忘れてはならない人々 南京大虐殺フィルム上映のてん末

 賀川豊彦を語る時、忘れてはならない人達がいる。日本が戦争に突入していく暗い時代の中で賀川の平和への働きに深く絡んだ人達がいた。
 エリザベス・キルバン、ジェシー・トラウト、ドーン夫人、そして秘書ヘレン・ファビーユ・タッピング等の賀川・フェローシップ・ハウスにいた宣教師達である。これまで「雲の柱」等で紹介した日本人の“万年筆”達と同じように、彼女達も賀川著作の翻訳や、伝記を執筆し、賀川の働きを海外に紹介する大きな役割を果たした。その知られざる働きの一端を紹介したい。
 タッピングが、賀川の特命で、ナチス胎動の欧州へ視察に出かけた1937年冬、中国では日本軍による侵略が行われていた。欧米のマスコミが報じた日本軍部の侵略の事実を、つぶさに報告したタッピングからの影響もあってか、中国侵略を謝罪した賀川の詩“涙に告ぐ”を“To Tears”と英訳して、欧米に紹介したのはジェシー・トラウトであった。それは、1938年1月から5月の欧米の雑誌に、数多く掲載され反響を呼ぶ。その謝罪と関連して、1937年12月から翌年1月までの南京大虐殺を撮影した4本のうちの1本フィルムを、カガワ・フェローシップ・ハウスに持ち込んだ人がいた。当時、中国での日本軍侵略の事実を、日、米、独の人々に知らせるために、日本にはミュリエル・レスターが、米国にはYMCAのジョージ・フィッチ、聖公会のジョン・マギーがそれぞれ運び、独には外交官ローゼンが送付した。世界巡回使節と称したレスターの持ち込んだフィルムを、ごく少数のキリスト教指導者達に見せたことをタッピングは記している。
 その指導者の名前でわかっているのは、賀川豊彦・ハルと小崎道雄である。その他の誰がいたかは不明であるが、結局このフィルムを公開するには、あまりにも影響が大きいこと等を考慮して、この事実を書き記したタッピングの記録だけが残されている。
 その後、レスターのフィルムは、米国や英国にわたり上映され、日本軍の残虐な行為を、欧米の人々に知らしむることとなった。賀川の古くからの友人でもあったレスターの危険な行為は、タッピングの庇護なしにはなしえなかったであろう。ちょうど60年前のできごとである。
 1937年冬のオランダの新聞は“賀川の巡回使節”タッピングの働きを報じている。それは、最近出版された2冊のレスター伝の題名“世界巡回平和使節”とよく似ているようにも思える。だが、平和主義者賀川の手足となり、海外での情報活動を支えた働きは、平和運動家レスターに比べれば報われぬものがある。
 賀川の海外での活動に、深く絡んだタッピングの遺品を、筆者は数年前に米国から貰い受けてきた。その中に、スクラップ・ブックを使用したタッピング一家のアルバムがあった。盛岡バプチスト教会と、盛岡幼稚園の写真のものがたる事実は、タッピング夫妻のこの事業に深く絡む長岡家との関係を伺わせるものであった。そのアルバムの一枚に、女優長岡輝子さんが写っていたことからこのアルバムが物語る事実が読めてきた。
 米国に帰ったヘレンは、オレゴン州の病院で孤独な最期を迎えたという。しかし彼女の孤高なまでの比類なきスポークスマンとしての働きは、娘を賀川の秘書のと望んだタッピング夫妻の望み通り、その期待を裏切らなぬものであったことは、賀川の欧米での評価をみればわかるような気がする。(松沢資料館研究員 米沢和一郎=賀川豊彦記念松沢資料館ニュース1998年3月1日号)