原子爆弾の話 賀川豊彦
おそろしい原爆の威力
世界連邦論者のノーマン・カズンズがいったように、1945年8月6日、原子爆弾を包んだパラシュートが、広島の上空にただよい降りた時から、人類の歴史は新しい段階にはいりました。「原子時代」とでも申すのでしょう。戦争の方法に革命が来たなどという、なまやさしいことではありません。場合によると、人類は自分の手でほろびてしまう危険に追いこまれたからです。
日本は、あの悪夢のようだった太平洋戦争の長い期間中、60余の都市におよそ10万トンの爆弾の洗礼をうけ、そのため200万戸以上の家がこわされ、900万の人が家を失って路頭にさまよいました。ところが、広島や長崎に投下された原子爆弾は一発で2万トンの高爆薬に相当する威力をもっていたといいますから、もし5発の原子爆弾があれば、それと同じ損害を与えることができた勘定になります。たった5発ですよ。
その上、原子爆弾はその後の研究で広島の3倍、5倍の威力を加えるようになったといいますし、水素爆弾のような、原子爆弾に10数倍もする猛威力のものもできつつあるということですから、これから先、こうした大量殺人と大規模破壊を敢えてする原子爆弾をもって、戦争をはじめることとなったら、一体世界はどうなるでしょう。戦争がすんで、やれやれと思ってあたりを見まわしたら、地上に一人も人間が居なくなっていた、というようなことにならむとは、誰も保証できません。
もちろん、原子爆弾の被害を少なくする工夫がないことはありません。計画的な疎開を行って、人口の密度をあらくすることは第一に必要でしょう。また放射能の威力も地下深くは及ばないので、防空壕に退避し、地下室や洞穴を作ってもぐらの生活をすることも望ましいのです。広島でもしっかりした防空壕に退避していた人は助かり、長崎での地形上、原爆の閃光のおよばなかった山かげの人は助かってといいますから、右に記した算術の計算通りの被害はないかもしれません。しかし、現在の大都市の人口密度や建築様式から見ると、広島や長崎以上の惨害が起こらぬとは決して言い切れません。
広島・長崎の被害状況
アメリカの原子力委員会ラップの「我等は隠るべきか」(南條書店)によると、広島では爆弾が落とされた地点−−爆心−−から400フィートにいた人はすべて致死量の放射能をうけて即死し、半マイル離れて居た人も多量の放射能をうけて、その時は外見上何らの異常がなかったのに、数時間後には元気がなくなって死んだと記しています。つまり閃光と同時に、目に見えない放射能がその光に直面した人の体内に吸収されてしまったので、たとえすぐあとから避難してももう遅いのです。
こうして致死量以上の(時には致死量の数百倍もの)放射能をうけ、また人間を黒焼きにする強い熱線を浴び、なおそれから起こった高圧の爆風や乱れとぶビルヂングの破片やひきつづき起こる火災などによって、広島、長崎の中心を灰燼にし、広島で20万、長崎で数万の尊い人命を奪い、多数の負傷者を出したのでした。
幸いにして生き残った者も、一度、放射能をうけた者は血液や造血器官に障害が起きて普通7000ほどあるはずの白血球が1000以下に減って、重傷者は現代の医術では施すすべがないということです。このほかガンができたり、異常児が生まれたり、いろいろと将来にも多くの問題を残しています。
熱線による火傷をうけた者は無数で、爆心から2マイル半離れていても、露出した皮膚は火傷を受けました。一体に濃い色よりも薄い色の報が、よく熱戦を反射して火傷を少なくしたといいます。
ニューヨークがやられたら
どっちかといえば、広島や長崎は中都市だったので、割合被害は少なくすんだともいえましょう、もしこれが東京とか、ニューヨークとかの大厦高楼が立ちならび、人口の密集する大都市だったとしたら、どうでしょう。
アメリカと他の原子爆弾をもつ国との間に戦争が起きて、仮にニューヨークが原爆の洗礼をうけたとしたら、一体どうなるか。ラップ氏は、敵の原子爆弾がニューヨークの繁華街マンハッタンの上空で爆発したと仮定して、その被害状況を推測していますが、それによると、熱線や火災の被害は高層ビルのため少ないが、おそろしいのは放射線、ガンマー線で、仮想爆発点から2000フィート離れた地上800フィート、102階の世界一の高層建築エンパイヤーステートビルの20インチ程度のコンクリートの壁は、ふっとび、窓は木っ端みじんとなって、放射線は「ベッグ・ユア・パードン」とも何ともいわず閃入して、そこに住む人間に致死量の15倍のガンマー線を浴びせて、アッともいわさず天国へつれて行ってしまうことでしょう。
このほか、まるで墓場か、たけのこの藪のように、高層ビルの林立するマンハッタン地区はたちまち廃墟と化するでしょう。ラップ氏の推定では20万人の市民が即死し、25万人が傷つくだろうといっています。
原爆機を迎え撃つには
