武内勝先生を語る 中村竹次郎 「雲の柱」昭和12年4月号から

「私は若い時、体を八つ裂きにして此の一身をキリストに捧げたいと思った。唯十字架の死を憧憬るるだけでは物足りないので」
 武内先生のかく語らるる言葉を聞いた時、私は慄然として先生の温容を今更の如く見守ったことだった。温容の言葉に相応しい先生のあの顔を。
 読者の誰でも、私が「慄然として」といふ驚愕の形容を使ふことを不思議とせられるかも知れない。私は読者に告げたい。事実、武内先生の温顔を知ってゐる者は、此の形容の真に妥当なることに賛成して呉れるに違いない。
 それ程武内先生の顔面は春風駘蕩である。それ程此の如き決意の表白が人に与へる印象は、先生の持つ温容さと或る峻烈な対象を為すのである。
 未だに矍鑠として御健在で、神戸市役所社会課の一吏員として救貧の業に勉励せられる武内先生を、日本基督教徒として持つことは我等の誇りである。
 武内勝先生の名は、私が想像する以上に日本の朝野に広く往き亘ってゐるかも知れない。近い所では、二月の中旬の神の国新聞に先生の簡単なアウトラインが出ていた。或いは基督教家庭新聞に、或いは諸種の小雑誌に先生は直接間接に我々に紹介されてゐられる。然し、卓抜なる才幹に恵まれてゐられない先生の名前は「輝きを放つ」にあらずして、所謂「地味浸潤」の類である。
 さりながら、天国に若し人間の真価を記載するノートの如きが備わってゐるなら、私は敢て考える。先生の如きは特筆大書さるべき位置の与えへれる人である。そして天賦の器とそれに準じて信仰を以て活き抜く比率を正確に計る機械が天国に備ってゐるなら、実に我が武内勝先生の計算表は殆ど百点に近いでだろう。或は満点を越すかも知れない。
 父なる御神の綻びてゆく笑顔を、私は眼のあたりに眺める気がしてならない。
 それ程、武内先生は逆境征服した健闘の人である。そして凡ての悲運を信仰を似て制御した勇者の例に洩れず、先生も血と涙の人である。涙の人である。
 先生は嘗て詠われた。

 “貧しき人の、友となります。
  死ぬ迄も、幼き子供に、御恵みを、与えてください。
  一枚の衣でも、悪い環境に育つ子に、天の恵みを祈ります。“

 此の小さい詩は数年前、先生の示された小さい紙片に記されてゐるのを一寸拝見しただけなので、或いは私の記憶に間違ひがあるかも知れない。
 私は此の詩を読んで事実泣かされた。今でも瞼の熱くなるのを覚えるが、此の余り上手とは見へない詩の一節に、先生の活ける四十四年間の貴い精神の結晶を見た感がしたからである。
 率直に言はう。武内先生は、「死線を越えて」に出て来る竹田なる篤実な青年のモデルである。又「一粒の麦」の主人公嘉吉の後半生のモデルでもある。そして私の信仰上の先生である。
 「体を八つ裂きにして此の身をキリストに捧げたいと思った。」
 昨日も今日も、又明日も天の運行に歩調を合わせて往く如く、業務の余暇を挙げて貧者の友と成って働かれる一見平凡に感ぜられる先生の肺肝かかる熾烈な信仰が潜められてゐる様とは思わなかった。
 私は只慄然として頭垂れ、先生の過去を追想せざるを得ない。
 二宮尊徳翁は幼児から独立の気性が強かったさうであるが、武内先生も赤貧の中から、不屈の魂を以奮闘された。
 十四歳の勝少年は既に人生の嵐を経験しなければならなかった。父用三氏は幾多の鉱山事業で失敗するし、幼い弟妹を抱えて母の面倒を一身に引き受けねばならなかった。勝少年はさぞ悲涙に暮れて、故郷備前の国長船の農村に訪れた冷たい逆風を恨めしく思ったことであろう。
 行き暮れた生計の中で食を採ることを潔しとせられ無かった少年勝は、単身岡山に出る覚悟を決めた。その血潮の中には名工長船の熱塊に等しい負けじ魂が在った。明治四十年五月二十四日のことである。
 寒村を跡にする少年の眼には尽きぬ涙があった。中国山脈の脚下に伸びて広がる八十戸から成る寂しい村の遠い外れに立った少年は、絶命の思ひの中から朧げに我が身を託する天地の霊に呼びかけたであろう。

