盛況を極めた豊島農民福音学校の話

 鳥飼慶陽先生の連載「吉田源治郎・幸の世界」(94)から豊島農民福音学校についての引用である。
http://www.kagawa100.com/kagawagalaxy/yoshida094.pdf

 第5回豊島農民福音学校(藤崎盛一校長)
 農村はこのままでよいか

   人口の半数をしめる農村を忘れて、日本の再建はできない。

 農民福音学校は全く地味な道を歩いている。その存在を忘れ、その働きをさえ忘れている人がある位だ。しかし我等は決して後退しない一歩一歩を確実に踏んで進んで来た。今日の決意も、明日の計画も、「土を愛し、隣人を愛し、神を愛して日本の農村再建をする」この一事だ。(募集要項から)

 盛況を極めた豊島農民福音学校
  正規生60有余名が20日間進行の灯を燃やして

 藤崎盛一氏の肥料小屋の二間に誕生したこの学校は、5回目の本春は東北から吸収までの青年を60有余名集めて盛況を極めた。生徒の中には二宮尊徳翁と並び称せられる秋田県石川理紀之助翁の曽孫もおり、岡山県児島湾の旱害になやむ水田地帯に苦闘するもの、かつて北海道から西宮の一麦寮まで徒歩できた足の渡辺の令息など変わったものもあった。生徒のすべては藤崎氏の講演をきいて、その人格を慕うてきたものであるので、しんけんに20日間の学業がつづけられた。終了の頃河野進先生の手によって14名のものが洗礼をうけて、新しい生涯に入ったが、その洗礼式はまれに見る感激的なものであり、誰もが農村債権のために献身する決意を眉宇にあらわしていた。
 各地に農民福音学校の計画があるのはうれしいことであるが、その準備が無謀なために、初期の成果をあげることもできず、生徒の吸収も意の如くならずにいるようである。生活と技術をさすれ、奉仕と犠牲をいとうならば、農民福音学校は成功しない。各地の農民福音学校の計画者は、賀川先生、杉山先生、藤崎先生などの苦闘の跡を学ぶべきであろう。
 尚、藤崎氏は終戦後着々と立体農業の実験場としての整備に尽力しておわれ、更に教育施設の完成のために苦闘しておられる。それを美布子夫人、同労働者広井竹巳夫妻、義妹藤崎克子、鈴木那典君、その他の塾生の協力は涙ぐましいものがある。これらの協力によって、藤崎氏は毎年7ヶ月以上の全国行脚をつづけることが出きている。(「火の柱」昭和26年2月号より)

 昭和26年1月12日から31日まで20日間、瀬戸内海の豊島に全国から60人の農業青年が集まり、賀川豊彦杉山元治郎、吉田源治郎ら約20人の講師陣が立体農業から協同組合論、キリスト教を論じた。
 これだけの人々を3週間にもわたって豊島に集めるということ自体、現在でも考えられない。町おこしが盛んな時代だが、現代人は「せんとくん」といったキャラクターや、「B級グルメ」といった貧しい発想しかない。賀川は学ぶことで「町おこし」をしようと考えたわけではないが、結果的に町おこしにも貢献していたのではないかと思わされるのだ。(伴 武澄)