「正当な評価」の環境整わず 賀川豊彦−47、48年ノーベル平和賞候補

 2009年10月7日、毎日新聞朝刊の文化面に「「正当な評価」の環境整わず 賀川豊彦−47、48年ノーベル平和賞候補」と題した記事が掲載された。毎日の賀川シリーズ第二弾である。
 1947、48年とノーベル文学賞候補だった賀川豊彦 【毎日新聞】

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 8日に行われるノーベル平和賞の発表を前に、社会運動家賀川豊彦(1888-1960)が47年、48年の文学賞候補だったことが明らかになった、戦後間もないころ、日本の作家を国際社会はどう見たのか。どんな評価を下したのか。スウェーデン・アカデミーの未公開資料をもとに、ストックホルム在住のジャーナリスト、クリステル・デュークさんに、選考の背景を報告してもらった。
 47年に初めて賀川を推薦したのは、スウェーデンの教会史の権威として知られたクヌット・B・ウエストマン(1881-1967)だった。
 推薦文は簡単なもので推薦理由などは記していない。ウエストマンは中国布教の経験があり、キリスト教関連の人脈などから賀川に目を向けたのではないかと思われる。
 この年、候補に挙がったのは全部で35人。一次選考を前に、スウェーデン・アカデミー会員で作家のペール・ハルストロム(1966-1960)が、賀川の経歴や業績を報告書にまとめた。
 表紙にトヨヒコ・カガワという手書きの文字が入ったファイルに報告書が収まっていた。タイプ用紙で全9枚。黄変しているが、字は鮮明だ。神戸の貧民地区での改革運動、活動中に失明の危機に見舞われたこと、献身的な妻などにも触れながら、<傑出した日本のキリスト教伝道者、社会運動家>の生涯や業績を詳しく紹介している。作家が書いた報告書だけに、短編小説のように生き生きとした表情だ。
 だが、賀川の『死線を越えて』などの自伝的小説については「自らの経験を網羅的に述べようとしており、繰り返しもみられる。文章は単純で、洗練されていない」と批判出来だった。
 報告書は次のような結論を下した。
 <日本のキリスト教伝道者として、また理想を追求する人格などは高く評価するが、偉大な作家の資質を彼の著作から見出すことはできない>
 新進気鋭の作家たちがこの年、初めて候補になり、いずれも落選した。たとえば、米国のアーネスト・ヘミングウェーを<男性的でパワフル、新しいスタイルを創造した>と指摘したが、<しばらく見守りたい>と判断は先送りされた。ソ連のボリス・パステルナークについては<抒情的な芸術家で精巧な技術の持ち主>と論評したが、<受賞に値する段階に達していない>と留保した。ヘミングウェーの受賞は54年。パステルナークは58年まで待たねばならなかった。47年の受賞者はフランス人作家、アンドレ・ジッドだった。
 世界的冒険家として知られるスベン・ヘディン(1865-925)が48年、再び賀川を推薦した。推薦文は残っていない。ヘディンは13年に同アカデミーの会員となり、文学賞の選考にあたってきた。会員は口頭でも指名でき、文書は出さなかったようだ。
 01年の創設以来、文学賞は13年のタゴール(インド)を除いてすべて欧米の作家が占めてきた。アカデミーでは30年代以降、アジアなど欧州以外で候補者を探そうとしたが、適任者が見つからず苦慮していた。現アカデミー会員のチェル・エスプマルクの文学賞史についての著作によると、ヘディンは数少ないアジアの専門家とみなされていたという。
 ヘディンは中央アジア探検の帰途、1908年11月に訪日して約1カ月滞在、明治天皇はじめ各界の要人と会ったり講演するなど、大歓迎された。このときの好印象や日本への親近感、アジア専門家としての責任感が、推薦の背景にあったのかもしれない。
 賀川についての報告書は47年と同じものが使われ、新しい情報は追加されていない。<昨年の専門家による方向に基づき、今回もアカデミーは推薦できない>が最終判断だった。
 前年同様、この年も32人の候補による激戦で、フランスのアンドレ・マルロー、ドイツのトーマス・マン(2度目の候補)、ソ連のミハイル・ショーロホフなどが候補者に名を連ね、結局、受賞したのは、前年<若すぎる>と見送られた、米国出身で英国籍の詩人、T・S・エリオットだった。
 賀川は、戦前から戦後にかけて北欧で最も有名な日本人だった。30年代、『死線を越えて』はじめ数冊の著作がスウェーデン語に翻訳出版されて、「アジアの聖人」とも称された。36年、スウェーデンの消費者団体、教会組織などの招きで賀川がスウェーデンを訪問したときはちょっとした賀川ブームが起こった。集会が連日のように開かれ、王室メンバーも出席した。スウェーデン紙の記者はオスロに出向いて賀川にインタビューし、賀川が生協運動に注目しているとの記事を書いている。賀川への関心は戦後も衰えず、90年代にもスウェーデン人作家による賀川の評伝が出版された。
 社会運動家や伝道者として著名だったのに比べ、スウェーデン語や英語で読める賀川の文学作品は限られていた。スウェーデンの大学に日本語学科が開設されたのは60年代。賀川が候補になった40年代には、著作を日本語で読み、正しく評価できる専門家はおらず、日本文学を理解する環境は整っていなかった。【クリステル・ヂューク=訳・佐藤由紀】

 選考過程 徐々に明らかに

 スウェーデン・アカデミーによると、賀川豊彦に続いて58年、作家の谷崎潤一郎、詩人の西脇順三郎が候補に推薦された。解禁されているのは50年を過ぎた資料で、現時点では58年の分までしか確認できない。
 とはいえ、同アカデミーが出版にかかわった著作などから、その先の選考の一端がのぞける。たとえば『ノーベル賞ライブラリー・川端康成』(71年刊)の序文によると、谷崎は米国のパール・バックらに推薦された58年以降、65年に死去するまで欧州や日本の推薦によってたびたび候補に挙がった。60年代以降は西脇、川端康成三島由紀夫の3人が有力候補に加わり、中でも川端と三島は谷崎と並ぶ作家と位置づけられた。谷崎亡きあと、アカデミー内では「2人のどちら」を選ぶべきかの議論が交わされたという。
 秘密のベールに包まれている文学賞の選考過程だが、未公開資料の解禁によって少しずつ事実がわかってきた。今年のノーベル文学賞と並んで、歴史上のサプライズにも期待したい。【佐藤由紀】