近江の兄弟ヴォーリズ(1) 賀川豊彦

 思い出しても尽きないのは、安土城址の回想である。
 私はあれほど美しい壮大な廃墟を知らない。比叡山から見た琵琶湖も美しいが、安土城から見た琵琶湖もまたまたなんとも言えない哀調があって美しい。
 森が雑木でできているのが、いぢらしいばかりでない、湖水との配合、平原との調和、あの孤立した山が、登ってみると湖水の方へは、ずっと突き出した山脈となっていて、それが、なんともいえないほど美しい曲線を描いているのである。
 北には賤ケ岳の方面から、若狭方面、近くは彦根の城山が見える。南は八幡の山々、大津、逢坂山などが一眸の中にある。
 私は安土城と云うのは余程小さな城かと思っていたら、それは実に大きなもので、大阪城にも勝る壮大なものであるので、全く驚いてしまった。私は各地の城下を廻って、大きな城跡を見たが、多分安土城ほど大きな城を私は見たことがないと思う。
 あの当代の織田信長が、ここに南蛮寺を建てて、ラインの勝景にも勝るこの琵琶湖に日本統一の夢を見たと云えば、私は決して不思議に思わない。
「此処に南蛮寺があったのです」
と案内して下すった方に教えられたが、それは田圃の真中であった。
 城山の頂上の信長の墓に詣でて、阿弥陀山上の豊公の墓と思い較べると、なんだか信長の墓があまりにも淋し過ぎるように思われる。之でも昔は栄華を見たこともあったのかなど、そぞろに人生の浮沈を思うのであった。
 私が『鮮血遺書』という切支丹信徒の日本最初の犠牲者の書物を読んで、そこに阿波の人で三木パウロと云う人が出ているのに気が付いたと同時に、彼が安土の神学校に関係があったように記憶している。
 明治39年頃であったか、日本開国記念展覧会が東京上野博物館で開かれたときに、私は、安土神学校のスケッチを見たことがある、たしかそれは木造の四階造りであったと記憶する。それはほんとに不完全なもので、今日ヴォーリズさんの建てて居られる、八幡の青年会の寄宿舎位のものであったろうと私は記憶する。
 しかし兎に角、その安土新学校から、日本の歴史に抜き難い偉大な精神運動が起こったと思うて、私は安土の土地になんとも云えない憧憬を感ぜさるをえないのである。
 私は安土の田圃の中で祈った。
「もし神様許し給わば、私はこの記念すべき土地に日本の精神運動に寄与すべき修道場を再び建てたい」と。
 兎に角、安土は私にとって、インスピレーションの深い土地である。日本のキリスト教があそこから始まったとも云えるのである。あの美しい湖畔から50万の生霊が焚(や)き殺されてもまだ亡びなかった、強い強いキリスト教が生まれたのである。
 徳富蘇峰先生が嘗て、私にこう云われたことがある。
「日本に於ける切支丹教徒の迫害の歴史は、世界に誇り得る最も偉大な道徳の歴史であって、日本国民の精華は実に切支丹精神に依って発揮されて居る。元亀天正の時代の武士道などと云うものは、実に劣等なものであったが、ただ一つ切支丹の間に真の国民道徳を発揚してくれたのである」と。
 あの寂しい安土城址を下って、近江平原を迂り曲ねった道を作った信長街道を一理余自転車に乗って「ヴォーリズ・吉田」が今住んでいる八幡まで帰ってくる途中、私はただひたたび安土城下の切支丹精神を取り返したいのもだと考えたのであった。(吉田悦蔵著『近江の兄弟ヴォーリズ等』(大正12年5月、警醒社)の「跋」から転載)

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