あなたは、おっしゃるでしょう。ニューヨークまで侵入するようなことはないだろう。レーダーだ何だといって、いろいろ探知する方法もあるだろうから−−と。ところが、そうではないのです。レーダーで探知できて、迎撃に出ても何百機となくおしよせる敵の爆撃機の中、どれが原爆をもっているか、見分けることは難しく、従って一機一機ことごとく撃墜しないかぎり安心はできません。
ことに、戦略爆撃機は1万何千メートルの成層圏を、7、800キロの高速度でとんで来るのですから、快速をもって誇るジェット戦闘機でも、これをつかまえることはなかなかです。また空気の希薄な成層圏では、敏活な戦闘も困難です。
そこで、戦闘機には、空中魚雷ともいえる誘導弾を使うことが考えられ、その上、誘導弾から超音波を発射してこれが目標の敵機にぶつかって反射してくるのを感じ、その方へ自動的に舵をとるという手品のような方法も考えられているということです。しかし、これでも敵の全機をことごとく撃墜して、原爆を抱えた敵機を侵入させぬということはなかなか困難ではないでしょうか。
結局、先に敵陣に原爆をたたきこんだ方が勝ちというころになりましょう。ニューヨークが灰燼に帰してから、敵の首都へ原爆を落とすというのでは遅いのです。こうなるといつ原爆が落とされるかわからないので、市民はおちおちと安眠していることもできません。全く、薄氷をふむ思いで暮らさなければならなくなりましょう。ラップ氏は「われわれの都市の或る者は、よく肥えて卵をかかえて、破壊をまっている家鴨のようなものだ」といって、その不安をたとえているのも、なるほどだとうなずけます。
原爆の脅威は迫っている
しかもこの原子爆弾の怖しい脅威は、お伽ばなしや未来の夢物語ではなく、今や、われわれの眼前に迫っているのです。原爆の権威オッペンハイマー博士が米国の上院委員会で述べたところによると、「全力をあげれば、アメリカは今後2年間に1000箇の原爆がつくれる」とのことです。
それから2、3年経っている今日、アメリカは1000箇以上の原爆を貯えているのかもしれません。またソ連でも1950年12月31日までに22箇の原爆を用意し、さらに毎月2箇ずつふやして行けるということです。
こうして米ソその他がそれぞれ原爆を用意している以上、いつ何処で原爆が爆発し、瞬時にして都市を灰とし、数万、数十万の人名を奪い去るかわからないのです。当事国だけではありません。第三国が傍杖を食わぬとは誰が保証するでしょう。
のみならず、原爆は日を経るに従って、その威力を増す発明がつづけられ、一発の爆弾で、一挙に3、400マイル四方の地域を後輩に帰せしめることもできようといわれています。また遠方へ運ぶのが困難なところから、誘導弾を利用し、爆弾がひとりでに太洋を渡って目標の都市に侵入し、爆破の目的を果たす方法も研究されているといいます。
ボタン一つ押せば
誘導弾というのは、第一次大戦にドイツがロンドン空襲に使ったV1号が最初のもので、今日、アメリカその他で準備されているものは、ロケットを動力とし、毎時数千キロの速度で、自力で目標に向かって驀進するもので、その誘導方法は、地上に設備されたレーダーが、誘導弾の飛んでいく進路を追いかけて、無線で操縦していくのです。最近は、その誘導弾自身に、小型のレーダーを積みこのレーダーで目標を探知しながら、自動的に舵をとって進むものも、試験されているといいます。
もし、こういう原子爆弾が完成したら、押しボタン一つ押しさえしたら、原子爆弾は、まっしぐらに太平洋を渡り大西洋を越えて、敵陣深く飛びこんで行って、大量殺りくと大規模破壊を完全に遂行することになるかもしれません。かくして原子爆弾戦が一カ月も続いたら、世界は崩壊し、人類は滅亡するでしょう。
原爆は世界政府の手に
広島の爆発のあった6日目に、シカゴ大学総長ハッチンス博士(有名な世界憲法シカゴ案の起草委員長)はラジオ放送でこう叫びました。「正直いってわたしは世界国家に対し、今まで、あまり多くの希望をもっていなかった。しかし、先週の月曜日、つまり8月6日、広島が原子爆弾に見舞われ世界始まって以来の惨事が起こった日以降、どうしても世界国家を作らねばならぬということを確信するようになった。一日も早く世界国家を作って、これに原子力を独占させる以外に、戦争を防止し、世界を救う道はないからである」と。
そうです。もし人類の滅亡、世界の破滅を望まぬなら、われわれはできるだけ早く、世界連邦を組織し、紛争を平和的に処理し、戦争という暴力行為を避け、原爆その他の強力兵器を、その管理の下に置く天元を、その世界政府に与えなければならないのです。ぐずぐずして居れば、今にも原爆が閃光を放射しないとは限らないのです。外国ではありません、日本にも。
そして外国人の上にではありません。わなたや、あなたの親しい人たちの上に−−。(『国際国家』1951年2月号「少年平和読本」から転載)