歌碑「悲しみを忘れて」

 「悲しみを忘れてわたる太平洋 平和の繋(つな)ぎむねにひそめて」

 松山市道後姫塚の平和記念広場に賀川豊彦の歌碑がある。まだ訪ねたことはない。生誕100年にあたる1988年の前年、草むらの中に横倒しになったままの大理石の歌碑が見つかり、松山市民の手で「市民の平和顕彰碑」として復元された。

 当時の共同通信ニュースによると、「賀川豊彦生誕百年の今年、記念行事が神戸や東京で続く中で『賀川の霊が歌碑を呼び起こしたのではないか』と話題になっている」とある。

 この短歌は昭和22年、農民運動などを支援するため愛媛県を訪れた賀川に市民が揮毫を頼んだもの。

 賀川は近衛内閣の要請で戦争が始まる1941年4月から7月まで渡米し、日米和解のため最期の努力をするが和平の試みは失敗した。「悲しみを忘れて…」の歌はこの時の心境をサンフランシスコで詠んだとされている。

 歌碑は大理石で高さ約七十センチ、幅約四十センチ、奥行き約二十センチ。「悲しみを忘れてわたる太平洋

 歌を刻んだ碑は同市道後姫塚に建てられたが、関係者が死亡したこともあって忘れ去られ、数年前、近くのホテルがテニスコートを造成した時、市有地に放置したままになっていた。
 昨年秋、半ば泥に埋まっている歌碑を賀川と面識があった元歯科医後藤美基さん(82)=松山市在住=が偶然見つけ、東京の賀川豊彦生誕百年記念実行委員会(賀川豊彦記念・松沢資料館内)に連絡した。一時は東京へ移す動きもあったが、松山市がこれを知り、ことし七月になって回収、現在市役所内に保管している。
 中村時雄松山市長は「私も賀川さんとは数回お会いしたことがある。温厚な人なのにどこにあの闘志が秘められているのかと思った。市民の平和を愛する心の核にしたい」と熱っぽく話している。(共同通信 1988年07月26日)

 近衛・ルーズベルト・賀川−日米外交秘話


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   賀川豊彦反戦歌碑再建へ 松山で40年ぶりに見つかる共同通信1988年07月26日】
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 【松山】社会運動家賀川豊彦の「反戦平和」の歌碑が松山市道後の草むらに横倒しのまま放置されているのが見つかり、交友のあった人たちや松山市の手で「市民の平和顕彰碑」として近く再建されることになった。賀川豊彦生誕百年の今年、記念行事が神戸や東京で続く中で「賀川の霊が歌碑を呼び起こしたのではないか」と話題になっている。
 賀川は明治二十一年、神戸市生まれ。キリスト教徒で米国へ留学し、小作人組合を指導したのが縁で社会運動に入った。帰国後、神戸市でスラム街の人たちの救済や伝道活動に力を注ぎ、反戦論者として投獄されたこともある。
 歌碑は大理石で高さ約七十センチ、幅約四十センチ、奥行き約二十センチ。「悲しみを忘れてわたる太平洋
平和の繋(つな)ぎむねにひそめて」と賀川の直筆の短歌が刻まれている。
 賀川は日米開戦直前の昭和十六年七月、キリスト教平和使節団の一員として渡米し、日米の険悪な関係を改善させようとしたが、和平交渉は失敗に終わった。「悲しみを忘れて…」の歌はこの時の心境をサンフランシスコで詠んだとされている。
 昭和二十二年、農民運動や部落解放運動の支援のため愛媛県を訪れた賀川に、松山市民が揮ごうを頼んだところ、反戦の誓い新たにこの歌をしたためたという。
 歌を刻んだ碑は同市道後姫塚に建てられたが、関係者が死亡したこともあって忘れ去られ、数年前、近くのホテルがテニスコートを造成した時、市有地に放置したままになっていた。
 昨年秋、半ば泥に埋まっている歌碑を賀川と面識があった元歯科医後藤美基さん(82)=松山市在住=が偶然見つけ、東京の賀川豊彦生誕百年記念実行委員会(賀川豊彦記念・松沢資料館内)に連絡した。一時は東京へ移す動きもあったが、松山市がこれを知り、ことし七月になって回収、現在市役所内に保管している。
 中村時雄松山市長は「私も賀川さんとは数回お会いしたことがある。温厚な人なのにどこにあの闘志が秘められているのかと思った。市民の平和を愛する心の核にしたい」と熱っぽく話している。(共同通信 )