出たんです」と、また言ってほほえんだ。【奥田昭明=毎日新聞神戸市内版から転載】