偉人、偉人を知る 長尾己

 すいなことをやる

 今から約50年前、賀川豊彦君は宣教師マヤス先生に連れられて豊橋に来た。たしか君の19歳の時であったと思う。当時私の父長尾巻が豊橋で伝道をしていたので、君はしばらく私の家に寄食することになったが、当時の君は顔色蒼ざめて痩せ細っていた。すでに胸を患っていたのである。
 私たちは毎日食事を共にしていたが、君は時々喀血した。私の母が食事の世話をしたが、君は菜食主義だといって肉を食わなかった、母が心配し、「野菜ばかり食べていたのではからだがもたぬ」といって肉をすすめたが、君はどうしても食べなかった。それでも母のすすめで鶏卵だけはしぶしぶ食べていた。
 私の父は名もない、そして貧しい一介の伝道者であったので、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸と十干の名のついた10人の子供たちを抱えての伝道は、並大抵のものではなかった。毎日私たちは芋粥と漬物とを食って生活した。こうした家族の中に豊彦君が一枚加わったので、食卓は更ににぎわったし、楽しかった。
 時には日曜学校で時々生徒に話をしてくれたが、聞きとりにくい口調で話すので、生徒たちはあまり喜ばない様子だった。しかし晩になると路傍伝道に出かけた。これはすばらしかった。私が太鼓を叩き、私の妹が賛美歌をうたって、町をねり歩くのである。花田の遊郭に通う人々をつかまえて、神に帰れと絶叫する君の姿は雄々しいものであった。19歳の青年と15歳の少年と10歳に少女とが、伝道しつつ町をねり歩くのは壮観であったにちがいない。近頃一寸見受けられない図で、懐かしい限りである。
 ある夏の日のこと、君の手に蚊が一疋とまった。叩くかと思ったら口先でフーッと吹いて逃がしてやった。「なぜ蚊を叩かないのか」と聞いたら「可哀想じゃないか」と答えた。私はこの一言を聞いてこの青年は将来聖者になるとにらんだ。
 君は私の家に寄食するようになってから、私の父の誠実な、そして奇行に富んだ生活振りにいたく感動したらしい。後に彼はこう書いている。
「私は19歳の時に長尾巻から宗教と貧乏を享楽する生活を学んだ。私は長尾巻の如き伝道者を日本に持ったことは実に幸であると思う。彼をフランスの神秘的人生芸術家ローレン兄弟に較べて考えることは決して間違っているとは思わない。恐らく世人は今後何十年経って長尾巻の名を忘れぬであろう。彼は全く歓喜に浸っていた。彼の生活は直ちに神の生活であった。ここに私は彼に於いて最高の芸術を見た。私は長尾巻によって創作された生命の芸術を人にも勧め、また自ら学びたいと常に思っている。イエスは大工にして神の子であった。これにあやかったのが長尾巻である。長尾巻の如きは世界においても珍しい人である。日本に於いては同時代の指導者に植村正久、本多庸一、内村鑑三等があったが、まったく歓喜に浸りきっていた聖徒は長尾巻だけであったと思う。私は彼によって本当のキリスト教を教えられた。彼のごとく心から福音を喜び、十字架を楽しんだ聖徒にして始めて、従容として越ケ谷の家に勝利を叫びつつ昇天することが出来たのである」
 私たちは肉親であるため父の良さを知ることができなかったが、豊彦君は父の良さを発見してくれた。「偉人は偉人を知る」とでもいうべきか。
 君が胸を患っていたので私の一番年上の甲姉が母にも増して君の世話をし、君を愛しもした。君も姉を慕っていたように思う。君の胸が余りかんばしくないので、蒲郡、須磨明石と転地療養をしたが、療養先から絶えず姉に便りを寄こした。どういうわけか、姉に対してはあき子という変名をつかっていた。それらの便りはすべて風光明媚な須磨明石あたりの絵はがきに毛筆でしたためたものであったが、その字は中々うまいものであった。近頃の字よりずっとうまい。文面の中には時々詩が入っていたが、その詩もまた中々によいものであった。
「ああ海に浮かぶ夢に浮かぶか、真帆をあげて危き人の世を渡る、されど清し神の影、明石の浦和」
というのを今もおぼえている。
 君の胸も大分良くなったので、君は神戸神学校に戻ったが、夏になると学友を連れて夏期伝道に来てくれた。学友の中には、原照とか平竹辰とか云う学生がいた。原照は非常に英語がうまかったので、君と二人で夏の夜空に屋上に上って、英語演説の練習をしていたが、二人の声はかなり大きいので近所にこだましていた。
 ある年の夏、君は神戸神学校の同級生だという、ぶっきらぼうな愛想のない大男を一人連れてやってきた。私の姉にいった。「僕は肺病だから結婚は遠慮する。僕の代わりにこの男を推薦する。この男は将来基督教界の大物になる、富田満というのだ」
 富田は姉とはたちまち意気投合してゴールインした。時に君は23歳。中々すいなことをやったものだ。君は中々の情熱家であったが、感情だけでは走らなかった。だから姉との関係をあやまらなかった。

 泥棒のために涙する

 姉と富田の婚約ができた日のことである。離座敷に賀川と富田とが泊まった。夜中に泥棒が入った。目を覚ました富田が大声で一喝すると、泥棒は一物も得ず土塀を越えて逃げ去った。夜が明けて庭に出てみると、土塀の釘に泥棒の肉片が付着していた。賀川はこれを見て、「泥棒とはいえ可哀想なことをした」と言って、涙を流した。
 君がたしか26歳の時である「預言者エレミヤ」という子供向きの本を出版した。さきに「友情」というのを出版したが。これが二回目の出版である。私に表紙と挿画を頼むというので描いたが、これが私が挿画を描いた最初である。その下図は殆んど君が描いてくれたのであるが、その画のうまいのに驚いた。序文は自分で一番尊敬している人物に書いてもらおうといって、山室軍平先生にたのんだ。先生は心よく引受けてくれた。それでこの小本は賀川豊彦著、長尾己画、山室軍平序文ということで世に出た。
 君はその後、私の作品頒布会の発起人になってくれた。発起人は沖野岩三郎、山本顧弥太それに君と3人だけであった。君は私の紹介文を書いてくれたが、その紹介文の中でこういって私をもち上げてくれた。
「長尾君は私の幼いときからの友達で豊橋の家で君を始めて知ったが、その時、君は画の上手な、気のやさしい青年であった。その後東京に出て画を専門に勉強するようになって君の腕はめきめき上がった。第10回の文選に入選した『くれゆく漁家』や、第1回の帝展に入選した『満洲の驢馬』などは東洋情緒が新しい形式のうちに満たされた実に美しいものであった。これらの作品は長尾君の心境を心ゆくまでみせてくれたものであって、君のよく用いる鳶色がかった混色に、私は日本の誰の画にも発見し得ない君独特の霊域を発見している。長尾君の画には神秘的な空気があり、見ていれば見ている程親しみを感じさせられる。君の画は必ず日本を祝福するであろう」
 これでみると君は私に大いに期待していたようであるが、君の期待に反し、私は今や無名の一貧乏画家として生涯を終わろうとしている。ここでは偉人は偉人をするという言葉があてはまらないようである。(洋画家 長尾己 67歳=『百三人の賀川伝』から転載)

 長尾巻