鼎談 下中弥三郎と世界連邦運動(1)

   茅 誠司 田中正明 尾崎秀樹

尾崎 きょうは下中弥三郎先生についていろいろお話を伺いたいわけですが、何しろ下中弥三郎という人物は、出版人であると同時に教育者であり、思想家であり、政治家でもあるという、その幅の広さは、おそらく明治・大正・昭和三代を生きてきた人物の中でも飛び抜けて傑出していたんじやないかと思います。
 それだけに、下中弥三郎の人と思想を要約して語るのは、たいへん難しいことで、その証拠に『下中弥三郎事典』という事典までができている。いかにも百科事典の平凡社にふさわしい本ですが、しかし一人の人物で百科事典ができ上るということに下中さんのパーソナルなものの幅の広さ、奥行き、行動半径の広がりというようなものが物語られていると思われます。
 本来ならば、八十三年の生涯を戦前からたどっていくのが順序なんでしょうが、時間の都合もございまして、きょうは主として戦後の活躍というところでお話しをいただきたいのです。諸先生、いずれも下中さんとは個人的にもお親しくいらしったし、それだけに活字を通して伝えられるもの以上のいろんな人間的なエピソードだとか印象などをお持ちだろうと思います。そういう点を大いに盛り込んでいただいて世界連邦運動や世界平和アピール七人委員会のそれぞれの動きの中での下中弥三郎との出会いを語っていただきたいのです。それらの運動が今日どのような意義を持っているか、その辺の問題もふれていただければさいわいです。

 下中と世界連邦運動

 戦後は、しばらく追放の時期もあって、出版界の中心にはいなかった。東京印書館の社長に就任したのが、たしか昭和二十二年だったと思いますが、追放も解けて二十六年社長に復活と同時に、この段階でもう戦後の新しい構想を具体化していこうとする。それが平凡社の復興とダブって、大きな波を打っていくことになるかと思いますがどうでしょうか、やはり運動の中軸になるものは、教育の理念を出版を通して実践していく、そしてその路線に基づいて新しい戦後の文化的復興を図る。これが出版人としての一つの柱になったのではないでしょうか。まず、世界構想というか、その具体的な現われである世界連邦運動についてお話ししていただきたい。私は、これを戦前からの発展として見ているわけですが戦前から非常に親しくお付合いのあった田中さん、いかがでしょうか。

 田中 戦前からのつながっている構想というのは、私も大賛成でして、人はよく、下中弥三郎という人物は、そのときどきの主役的な演じ方をする、オポチュニストであるとか、時代時代の変わり身の早さを論議しますけれども、先生は死ぬまで一貫したものがあったと私は見ているんです。
 世界連邦創立当時、先生が世界連邦にお入りになると同時に、私も一緒にお手伝いさせていただいた。先生が世界連邦建設同盟の理事長、私が事務局長として長年お仕えしたわけなんですが、一体下中弥三郎の世界連邦思想のルーツはどこかということを調べたことがあるんです。
 先生の著書に、大正十二年『萬人労働の教育』という有名な本がございます。それから統いて、大国隆正、佐藤信淵の研究を著書として出されている。これら三つの著書に共通しているものは、世界経倫というか世界統合の問題である。大国隆正や佐藤信淵は、いうまでもなく、日本を中心にした世界経綸でございますけれども、そういうことに先生は非常に興味と関心を持っておられた。昭和十五年に『大西郷正傅』という著書を書かれている。