 「草鞋を履いて私は遠い旅に上ります。母と弟妹に御恵みがあります様に。」

 さらば、故郷よ。
 彼は握り拳で両眼の涙を拭くのであった。草鞋は梅雨の泥土に濡れて行った。
 岡山へ辛うじて着いたが何処の世界も冷たかった。死の誘惑に打ち勝ってその年中、食ふ才覚をしなければならなかった。彼の無類の忍耐性は徐々に高められて行ったが依然糊口に窮しなければならなかった。
 東の風の便りに聞くと、大阪は景気が良いとのことだった。一面不安な気持ちがしたが矢も楯も堪らぬ気が、運を天に任しての旅路を急がせた。
 明治四十一年一月元旦の朝、笠岡発の和船は天保山に着いた。内海の航路の間中、彼は幾度星と波に己の運命を尋ねたことだろう。幾度冷たい蒲団の中から迫り来る死の予感に体を震わせたことだろう。
 来て見れば流石に大阪は大きい街であった。元旦の朝は景気が良かった。波止場の端に降りて大阪の土の臭いを嗅いだ彼は感慨無量だった。勇気を身内に覚えると共に郷愁の涙に誘われて行った。彼は繁華な通に足を入れると共に正月の賑やかさに丸い眼を瞠らせて、宿を探した。
 「それから黍団子屋を始めましてね。日本一と銘打ったのです。一日町を歩いて二升の団子が売れましたよ。六十銭の総売上高で口銭はその半分の三十銭でした。
 その時のことです。今でも忘れられぬ思ひ出話ですが、大阪の九条の花薗橋の上に荷物を肩にして差し掛かったのですが、実際寒くてね、手がちぎれさうでしたよ。すると前から四十格好の伯母さんがやって来るのです。私の顔をジーツと視てゐましたが、何と思ったのか私の傍へつかつかと寄って来ましてね、懐から焼き芋を取り出して私に食べなさいと言ってくれるのです。私はその時言葉が出ませんでした。受け取ってその焼き芋の暖かさで体を温めながら見知らぬ伯母さんの過ぎて往く後姿を合掌して拝みました。ホロホロ涙が出て仕方がありませんでしたよ。その時私は泣きましたよ。」
 武内先生は今でも此の思ひ出話をせられる時泣かれるのである。そして我々も貰い泣きをするのである。
 その中、日本一の少年に売られる日本一の黍団子の販路も少なくなって行った。春四月の初め、九条の宿屋の一室で勝少年は思案をした。

 「そうだ。蚤取粉を売ろう。夏は暑いから蟲も出るぢゃろ。」

 辛苦の中にも、楽天の気性を残してゐた少年は、人々の勧めに従って神戸に行くことにした。
 神戸の南京虫が、先生を神戸へ引き付けたと考えると、一抹の諧謔を覚えるではないか。善良なる精神に恵まれた勝少年だが、幸か不幸か、商才に欠けていた。蚤取粉屋から鯛焼屋に、ドラ焼屋に、更にマッチ貼りに、丸い額に思案の苦皺を浮かばせての奮闘生活が始まった。さうした間に故郷から家族を迎えねばならなかった。
 神戸新川貧民窟での丸半ヶ年間の木賃宿生活を引払って勝少年は三町程北の八雲通りの二階を借りることにした。己を加へて母子五人の血の滲む生活が之から始まるのであった。
 働き手は彼独りだ。東亜エナメルへ就職した時一日の日給十二銭を戴いたが、十二銭の銅銭を持って帰る彼の心は重く沈んでゐた。母は腎臓で寝たり起きたりだ。弟は三人あっても皆頑是ない。疲れた四肢を鞭打って夜業に出なければならなかった。
 武内先生は涙ぐんで語られるのである。

 「時世が変わったもんですね、あの頃は膏薬を売りに行くのに袴をわざわざ着けて提灯を持ったものです。鞄の中に膏薬を詰めて小路から小路を廻って、「ハー膏薬」と唸って歩いたものです。その唸り声が中々思ふ様に出来ませんのでね。人の居らないところで小声で稽古したもんですよ。恥しかったから――実際往生しましたよ。通行人から「こら新米」と言って冷やかされたり、「もっとはっきり言え、膏薬なら膏薬と」と怒鳴られたり、いや目も当てられませんでしたよ。」

 五十枚売る為に、少年はどれ程苦労したか。幾度星を見上げて泣いたことか。五十枚売って終ってやっと二十銭の利だった。売れても売れなくとも帰る道すがら、彼は彼自身に課せられた労苦に泣いて行った。
 帰宅すれば三つになる弟が食物をねだる。母の看病はしなければならず、薬代を差引いた僅かの金で食うべき運命にある一家族は、お粥と芋で一日を済ます時が幾度もあった。

 「三つの弟に食べさせるものが何も無い時は、貧乏の辛さを泌々と感じましたよ。近所の中学生の通行姿を見ては電柱の蔭で人知れない涙を流しましたよ。何しろ三百六十五日の間休みの日が一日もありませんでしたのでね。」

 かかる苦労を経た人が現在同じ時世に生きて、熱烈な信仰を以って生活と苦闘して行ってゐられる事実を、若き人々は忘れてはならないのである。寔に活ける証明である。失望に沈み易い弱き魂を叱咤する活ける証明である。武内先生の行路には、如何なる時にも奮闘の二字が流れてゐる。涙の生活の連続の中から立ち上がって生きるだけ生きて往かうとの不断の克己の記録であった。かかる生活の間に在っても些かの歪曲を霊魂に齎さないで、純に眞に純に次の生活を開拓されたことは驚嘆の他はない。
 現在でもさうであるが、先生と対座してゐると、絶望するな、必ず道は拓かれるとの励ましを受ける気がしてならない。恐らくそれは先生自身の苦闘とその勝利の結晶が、先生の心魂に宿ってゐて、弱い魂を無意識の中に鞭打って下さるからであらう。
 勝少年は独立の生活に憧憬れる様になった。或る日の事、工場主の前に出て素直に所志を披瀝した。

