時計史に見る賀川豊彦

 現在の農協の原形をつくったのは賀川豊彦だった。1922年、福島県キリスト教の伝道の傍ら農業指導をしていた杉山元治郎と日本農民組合を大阪で結成した。小作料の引き下げなど農民の立場から団結して地主に対抗。250人で始まった運動は3年後には7万人以上の組織へと成長した。

 賀川は農民の社会的自覚を促す目的で農民福音学校を経営した。デンマークのフォルケ・ホイスコーレに倣ったもので、農閑期に農村青年を集めて教育した。賀川が主張したのは「立体農業」だった。地球上の1割5分しかない平地にしがみついていたらやがて食料が不足する。米麦穀物は中心にするが、残り8割5分を立体的、つまり山に依存すべきだと主張した。つまり、シイタケを育て、クリやクルミを植え、ヤギやヒツジを飼って乳をとる。農閑期の田んぼではコイなど淡水魚を飼えば農村経済は相当に充実するという。いまでも通用するかもしれない“理論”だった。

 それでも農村の生活は不十分だと考えた。軽工業を農村部に誘致して現金収入の充実を図るべきだと考えていた。

 その実践として戦後間もなく生まれたのが農村時計製作所である。スイスの時計産業が賀川の目標だった。東洋のスイスを夢みて、「農村に精密工業を! 時計工業を!」が合言葉となった。賀川の夢に手を差し伸べたのが全国農業会(現在の農協中央会、全購連、全販連、共済連)だった。

 昭和21年、埼玉県葛飾郡南桜井村(当時)にあった旧陸軍の信管工場跡地を占領軍から譲り受け、時計工場と技術者養成期間「農村時計技術講習所」を設立した。資本金は350万円。全農が8割、社長が1割、大倉系の中央工業も1割を出資した。会長には、全農会長、柳川宗左衛門、賀川は相談役になった。講習所長は服部の技術者、古川源一郎。

 19万坪の工場敷地には2万坪の工場建屋と2000台の工作機械がすでにあった。同年3月28日、従業員1500人で月産3万個の目覚まし時計製造を目標にスタートした。約半年後の8月に第1号の3・5インチの目覚まし10個が完成した。みんな抱き合って喜んだが、売れなかった。バリカン、電気開閉器にも手を出したが満足できるものはできなかった。1年足らずで3000万円の損失が出た。

 そこへ大口出資者の全農に対する解散命令が出て、農村時計は満身創痍。経営は全農の農村工業部長に就任したばかりの谷碧(たに・きよし=後のリズム時計社長)に任され、なんとか生き残った。

 日本時計学会の雑誌『時計』昭和24年7月号表紙にはセイコーシチズンなどを押しのけて農村時計の目覚まし時計「Rhythm」が載っている。会社発足して2年の農村時計が存在感を示している。以下のような説明が書かれていた。

 表紙写真はNOSON 3 1/2吋目覚時計Rhythmを示す。Rhythmは日本業界最高級品として内地は勿論、世界各地---特に印度パキスタンシンガポール、メキシコ、バンコック等から註文があり毎月15,000個の輸出を目標に生産を進めている。株式会社農村時計製作所は終戦後興った時計工場としては最も整備された一貫作業工場であり・・・尤もこれは戦時中服部精工舎南櫻井工場として創られたものを技術者設備共其の儘同社が引継いだものであり・・・今後の進展を注目されている。

 苦難の連続だった農村時計は設立4年半で遂に行き詰まり、昭和25年11月3日に発足した新会社「リズム時計工業株式会社」に継承された。 シチズンが大株主となった。

 日本の時計史に見え隠れするのが社会運動家賀川豊彦なのである。賀川の時計づくりには後日談もある。