世界平和に向かって人々はどう努力したか(1) 賀川豊彦
平和へのあこがれ
世界の歴史は戦争の歴史だということを前に述べました。戦争は人類の歴史と共にあったのです。しかし人類は好んで戦争をしたかといえば、決してそうではありません。大昔でも、心ある者は、戦争よりも平和を欲していました。少なくとも平和の状態を望んでいました。それでも平和思想というものは、ずい分昔から存在していたのです。しかし古い頃の平和思想というものは、朝永三十郎氏が「カントの平和論」で記しているように「空想せられたる絶対的素純、絶対的平和の生活を追求するというより、むしろ賛嘆または、あこがれの対象とするところの懐古的平和観」だったのです。旧約聖書の創世記にはそうした平和観が既に散見しています。
その後、時代の進むと共に、平和論も、だんだん進歩し、世界を無戦争の状態、若しくはこれに近い状態に置くようにしようと考えて、単なるあこがれではなしに、或る程度理論的な形をとった平和観が生まれるようになりました。しかし、一足飛びに直ぐ近代の平和思想が生まれたものと思ってはなりません。
帝国主義的平和論
こうした平和論の中でもっとも早く起こったのは帝国主義的平和論でした。これは平和をもたらす手段として、依然、武力や政治力を用い、これにより他国を平定統一しようとするものだったのです。(いいや昔といわず今日も、共産主義国家が世界を共産主義一色に塗りかえようとして、世界の平定統一を考え、これを世界平和への過程だとしているのも、帝国主義的平和論と相通じる点があるといえましょう。つまり、両方とも力づくで世界を平定し、一種の世界帝国を建設し、これによって国際戦争の終息を期そうとするものなのです)こうした考え方をする平和論の最初のものは、アレキサンダー大王の世界制覇や、ローマ帝国の世界統一を背景として生まれたアリストテレスおよびストア学派の平和論がそれです。
アリストテレスの平和論
アリストテレス(紀元前384−322)は有名な古代ギリシャの哲学者ですが、彼はスパルタ的な尚武主義に反対して、平和な文芸の振興をもって国家最高の使命と考え、そうした平和な状態を招来するためには、どうしても文化の遅れた北方や東方の野蛮な民族を制服する必要がある――としました。つまり、平和実現のために侵略戦争をするというのです。こうした平和論が真の平和といえぬことは、みなさんにも十分おわかりだと思います。
またストアの人々の平和論は、一切の人類は一つの神から出て平等であり、神の前に同胞であるという考えから出発し、人間同士の反目や戦争を非合法のものだとして平和論を打ち立てました。これはアリストテレスの平和論に比べると、劣等民族は征伐してよいというような人種的偏見のなくなっている点は純で合理的だといえますが、しかし、なお抽象的で、むしろあこがれの平和論をむしかえしているような嫌いさえあります。
神政的平和論
こうしているうちにギリシャ、ローマ時代はすぎ、ゲルマン諸民族の建国や西欧諸国の形成となり、近世諸民族の自覚と対立は、前のような、あこがれや武力では到底世界の恒久平和も期待できないことを知らしめました。そして平和を望む人々は、武力や政治力によらず、宗教的権威によって平和を招来しようと考えるようになりました。ルネッサンスの哲学者カムバネラの提唱した神政的平和論がこれです。
これは宗教的権威をもつローマ法皇を首長にいただき、地上諸国民を教会の支配下に置き、これによって国家間の紛争や戦争を防ごうというのです。しかし、この宗教的紐帯の上に立って政治的支配をする者はローマ法皇ではなく、当時勢力をもっていたスペインだったのですから、政治的制約の支配には変わりがないので、帝国主義的平和論と五十歩百歩というのが実情でした。その上、宗教改革が訪れ、宗教的権威も漸く衰え出したので、この神政的平和論も、ついにはモノになりませんでした。
法による世界平和
こうした武力や政治力の支配を背景とした平和論は、次々と唱えられましたが、みな間もなく立ち消えとなり、これに代わって、17世紀の初め頃から新たに登場したものは「法」によって戦争を緩和し、防止すようという国際法律学者の平和論でした。そしてこの学者の意見を取り入れて具体案を作ったのが、仏王アンリ四世でした。
17世紀の初め頃、アンリ四世は、ヨーロッパだけではありましたが、一種の国際連盟の構想を立てました。これが世界平和機構の最初のものといえましょう。
アンリ王の案は、凡てのヨーロッパのキリスト教諸国が連合して普遍的キリスト教共和国を組織し、さらに最高国際裁判所を設置して国際紛議を裁判しようというのでした。もっとも、アンリ王の案は机上のプランにとどまり、その実現は見ませんでしたが、今日の国際連合が300年前既にこの王のプランによって芽を出していたということは、注目されねばなりますまい。それのみならず、それから間もなく起こった30年戦争(1613−48年)が終わり、ウェストファリアで講和が締結さられる時、この考えが幾分取り入れられ、諸国の協同の最初の試みがなされたのでした。
ウィリアム・ベンとサン・ピエ−ル
それから少し置いて1693年、クェーカーの指導者ウィリアム・ペンによって一石が投ぜられました。彼は「欧州平和の展望」と題する一書を著し、国連思想と、クェーカーの平和主義とを結び付けて、平和は正義を通じて保たれると説き、個人がその国の政府の法治に服するように、政府はそれよりも高次な政府の法治に従うべきであるとして、国際連盟的な機構を欧州に組織せしめようとしたのでした。当時、英国はルイ14世の治下で、侵略戦争を行っている最中でしたので、ペンのこの議論は一大風雲を巻き起こしました。
しかし、ペンの平和論と共に、或いはそれ以上に有名な平和論――これも同じヨーロッパの平和論ですが――はサン・ピエールによって唱道されたヨーロッパ永久平和論です。彼はフランスのノルマンディーの貴族の子で、僧侶であると共に学者でした。ペンと同じようにルイ14世のやり方を見て大いに憤って、ユトレヒト会議(スペイン王位継承戦争の講和会議――1713年)の時、匿名で「恒久平和案」を発表したのが始まりで、その後、本名を現して三書を続刊しました。
ヨーロッパ連盟の組織へ
ピエールの説いたところは、ヨーロッパのキリスト教世界は元来「一つの世界」を形成しているわけなのであるから、ヨーロッパ諸国の間に「公法」を作り、お互いにこれを遵奉して行けば平和は保たれる筈であり、またそうして平和を保って行くべきである――としたもので、一大同盟を組織し、常設の会議を開き、調停及び仲裁により紛争や戦争を未然に防止しようというのでした。このピエールの平和草案は、大きなセンセーションをヨーロッパに巻き起こし、殊にジャン・ジャック・ルソーが、これを祖述して広く宣伝したので、一層有名となり、国際機構の問題は、もはやユートピアや。あこがれではなく、現実の問題として取り扱われるようになったのでした。そして、このピエールの平和論が、後に述べるカントの永久平和論を生む基礎となり、国際連盟はいよいよ胎動を始めることになるのです。(つづく=「世界国家」昭和27年1月号から転載)