雲水漂泊

 賀川豊彦は戦前、アメリカを5回訪ね、ヨーロッパには2回行った。中国訪問は数えきれない。フィリピンにも行き、オーストラリア・ニュージーランド、南太平洋まで訪問している。戦前、最も多く世界を歩いた日本人の一人だったはずだ。
 第1回目のアメリカはプリンストン大学への留学で、26歳の時だった。無名の日本人として、帰りの船賃を稼ぐため、ユタ州オグデンでアルバイトするする必要があった。それから10年、アメリカの全米大学連盟の招きがあり、2回目の訪米のチャンスがめぐって来た。信じられないことだが、世界的なキリスト教ネットワークを通じてその時点で賀川はすでに世界的に知られる存在だったのだ。
 その時の旅行について、賀川は『雲水遍歴』と題して東京の改造社から出版している。また1935年の4回目の訪米については『世界を私の家として』(第一書房、1938年5月)に詳しいが、この時は、アメリカのキリスト教連盟とアメリカ政府の要請で、協同組合運動について各地で講演した。
 ともあれ、賀川は思い出深いアメリカの旅をハワイから始め、カリフォルニア、ユタ、シカゴを経てワシントンとニューヨークに入った。アメリカが排日移民法を導入したのが、1924年7月1日であるから、賀川のアメリカ上陸はその6カ月後であった。各地で催された賀川のための講演会には多くの人々が集まり、歓迎されたが、賀川の心は満たされなかった。
 賀川が1925年3月14日、イギリスに向けニューヨークを去ったとき、彼は次のように書いた。
「船はニューヨーク港を出た。港の入り口に立つ自由の神像は霧のために見えなかった、それを私は意味あることにとった。米国は、今、霧の中に座る! 自由の神像は米人には今も見えないでいる!」
 賀川はこうもいった。「米国国民は国民的年齢において満12歳である」。マッカーサーが日本人の精神年齢について12歳といったのはその20年後のことである。マッカーサーが1920年代のアメリカ人を「12歳」と描写した日本人がいたと知っていたら、さぞ驚いたに違いない。
 第一次大戦の反省から生まれた国際連盟で、日本の代表団は国連憲章に人種差別撤廃を盛り込むように要求したが受け入れられなかった。そればかりか、いいだしっぺのアメリカはカリフォルニア州を中心に増え続ける日本人移民を排斥する法律を導入して、黄色人種への差別を強化していたのだった。
 ちなみにアメリカはウィルソン大統領自らが、国際連盟を提唱しながら議会が批准しなかったため、加盟国とはならなかった。戦後になって、満州事変への列強の批判から日本が国連を脱退したことが、なにやら国際協調路線からの離脱のように受け止められるようになったが、世界最大の債権国となったアメリカは初めから、国際連盟の規約に拘束されず自在に外交を展開していたのだから、日本の国連脱退は世界史的に見てそんなに大きなエポックではないと考えている。
 賀川の2回目の訪米をきっかけにカリフォルニア州バークレーに賀川基金が生まれた。北米の日本人を中心に賀川への尊敬が集まり、賀川の社会事業を支援しようとする動きが各地に広まったのである。後に賀川の英文秘書となるヘレン・タッピング女史の日本での生活はこの賀川基金が支えた。