空中征服 2.煙筒文明の最後

 賀川市長が、中央公会堂の就任演説の時に言い忘れたことは次のようなことであった。
「・・・諸君、今日のような非文明的な煙筒の都会に住んでいて、諸君は文明を味わっている積もりでおられるのであるか?
 今日かりに、生駒山が噴火して、大阪はまったく昔のポンペイ市のごとく地下に埋没したとしてみたまえ。そして3333年後に今日の大阪を発掘せねばならぬことになったと仮定したまえ、それは何という悲惨なことであろう。33世紀後の人間は、瀬戸内海の東北隅、元淀川の流域付近に、巨人の墓場のようなものがある。
『なんでもこの付近は、昔大工業の発展した大阪という都市があったんだそうな』
 とエスペラント語に似た響きで『改良日本人』が教えてくれても、その時の人々にはそれはまったく不可解のことであろう。
 33世紀の後には、煙筒などいうものは、どこの都会にも見当たらないし、石炭はすべて採り尽くして無いし、石油の油田も採り尽くしてしまって、動力という動力は、すべてアルコールと電力に変わっている時代であるから、煙筒という言葉さえ、字引に発見されないであろう。
 で、大阪市がかつて横たわっておった地方は『巨人の墓場』として知られ、世界漫遊客が必ず訪問知るところになっているだろう。
 オベリスクの記念塔に比較して非美術的であり、井戸側としては大きなものであるセメントや鉄鋼の煙筒は、墓標研究家もその起源をまったく知らないことを自白するに違いない」
 こんな、痛快な演説をしようと、賀川は思うたが、彼はそれをみな言い忘れた。
「残念だった! 残念だった!」と歯ぎしりしながら、中央公会堂を出たが、彼はいったん公会堂の戸口を出るや否や、もう煙の空にまったく絶望してしまった。
「天日為めに暗し」
というのはまったく、大阪の空のために作られた言葉だと思うと彼は市長の椅子を占めねばならぬことを、悲しく思うた。
 彼は、先任の市長が、煤煙問題をまったく捨てて顧みなかったことを不思議に思うほどであった。
 そうだろう! 彼らは警察官上りや、教員出身であるために、この空中征服の一大使命を課すにはあまりに臆病であったのだ。彼らは煤煙を征服するだけの科学的知識を持っておらないのであった。無理もないことであった。彼らは昼中に市役所の4階に電燈をつけねばならぬほどの暗い大阪市に満足して平気でいたのである。
 太陽の光線が、煤煙のために妨げられて、市庁舎の窓まで届かないものだから、池上市長と関助役は昼間も電気燈をつけて執務せねばならぬということは、33世紀後にはとても考えられたことではないが、事実はまったくそうであるから仕方がない。中央公会堂のすぐ裏に建つ市庁舎には、昼間に電燈があかあかと灯っているのである。
 彼・・・賀川市長はそれを見てまったく憤慨せざるを得なかった。かつて彼がニューヨークの市に遊んだ時に、彼は人口600万の都会に煙の上がるのを見なかった。
 サンフランシスコにおいても同様であった。ピッツブルグは世界における煙筒の都と呼ばれていたが、そこに煤煙征服の運動が起ってついにピッツブルグ市はその煤煙を駆逐することに成功した。
 わが大阪においても、もし市民がもう少し科学的に進歩し、資本主義的工場経営の不生産的なことを理解してくれるなら、煤煙文明の破壊運動が当然起るはずであるにかかわらず、それが出来ないというのは、実にけしからぬ話である。
「よし、俺はすなわち煤煙征服運動にとりかかる。まず市参事会員に会い、それから市会を召集して自分の意見を開陳することにする」
 賀川市長が、市庁舎に帰って、事務室の机の前に坐ったのは、午後の3時半過ぎであったが、室内はとても暗くて、事務がとれない。彼はまた前市長池上がしたごとく、電燈のスイッチをひねった。
 不満な心持ちで、市庁舎の窓から、大阪の西の空を見てみると、野田、春日出の方面において、住友伸銅所の太い3本の煙筒から、そして電燈会社の太い煙筒からもうもうと、雲のごとき煙の立ち登るのを見た。
 彼はそれをじっと見詰めていた。そして、この煙の下に幾十万人の労働階級が嘆きつつあるのだと思うと、涙ぐましくなった。
 彼はすぐに、取り付けてあるベルのボタンを押して、書記を呼んだ。