二村一夫著作集から「大阪労働学校の人びと」

二村一夫著作集

 大阪労働学校創立の中心となったのは賀川豊彦です。その他にも大阪毎日の記者の村島帰之、総同盟大阪連合会の西尾末広も熱心でした。しかし、学校の創立基金として当時の金で5000円、今なら2500万円にもあたる大金を出し、初代の校長となり、創設期の大阪労働学校の性格を決めたのは賀川でした。ご承知のように彼はキリスト教の宣教師です。21蔵の時、賀川は神戸神学絞に在学中でしたが、神戸のスラム街に住み込み、貧しい人々と起居をともにしながら伝道にあたりました。彼がこうした行動に出た背景には、結核のため自分の命はあと2年しかないと思い、いったんは自殺まで考えますが、どうせなら残された人生を意義あるものにしようと考えたためだといいます。ところが不思議にもスラムでの生活の中で、当時はまだ不治の病と考えられていた結核を克服してしまいます。
 後年、彼はその波瀾に富んだ半生を『死線を越えて』という自伝小説にまとめ、その本はなんと105万部も売れたのです。この大ベストセラーで、21万円もの印税を得た賀川は、その一部を大阪労働学校の基金にしたのです。21万円といってもピント来ないでしょうが、おそらく今なら10億円を超える金額です。
 ところで、まだそうした金を手にする前、5年間をスラム伝道に従事した賀川は、1914年(大正3年アメリカに留学します。主として、ニューヨークにあるプリンストン大学で生物学、心理学、神学などを勉強しますが、それ以上に賀川がアメリカで学んだのは、というより体験したのは労働組合運動の重要性でした。彼はニューヨークでスト中の洋服仕立工6万人の大デモを目のあたりにしてショックを受け、また心にひらめくものがあったのです。神戸のスラムでの5年間、彼は貧しい人々を救おうと必死に努力しましたが、その成果は微々たるものでした。それなのに、スラムに流れ込んでくる人々は後をたちませんでした。その多くは労働者だった人々でした。そうした人びとは低賃金で、病気になったり、あるいは失業すると、たちまちその日の暮しに困り、スラムに落ちこむ結果となったのでした。貧しさ故の酒や博打も事態を悪化させる一因でした。
 労働者の生活を安定させること、それがスラム問題解決の近道だ。それには労働組合の力で賃金を引き上げるようにすればよい。こう考えて賀川は日本に帰ってきました。1917年(大正6年)のことです。たまたま当時は日本の労働運動が本格的な発展を始めた時でした。第一次大戦のブームで工場は拡張を続け、労働者は急増していました。物価の値上りは著しく、各地で労働争議が頻発していました。こうした事態を背景に、1912年に東京で創立された友愛会は労働者の親睦団体から労働組合へと脱皮しつつあり、全国に組織を伸ばしていました。なかでも阪神地方はその拠点でした。
 帰国した賀川は、すぐに鈴木文治がはじめた友愛会に参加し、その労働組合化を主張し、たちまち関西地方におけるトップリーダーの一人になります。彼は単なる賃上げ要求だけでなく、労働組合の力で新しい社会──生産者議会、消費者議会、政府の三位一体の社会──の実現を主張したのです。1921 年、大正10年の春から夏にかけ、関西の労働組合は経営者に一大決戦を挑みます。その指導者となったのは他ならぬ賀川でした。各組合は相ついで争議をおこし、経営者が労働組合の存在を認め、組合との交歩によって賃金を決めるよう要求しました。そのピークが神戸の三菱造船所、川崎造船所がいっしょになって単一争議団を作って運動した争議でした。この戦前最大の争議は、警察や軍の弾圧にくわえ、造船不況の影響もあって、最終的には組合側の敗北に終りました。

 大阪労働学校の創立が計画されたのは、この争議の敗北直後の1921年11月のことでした。漸進主義、合法主義、非暴力主義を主張した賀川は、川崎・三菱争議の敗北で影響力を失い、労働運動の第一線から退き、労働学校や農民組合運動に重点を移したのです。彼は「愛にもとづく人格運動」としての労働運動を主張し、それには労働者教育が重要だと考えたものと思われます。
 一方、当時の労働者、とくに組合活動に加わっていた労働者は、「勉強したい」「教育を受けたい」という強い要求を持っていました。第一次大戦後、大学・高校の新設など高等教育は急速に拡大されていましたが、それでも高校・大学まで進学できたのは小学校を卒業した人の2%に過ぎませんでした。当然のことながら大学に行けたのは金持ちの子弟が主で、労働者や農民の子はいかに才能があっても尋常小学校(6年)か高等小学校(8年)を終えれば働きに出なければなりませんでした。日本では義務教育の段階では、イギリスのパブリックスクールの様な特権階級の子弟だけの学校は多くなく、ほとんどの小学校では金持ちの子も貧乏人の子も机を並べて勉強しました。ですから、日本中いたる所で、大勢の子供が、自分より出来の悪い者が上級学校に行けるのに、目分は家が貧しいために進学を断念しなければならないという辛い体験をしました。こうした経験は、かなりの人に「世の中はどこか間違っている」と強く感じさせることになりました。労働運動に参加した青年の多くは、このような体験の持ち主でした。ですから、大阪労働学校がその創立宣言で、「我等は有産階級の独占から教育を解放すべきことを要求する」、「我等は学ぶべき権利を持っている、我等は有産階級に奪われた大学を奪還しなければならない」と呼びかけた時、その一語一語は、いま私たちが考える以上に、当時の人びとには、その胸に迫る強い響きを持っていたのです。この宣言はまた、日本の労働者階級が、教育権を「学ぶべき権利」を持つことをはじめて打ち出したものとして注目されています。

 ところで、賀川は学校が発足すると校長に就任し、生物学と心理学の講義をします。その頃彼は労働者教育は自分の「一生の仕事」とまで書いています。しかし、実際には、労働学校と同じ頃に始めた日本農民組合やイエスの友会などの活動でとびまわっていて、まもなく労働学校に顔を出さなくなります。もともと賀川は先見性にすぐれ、非凡な着想を次から次へと具体化することに喜びをいだく人だったようです。彼が生涯の間に始めた事業はたいへんな数にのぼります。大阪労働学校や日本農民組合だけでなく「日本一のマンモス生協」と呼ばれる神戸・灘生協の前身の神戸購売組合、中野総合病院や佐久総合病院の母体となった医療協同組合、リズム時計の前身・農村時計製造会社、キリスト新聞社など、いずれも彼のアイディアが具体化したものです。しかし、彼は自分が着想し、人を説き、金を出しはしましたが、事業を育て上げることにはあまり熱心ではありませんでした。よく言えば、自分が着想し、出資した事業でも私することをせず、人に任せました。創業の人ではあったが、守成の人ではなかったと言えましょう。

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