平成に蘇った『死線を越えて』 PHPが復刊

 社会運動家賀川豊彦の大正期のベストセラー『死線を越えて』がPHP研究所から復刻された。賀川が神戸のスラムで献身活動を始めたのが100年前。世界的な経済危機のさなか、貧困が再び社会問題化する世相にもう一度読みたい一冊だ。
 同書の初版が改造社から発刊されたのは1920年。賀川は米プリンストン大学留学から帰国して3年、大阪市の「購買組合共益社」と神戸市の「神戸購買組合」を相次いで設立、播磨造船の労働組合長に推され、社会運動家としても注目され始めていた時期だ。
 同書の元となる「鳩の真似」を書き始めたのは新川のスラムに入る前。愛知県蒲生郡で肺結核の療養中だった。まだ20歳になっていなかった。明日の命もないことを宣告され、小説風に自らの生い立ちをつづっていた。
 山本実彦が創業した改造社は、後に文学全集の出版や有名人の講演とタイアップした出版など出版界で数々のアイデア商法を生み出したが、月刊総合雑誌「改造」の創刊号が世に出たばかりだった。
 言論界では無名の賀川の連載が「改造」で始まったのは10号目に当たる20年新春号である。「神戸におもしろいキリスト教の牧師がいる」と賀川を山本に紹介したのは大阪毎日新聞社の村島帰之記者だった。村島は大阪本社で地方版を編集していた時に知り合い、2人で労働組合友愛会関西同盟を発足させた。労働組合運動の同志でもあり、葺合新川での賀川の献身的な活動にほれ込んでいた。
 山本が賀川に会ってみると実におもしろい。第1次大戦後の論壇は「大正デモクラシー」から「社会主義」へと急傾斜していた。世相は悪徳商人を打ち壊す「米騒動」が全国を駆け巡っていた。鳴門の船問屋が神戸の愛人に生ませた子がキリスト教に目覚め、徒手空拳で貧民救済に乗り出す。そんな型破りの物語に時代性を感じたのだろうか、賀川に自伝風小説を書かせることにした。
 しかし、原稿の評価はさんざんだった。文章はへただし、物語も通俗だとしてほとんど「ボツ」になりかけた。一人山本だけは違った。「これはおもしろいかもしれない」と多くの反対論を押し切って掲載にゴーサインを出した。
 評判は予想通りだった。「改造は素人に書かせている」などと酷評された。山本は読者層が雑誌「改造」とは違うと判断し、4回で連載を打ち切り単行本での出版に転換した。
 改造社にとって最初の単行本は予想外の売れ行きとなった。20年10月に世に出た同書は年内に10万部を売り、翌年は100万部に乗せた。賀川は小説家志望ではない。だからお世辞にも文章がうまいとはいえなかった。神の示した道を地道に忠実に生きたにすぎない。しかし、そんなうそのない生き方が国民的共感を生んだのだ。
 100万部を超える同書の売り上げは、創立間もない改造社の経営に多大な貢献をした。賀川にとっても、ベストセラー作家としての知名度と現在の価値に換算して10億円を超えたとされる印税はその後の賀川の社会活動を大きく支えた。
 『死線を越えて』なかりせば、改造社のその後もなければ、賀川の労働運動や生協運動も違った方向に進んでいたかもしれない。(共同通信記者、伴武澄)