軍費の7分の1で中国4億の民が救われる

 通勤電車の中で今日は、北陸大学の小南浩一先生が2003年に書いた「戦間期賀川豊彦の平和構想」という論考を読んだ。何度読んでも内容を忘れてしまうが、小南先生の論文は逆に何度読んでも刺激を受ける。今回はその内容の一部を紹介しようと思う。
 この論考の副題は「新渡戸稲造との思想的連関を中心に」というもの。「戦間期」は第一次大戦を第二次大戦の間の時期をいう。この間に世界に向けて平和構想を発信した賀川と新渡戸について言及している。
 共に戦後、忘れ去られた理由について、二人ともあまりに多くの分野で活躍したため、「同じくキリスト者札幌農学校で動機であった内村鑑三のような、確固たる統一したイメージが形成されにくい。いわば日本人好みの『一筋の道を貫く』という『美学』にこの二人はあわない」と語っている。日本ではマルチ人間はその時代その時代にはもてはやされても時が立つと評価の座標軸が失われてしまうのかもしれない。
 賀川の平和論については次のように書いている。
戦間期前半の1920年代、賀川は徹底した軍備撤廃論を主張したが、同時に尾崎行雄の主宰する軍備縮小論とも連携した。ワシントン会議を目前にひかえた時期の講演で、被告席に座らされるような態度ではなく、むしろ日本が世界平和の主導権を発揮して、東京で開催するくらいの気概をもつべきだと賀川は主張した。膨大な軍事費を教育や平和のために使い、米国にもそうした日本の姿勢を強くアピールすべきだと彼は主張した。曰く『軍艦一艘を造る代わりに米国に国際的の大きなる(ママ)大学を建ててみろ。一年間の軍備費用を以て支那の中央に、黄河の流域を開削する方法を立て見よ(ママ)……一年の軍費の七分の一を利用するならば支那四億の民が救われる』『其方法を執らずして、サアベルで戦争をすれば宜いと思う近視眼的の文明を排斥せよ』(『軍備の撤廃せられるまで』1921年賀川豊彦全集第10巻)」