 「貝ボタンを自宅でやらうと思ふんです。少しでも生活の為に考えなければなりませんので」

 生活の問題を考えるべく宿命づけられた少年は真情を吐露して今後の方針を主人に話した。
 主人は泣いて引留め様とした。

 「お前に去られることはわしは子供に死に別れる思ひがする」

 主人の涙は止まらなかった。それに引き連れて少年勝も哀別の悲しみに沈んで行った。然し意志の強い此の少年は自ら発見した指針の下に生活を始めるべく工場の門を出た。
 勝少年は独特の計画に従って自宅を工場にした。必要な機械を揃へて先ず自分一人から貝ボタンの製造に着手して行った。
 先生の回想の物語を聞かう。

 「仕事って面白いものです。時計を傍に置きましてね。針が動くに連れて、歌を唄ひながらボタンを作るんですよ。どうしても一時間に二百個こしらえる積もりですと必ず出来ますが、時計なしですとつい能率が上がりませんね。つまり十五分間に五十個作るわけです。朝早うから夜遅うまで働きまして、二千個はきっと製造しましたよ。仕事って一生懸命やれば面白いもんですね。」

 機械も一台より二台へ、更にもう一台と言う様に追加された。従って自分一人では手が廻らないので雇わねばならなかった。勝少年は十七歳にして遂に二十名の雇用者を持つ親方となった訳だった。

 「それから賀川先生が、私の父の依頼に応じて、私の宅へ聖書講義に来て下さいましてね。私は耶蘇教を信ずる様になって現在に立ち至りました。それからべったり此のイエス団に来る様になりました。」

 武内先生は温顔を更に綻ばせてニッコリとせられた。
 武内先生の青春はかくして一回の失敗も無くして過ごされて行った。信仰を杷持してからの先生の活動は世間周知である。キリストの為に如何に十字架に架からんかが先生の全部であった。そして先生は賀川先生を唯一の師と仰いで尊敬してゐられる。

 父の御神よ
 我が世の旅路
 楽しかれとは
 祈りまつらじ
 負へる荷をさへ
 とりてとは
 いのりまつらじ

 三百六十一番のこの賛美歌は、武内先生の為に作られた様なものである。
 マーテルリンクは「蜂は暗黒裡に働き思想は沈黙裡に働き、徳は秘密裡に働く」と教へて呉れてゐるが、武内先生の今日の盛望こそ、徳は秘密裡に働くとの彼の言葉を雄弁に物語るものである。
 然し、先生自身は常に己の弱さと己の不徳とを人に訴へてゐられる。賛美歌が公衆に唱はれる最中、感極まってソーッと瞼にハンカチを当ててゐられる姿を見る時、此処にこそ弱きが故に我強しとのポーロの不滅の言葉を身を以って実証してくれてゐる活ける人間のあることを泌々と感ぜさせられる次第である。
 涙の人である先生の祈りは又いつも涙に依って始められ涙に依って終わるのである。眼を真っ赤にして涙痕の跡鮮やかな両瞼に白いハンカチを押し当ててゐられる姿は、私の大きい霊的魅力であった。
 パピニは言ってゐるではないか。

 「聖者にして、自らを聖しと思ふもの無し」とロダンは、バーナードショーの姿を三十分間に作り上げて、ショウの特徴を遺憾なく刻んだと言うが、先生のこの内部に悲しみを秘めて外に出さず、弱き己の中から常に新しい世界を創造して往く。貴いこの至愛の結晶の五尺二寸余の姿をロダンの前に三十分でもいいから置かせてゐただきたいものだ。否ロダンを武内先生の前に立たしたい。

 ロダンは言ふだろう。

 「武内勝氏の姿を刻む前には聖書のキリストの十字架に架かる條りを全部読んでかかりたい。勝氏の霊魂の立体化は、十字架への信仰なくして如何なる彫刻家も為し得ない」と。

 兎に角、先生はまだ生きてゐられる。心強いことではないか。嬉しいことではないか。諸君よ、共に欣ばう。我々の同志はまだ健在だ。そして我々自身が人生途上に逢ふ如何なる患苦も、それを共に悩み苦しんでくれる最も純粋の人がゐるのだ。否、遠方の人はよし武内先生の姿に触れることが出来なくとも、かかる人が日本の同じ土の上に今活き今生存してゐることを信じて、我々は励まされて共に元気よく立ち上がろう。
 その意味に於いて先生の姿は言葉なき激励の詩人である。(「雲の柱」第16巻第4号(昭和12年4月号)所収)