 尾崎 大きな本ですね。

 田中 浩瀚な著書で、上中下三巻でしたか、この中に実は世界連邦という言葉が出てくるんです。横井小楠、大西郷を結ぶ思想系譜の中に世界連邦思想があるというュニークな発表をしています。
 さらに、先生の崇拝している人物を挙げていきますと、カント、ガンジートルストイ、大西郷、みんな現代的な意味のある人々でありますが、何か共通のものが底にあるわけですね。カントは『永久平和のために』という著書を書いて、世界連邦の初期の思想家であるし、トルストイ精神主義農本主義を中心にした世界、人類の和合ということを考えた思想家である。ガンジーは、非服従非暴力主義を通じて、世界同胞主義を唱え、人間の良心に絶対的な信頼をおいた人種平等人権尊重という建前から、世界連邦的な構想を展開している。大西郷しかりです…。そういうものを先生は学んだのではないでしょうか。
 戦争で山梨県の岩間村に疎開されるんですが、そこで終戦を迎える。私どもからすれば、価値観の大転換が来たわけですが、岩間村の近郷近在の先生方が方向を失って、これからの日本はどうなるのか、私たちはどう生きていったらいいのかと、先生の疎開先の茅屋へ聞きに来るわけです。そこで先生は三つのことをおっしやっている。一つは郷村自治、一つは人種混合、もう一つは世界連邦、この三つが日本のこれからの柱だ、ということを言われるんですね。ここでもまた世界連邦という言葉が出てくるわけです。

 尾崎 なるほど一貫しているわけですね。

 田中 終戦直後は先生の一番痛ましい不幸な時代で、次男の達郎さんがフィリピンで戦死され、長男の憲司さんが京都で交通事故で亡くなっている。それから百科事典の原稿も紙型も焼き、工場・事務所は空爆でやられ、先生御自身は公職追放で世の中に出られないという時代があるのです。それが昭和二十六年に解除になるのですね。
 解除になると、途端に世界連邦運動に入っていくんですが、そのきっかけが賀川豊彦との出会いです。ご存じのように、賀川は非戦論者で、クリスチャンでもあるわけですが、第二次世界大戦反戦的な言辞を弄したというカドでつかまり終戦を迎えるわけですが、その年の九月に賀川が中心になって財団法人国際平和協会というのを設立するんです。その目的事業の第一項目が、世界連邦を日本の外交の柱とするということです。
 賀川は、ご存じのように、終戦のとき東久邇内閣の参与になるんですが、日本は世界の悪者になり、孤児になって国際的に孤立してしまった。どうしたら国際社会に復帰できるか、ということを東久邇総理は賀川に諮間する。賀川は、政府の運動じやなくて、民間の運動として、世界連邦というものを旗印しに平和主義一本でいく以外に、国際復帰はできませんと答える。それじゃお前に任せるから団体をつくってやってくれ、というので、いま申し上げた財団法人国際平和協会ができたわけです。
 その財団をいま私が引き受けてやっているんですが、その目的が世界連邦の建設である。そういう世界連邦運動の組織が実際に日本に生まれたのが、昭和二十三年です。賀川はそのとき副会長になり、会長には尾崎行雄を推薦するわけです。というのは、自分はキリスト教だから、自分が会長になるとこの運動はキリスト教の運動と言われるといけない、というのが賀川の考えでした。
 昭和二十三年に建設同盟が組織され国際的にはその前年、スイスのモントルーで世界連邦世界協会が誕生し、翌二十四年には世界連邦日本国会委員会が松岡駒吉を会長にして結成される、といったぐあいです。国会にも民間にも世界連邦団体は生まれたが、終戦直後の混迷期で運動は振わかった。そこへ下中が出現するわけです。
 つまり、二十六年、ちょうど先生が解除になった頃、世界連邦運動もやっと形ができた。先生は、賀川との出会いで最初に何を言ったかというと、原爆を落とされた広島で「世界連邦アジア会議」を開き、アジアの独立と世界の連帯を呼びかけようではないかというのです。当時まだ独立してない国が多かったわけですが、インド、ベトナムラオス、カソボジァ、フィリピン、インドネシア、マレーシアこういうところから民間代表を葉めて、アジア会議を開いた。昭和二十七年十一月のことです。下中の先見の明というか、この会議が引きがねとなって、一九五五年のアジア・アフリカ会議、つまりバンドン会議に思想的にはつながっていくのです。(続く)
 「下中弥三郎を語る−その人と思想」(発行者:パール・下中記念館、1978年10月3日)から